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第三章  狼


 翌朝……。午前五時。

 旅館の朝は早い。東の空が白み始める頃、川住旅館の炊事場にはもう灯りがついていた。

 朝食は七時からだが、六時半までには全て準備万端にしておかなければならない。この日は壮介の他に二組の宿泊客がいる。

 この日の客は単なる観光客だが、これが釣り客になるともっと早くから用意しなければならない。中には朝食を用意し、客が出て行った後に、ようやく眠れるという時もある程。この辺りは釣りのポイントが到る所にあるので、そういった釣り客も珍しくはないのだ。

「千草ー、ご飯仕掛けてくれた?」

「うん。あ、アジの干物何枚解凍したらいい?」

「お客さんの分は六枚。あとうちらの分四枚ね」

 炊事場では千草と喜美恵が朝食の準備に勤しんでいる。朝早くから、テンション高く働いているが、二人にとってはもう慣れたものなのだろう。父の清太はこれより先にもう漁に出かけてしまっている。まさに早起きファミリーである。

「ねえ、お母さん」

 千草は冷凍庫から出してきたアジの開きを手に、自分の前を横切っていこうとした喜美恵を呼び止めた。

「朝食が済んだら、私ちょっとお客さんと出かけるね」

 それを聞いた喜美恵は意外そうな表情をみせた。

「別に構わないけれど、何の用で?」

 喜美恵が表情を変えたのは一瞬。すぐに朝食の準備に戻り、手を動かしながら応えた。

「新谷さん、祭の前に島内を観光するんですって。だからガイドになろうと思って」

「……」

 それを聞いた喜美恵は無言……。娘の考えに呆れているのだろうか?

「……そうね」

 しかしその表情には、どこか影がある。眉間にも皺ができていた。

「この島、けっこう入り組んでいるでしょ。だから迷子になったら厄介じゃない? それに……」

 千草は持っていたアジの開きをステンレス製のテーブルの上に置き、ガスコンロの前へと移動した。

「……祭の前だから……ね?」

 千草が言い終わると同時にボッという音がして、青い炎がゆらゆらと揺れていた。

 その表情は笑っているのか、それとも哂っているのか……。

 


「ああ……、おはようございます」

 七時過ぎ、二階からまだ寝ぼけた表情の壮介が、一階の食堂へと現れた。壮介が食堂に入ると、食事が置かれたテーブルが三つ。先客は一組いて、もう食べ終わろうかという状況。あとの二つのテーブルは、手付かずの朝食が置かれたものと、もう食べ終わったもの。つまり、壮介が一番起きてくるのが遅かったというわけである。

 壮介が自分のテーブルにつくと、炊事場へと続くドアが開き、喜美恵が味噌汁をお盆に載せてやってきた。

「おはようございます新谷さん」

「おはようございます」

 挨拶はするが、壮介の目は完全に開いてはいない。壮介はまず目を覚ますため、喜美恵が持ってきてくれた味噌汁を口にした。

「今日はどちらへ行かれるのですか?」

 喜美恵は食べ終わったテーブルを片付けながら、壮介に訊ねた。それを聞いた壮介は、味噌汁のお椀を口元から離した。

「ああ……、日中はあまり考えてなくて……。とりあえず祭までは島を探検してみようかなって思ってます」

 壮介はそう言いながら、寝癖のついた頭をポリポリと掻いた。

「そうですか、今日も暑くなりそうなので、陽射しには気をつけてくださいね」

「あ、はい」

 そして喜美恵は、片付けた食器をお盆に載せ、食堂を後にした。

「…………」

 壮介は喜美恵の姿を追いながら、箸で目玉焼きを突っついていた。

 そして喜美恵の姿が見えなくなると、ボソッと呟いた。

「えらく、わざとらしいな……」

 箸で突っつかれた目玉焼きは、黄味の部分が破れ、半熟の黄味がトロッと溢れだした。


 朝食を終えた壮介は部屋に戻り、敷きっ放しの布団を片付け、着替えを済ませた。着替え後、壮介は部屋の窓を開けた。視界に広がる風景は、どこまでも青い空と、真っ白な雲と爽やかな夏の朝なのだが、体感的には刺す様な陽射しと、染み渡る熱気、そしてセミのけたたましい鳴き声で、これからどんどん暑くなってくることを、壮介は身を持って感じた。

 次第に額から汗が滲み出してきた壮介は、部屋の隅に置いてあるカバンからタオルを取り出し、汗を拭ってから首に巻いた。

「コンコン」

 カバンからタオルを出したついでに中身の整理をしていた壮介の元へ、千草がやってきた。

「おはよ。あれ、何だかオジさんみたいになってる」

 この時の壮介の格好は、白いTシャツにベージュのパンツ。それに首からタオルをかけているというもの。この旅館によく出入りしている釣り客のような格好だ。

「夏はみんなこんな格好になるんだよ」

 そう言いながら壮介は千草の方へ振り返った。壮介の手にはカバンから取り出したカメラが握られている。

「あれ、カメラ?」

「そうだよ。この島に何しに来たんだよ? 写真撮影が目的なんだから」

 すると千草は壮介の元へと近付き、ジッとカメラを凝視。

「何か……カメラまでオジさんぽいね」

 それを聞いた壮介は苦笑した。このカメラは壮介の私物ではなく、「ともだち」のカメラ。「ともだち」は男性ではなく、壮介より少し年上の女性だ。

「ところで、今日はどこを案内してくれるんだい?」

 壮介は視線をカメラへ落とし、レンズを整備し始めた。

「う〜ん、適当と言ってしまえばそれまでなんだけど……、まあこんな島だから、いちいち名前のついた名所なんてそんなにはないよ。ぐるっと一周するカンジかな」

 千草は人差し指を顎にあて、思案するように答えた。それはまるで計画性のないもので、あたかも今考えた様子。その眼鏡越しの視線は壮介の方を向いてはいなかった。

「……そっか、何か悪いな。わざわざ案内させて」

「いえいえ、お客さんの接待は、従業員の務めですから!」

 千草はそう言って胸を張り、目を細めた。

 そして次の瞬間、千草の瞳の色が若干変化したのを、壮介は見逃さなかった。

「それに……」

「お化けが出るから……かな?」

 千草が言い切る前に、壮介が言葉を被せた。千草は一瞬目を丸くしたが、すぐに元の表情へ戻った。

「おかしい?」

 口元を若干緩ませている壮介の表情を見て、千草は訊ねる。

「あー、はは……」

 少しバツが悪く感じたのか、壮介は再びカメラへ視線を落として整備のため外していたレンズをボディに装着し、ジャケットを被せた。

「別にバカにしているわけじゃないけれど、これでも写真家の真似事をしている身なんでね。一度くらい、そういうものに対面してみたいね」

 そして壮介は立ち上がり、千草の元へ近付いた。

「それじゃ、案内よろしく!」

 壮介は敬礼ポーズを作り、先に部屋を出て行った。

 そしてその後へ続くように、千草も部屋を出て行った。

「フフ……」

 千草の口元だけが、微かに緩んでいた……。



 トゥルルル…………

 セミの鳴き声以外何も聞こえなかった部屋に、電話の呼出音が響いた。三、四回鳴った頃、パタパタと畳の上を早足で駆ける音が聞こえてきた。

「はい、もしもし……」

 受話器を取ったのは若い女性。受話器の向こうからは、これもまた女性と思われる声が響いている。

「そう、もうすぐ船着場に着くのね。今から迎えにいくわ」

 その後女性は何度か相槌をうってから、受話器を置いた。そして開け放たれていた窓とカーテンを閉め、押入れから扇風機を引っ張り出した。

「これ、まだ使えるかしら?」

 女性はコンセントをつなぎ、スイッチを押した。すると扇風機の羽は、ブゥーンという音を立ててゆっくりと回りはじめた。

「よし、いけるね」

 女性はスイッチを切り、部屋から出て行った。

 その女性、歳は二十代前半くらい。今まで何かの作業をしていたのか少し桃色がかった頬には雫が滴っている。女性は服の袖で汗を拭い、ゴムで束ねていた黒髪をパサっと下ろした。その黒髪は肩の下くらいまで流れていった。

「この格好でも大丈夫だよ……ね」

 女性は水色のワンピースという、至って部屋着というカンジ。

 部屋を出た女性は玄関へ向かい、下駄箱から白いサンダルを取り出し、それを履いて外へ出た。

「一年振りか……。だんだん帰ってくる間隔が長くなってきてるね」

 女性はそう呟き、小走りで船着場の方へと向かっていった。


 女性が走り去っていく姿を、玄関から見ている眼があった。

 その眼はまるで獲物を睨みつけるような、そんな鋭い眼光をしている。

 その眼は瞬きすることなく、ただただ玄関の向こうに広がる外の世界を睨んでいた……。


 

 ミーン、ミーン、ミーン……。

 セミの鳴き声が大きくなっていく度に、陽射しが強くなっていく。

 壮介の額や首には汗の雫が無数に浮かび上がっていた。

「今日も暑くなりそうですね」

「そうだな……」

 壮介は首にまいていたタオルを解き、それで額の汗を拭った。それでも汗は次から次へと浮かび上がってきて、完全に拭き取ることはできない。

「で、これからどこに行こっか?」

 顔面汗だくの壮介とは対照的に、全く汗をかいていない千草が涼しげな笑顔で訊ねた。

「案内される側の俺に聞かれても、困るんだけどな」

「冗談ですよ。取り合えず港の方へ下りてみましょうか」

 千草を先頭に、二人は港の方へ続く石段をゆっくりと下っていった。

 しばらく下っていくと、石段の終わりが二人の眼下に現れ、船着場前の十字路へと出てきた。

「ん、何か人がいっぱいいるな」

 昨日、壮介が島へとやってきた時と、船着場の様相が少し変わっていた。昨日船着場には人なんて殆んどいなかったが、今日は朝から数十人の人々が何やら慌しく作業をしており、とても賑やかになっていた。

「ああ、祭の準備ですよ。ほら」

 千草が壮介の横に立ち、指を差した。その方向には白いテントが建てられており、そのテントには「大神祭実行委員会」という文字が刻まれている。そしてそのテントから数人の男衆が、「大神祭」を書かれた幟を抱えて出てきて、船着場のあちこちに設置していた。

「お昼までには、神社に続く石段にも、あの幟が立てられますよ」

「へえ、けっこう大掛かりにやるんだな」

「まあね。他に何かある島ではないから……」

 千草の言葉に、壮介はゆっくりと振り返った。

「…………」

 千草が言った言葉は、何でもない言葉。

 しかし、その口調には、これ以上ないくらいの「皮肉」が込められているような感じだった。

「どうかしましたか?」

 自分の方を怪訝な表情で見つめ、声を発しない壮介に、千草は顔をしかめた。

「え、い、いや……」

 バツが悪くなった壮介は頭を掻いた。

 様子のおかしい壮介を見て、千草は首をかしげつつ、歩を進めた。その足は船着場の先へと向かっている。

 そして船着場の先端まで歩き、そこで立ち止まった。壮介も後を追い、先までやってきた。

 二人の周りには、船を待つ客はおらず、祭の幟を設置しようとしている男衆が二人いるのみ。

「新谷さんは、大神祭について、どのくらいまでご存知ですか?」

 千草は壮介の方へは振り返らず、目の前に広がる海のどこかを見つめながら訊ねてきた。

 壮介は答えに困った。この島に来たのは、あくまで「ともだち」の代わりに撮影に来ただけであり、この島のことや祭の概要について殆んど知らない。

 知らない……というより、判らなかった。この島について、場所やアクセス方法までは簡単に調べることができたが、この島の概要、特に祭についての資料が殆んど出てこなかったのだった。

「フフッ……」

 壮介が応えに困っていると、笑い声が聞こえ、そして千草が振り返った。

 確かに口元は緩んでいた。しかし眼鏡越しの瞳は……、

「無理もないです。何せこの島は、忘れられた島ですから」

 千草は長い髪をかき上げ、壮介の方へ向かってきた。

「……」

 壮介の表情から「緩み」が消えた。口を真一文字に結び、背筋がピンと張る。

「どうして、忘れられたと思います?」

 千草は壮介の前に立ち止まろうとせず、歩を進めた。

 そして、壮介の横に並んだ時、囁くように口を開いた。

「自分たちが、それを望んだからですよ」

 その言葉、誇らしげとも、嘲笑しているとも取れた。千草の言葉に、夏の陽射しが原因ではない汗が、壮介の頬をツーッと流れていった。

 周りから見れば、特段何てことはないやり取りなのかもしれない。しかし壮介にはどうしても、そう感じることができなかった。

 千草の口元は確かに緩んでいた。

 しかし、千草の眼鏡越しの瞳は……まるで別人のようだった。

 壮介はワシャワシャと、何かにとり憑かれたように両手で頭を掻き毟った。


 

「そうか、帰ってくるんだね。久しぶりだなあ、チエちゃんの顔をみるのは」

「はい。私もお姉ちゃんとは去年の祭以来で……。お正月もなんだかんだで結局帰ってきませんでしたから。やっぱり街が楽しいみたいですね」

「まあね。チエちゃんもすっかり街の色に染まってしまったのかね。こんな島でも、なかなか捨てたもんじゃないと思うんだけどなあ」

「そうですね」

 船着場の入口、古びた待合所の脇で、水色のワンピースを着た女性と、眼鏡をかけた中年男性が話をしている。二人は横に並び、海の向こうを眺めていた。

「しかし、遥ちゃんも大変だねえ」

「いえいえ、私はもう慣れましたから」

 遥という名の女性は目を伏せ、微笑んだ。

 その後もしばらく談笑していると、海の向こうからプップッという音が聞こえてきた。それは対岸に停泊していた渡船が鳴らしたもの。

「来るね。行こうか」

「はい」

 二人は待合所から離れ、船着場の先へと歩いていった。

 そしてその時、二人の前から歩いてくる人影があった。

「あら」

 遥たちはそのうちの一人に見覚えがあった。長い黒髪に眼鏡、千草である。

「千草ちゃん、こんにちは」

「あ、(はるか)さん。こんにちは」

顔見知りの二人はお互い軽く挨拶を交わす。そして遥の視線は千草のすぐ後ろへ向かった。

「ああ、この人は新谷壮介さん。うちのお客さんで祭の見物にいらしたの」

 遥の眼の動きに気付いた千草は、壮介の前からスッと横に移動した。

「どうも、こんにちは」

「どうも……」

 壮介と遥は軽く挨拶を交わした。すると千草は遥たちの横へと移動した。

「新谷さん、紹介しておきます。こちらが加美遥(かみはるか)さん。この島の網元で一家を切り盛りされています」

 千草の紹介に、遥は目を伏せ苦笑いをした。

「そしてこちらが瀬川智寛(せがわともひろ)先生。昔島にあった分校の先生。今は本土の学校に勤務されています」

「どうも、こんにちは」

「どうも」

 千草の紹介の後、瀬川は右手を壮介の方へ差し出してきた。少し遅れて壮介も右手を差し出した。

「先生に遥さん、今日は祭の準備でここに?」

 一通りの紹介を済ませた千草が、二人に尋ねた。

「違うよ。僕は……アレだから。たまたま港の前を通りかかったら、遥ちゃんに会ったんだよ。今日チエちゃんが帰ってくるんだって」

 すると千草が驚きの表情をみせた。

「へえ、千絵子さんが。すごく久しぶりな感じがしますね」

 そして千草、遥。瀬川が三人輪になって談笑しはじめる。三人は顔見知りでなかなか仲も良さそう。そんな姿を壮介は脇でポツンと眺めていた。

「ああ、ごめんなさい。置いてけぼりにしちゃって」

 しばらくして、脇で小さくなっていた壮介に気付いた千草が、パンと壮介の肩を叩いた。

「別に気にしていないよ。遥さんのお姉さんが久しぶりに帰ってくるんでしょ?」

 脇で小さくなっていた壮介だが、三人の話の内容は、大まかに掴めていた。遥が船着場にやってきた理由は、一年振りに帰ってくる姉の千絵子を迎えにきたということ。

「そろそろ行こうか。船もうすぐ着くよ。君たちも来るかい?」

 瀬川がそう切り出したので、四人は一緒になって船着場の先へと移動した。

 その移動の途中、千草は遥に近付き、耳元で何か囁いた。

 遥は少し戸惑っているような雰囲気だったが、最後は首を縦に振ると、千草は顔を耳元から離した。

 そして今度は壮介の方へ顔を近付けてきた。

「ん、何?」

 壮介の問いかけに、千草は耳元で囁いた。

「会わせてあげますよ……お化け」



 渡船が船着場に停泊すると、船内から次々と人が降りてくる。やはり祭当日のためか、昨日壮介がやって来た時よりも人数は多い。中には祭の法被を着た人もいたりして、その殆んどはこの島の関係者らしき様子であった。

 そしてそんな地元の匂いしかしない中、明らかに趣の異なる雰囲気のグループが混じっていた。

 穏やかな片田舎には凡そ似つかわしくない、メッシュの入った金髪にギャルメイク。まるで渋谷のギャルがそのままの格好でやって来たというカンジ。

 壮介が何者かと視線を送っていると、その姿をみつけた遥と瀬川が前に出た。

「お姉ちゃん、こっち!」

 するとギャルのグループはその声に反応し、右手を挙げた。

「遥、久しぶり!」

 右手を挙げたのは長い金髪に、黄色いTシャツ、ローライズのデニムパンツという、いかにもな格好。このギャルこそ、遥の姉である加美千絵子(ちえこ)である。

 そして千絵子の後ろには千絵子と同じようないでたちの少女と、金髪で真っ黒に日焼けした少年が続いていた。

志都美(しづみ)ちゃんもお久しぶりですね。えっと……そちらは?」

「アタシの新しいカレシの洋二君だよ」

 志都美は洋二の腕に絡みつきながら笑顔で応える。

「ども! 丸桑洋二(まるくわようじ)っていいます」

 洋二は遥に対して軽く会釈をした。まるでギャル男のような喋り方だ。

「ん?」

 千絵子の視線は遥の後ろへと向いた。そしてその中で、見慣れない人物を発見していた。

「アンタ誰?」

 千絵子は壮介の方へ指を差して訊ねてきた。その表情には露骨な警戒心が表れている。

「お姉ちゃん、指を差さないで! この方は千草ちゃん所のお客さんで、新谷さんといいます」

「ふーん……」

 千絵子は目を細め、壮介の顔を凝視する。しかし興味深くというカンジとは違い、どうでもいいというのが、千絵子の表情から見て取れた。

「チエちゃんはいつまで島に滞在するの?」

 微妙な空気を察知したのか、瀬川が話題を切り出してきた。

「ああ……、明日には帰るよ。祭を見に来ただけだから」

 千絵子は大きく背伸びをしながら応えた。背伸びの最後には大きな欠伸もついていた。

「チエ先輩、うちら先に行くね。荷物置いてきたらメールするから」

「あ、オッケ!」

 そして志都美と洋二は軽く挨拶をして、先に船着場を後にした。

「…………」

 壮介は二人の背中を目で追った際に身体を反転させた。

 その時、壮介は港の異様な雰囲気に気付いた。

「………………」

 それは港に集まる人たちの視線という視線が、自分たちの方をむいていたからである。

 確かに千絵子の一団はとても派手で目を引く存在である。しかしここまで注目されると、何だが異様であった。

 そして異様なのはそれだけではなかった。

 その視線を送る人たちの表情……それは決して好意的なものではない。

 壮介の眉間には一筋の皺と、一筋の汗が浮かぶ。

 そんな時、横にいた千草が咳払いをした。

「こんな所じゃなんだから、ちょっと移動しましょうか」

「……そうですね」

 千草と遥も、港の異様な雰囲気を察知したのだろう。周りの人間をせかすように歩き始めた。

「そうだ遥、私たちも島一番のお屋敷にお邪魔してもいいかしら?」

「えっ? ……ええ、勿論」

 遥は少し驚いたような表情をみせたが、すぐに元に戻った。

「いいですよね? 千絵子さん」

「別にいいけど……。そのニイチャンも来るわけ?」

 千絵子が再び壮介に向かって指を差そうとしたが、寸前で遥が払い落とした。

「勿論!」

「そんな胸張られてもね……。好きにしたら」

 千絵子は壮介に対して心を許していないので、乗り気ではないようだ。

 壮介はそんな千絵子に軽く頭を下げた。

「何かパッとしないねえ」

 千絵子は壮介の顔を見て、ため息をつくような感じで言った。

 それに対して壮介は頭を掻きながら苦笑いを作った。

「先生はどうされます?」

 遥の問いかけに、瀬川も苦笑いを作った。

「いや、私は遠慮しておくよ。私が一緒に行くと、色々マズいからね……」

 そして港の出口にさしかかった所で、一行から瀬川が抜けた。

 瀬川は手を振りながら、観光ホテルが立ち並ぶ一角へと消えていった。

 瀬川を見送った一行は、島の中央部へと続く石段へと向かって歩き始めた。

「下りてくる途中、おっきな屋根があったでしょ? あそこが加美家なの」

 壮介の横に並んで歩く千草が、そう説明する。

 しかし壮介は千草の声には反応しなかった。

 壮介の頭の中は今、何か釈然としないものが渦巻いていた。

 それは全て港での一幕に原因があった。

 自分たちを、まるで睨みつけるかのように見ていた島民たち。

 そして瀬川が去り際に言った言葉……。

 壮介はそんなモヤモヤと喧嘩するかの如く、頭をガリガリと掻き毟った。



 石段を五分程登った所で、先頭を歩いていた遥と千絵子が左の脇道へと折れた。壮介が二人の後を追っていくと、周囲とは明らかに大きさの違う屋根が顔を出した。遥と千絵子はその屋根の屋敷の中へと入っていった。

「あそこか」

「そ、ささ行きましょ」

 立ち止まって遥たちの背中を眺めていた壮介の背中を、千草が後ろから押した。

「フフ……」

 背中を押す千草は、何故か薄く、まるで悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。

「判ったから、そんな押すなって」

 門をくぐると、玄関先で遥が待っていた。

「さ、どうぞ」

 遥は笑顔で壮介たちを招き入れる。

「あ、はい。お邪魔します」

 壮介は遥に軽く頭を下げ、玄関へと入った。

 そして視線を玄関先に立つ遥から、正面の屋敷内へ向けた。

「うわっ!」

 次の瞬間、壮介は驚きの声を上げ立ち止まった。千草に後ろから押されていたということもあり、背中を反るような体勢になってしまったため、思わず尻餅をつきそうになってしまった。

 そして後ろにいた千草は、もう壮介の後ろにはおらず、遥の横に立っていた。

 まるで今の壮介の反応を予想していたかの様。

 壮介はどうしてこのようなリアクションをとってしまったのか?

 それは玄関奥の「あるもの」を見たからである。

 それは一見してとても恐ろしい物で、その眼光は見る人全てを威嚇し、喰らい尽くしてしまうのではと錯覚する程のモノ。

 鋭い眼光、口元から覗く鋭利な牙、そしていつ飛び掛ってきてもおかしくないような低い体勢で、それは壮介を睨んでいた。

 まるで目の前にいる獲物を狙うかの如く……。

「これは……狼?」

 よほど驚いたのか、左胸を抑えた状態で、壮介が声を絞り出した。

 玄関で壮介が目の当たりにしたのは、狼の剥製であった。

「あらら、こんなに驚くとは思わなかったな……」

 千草はこの壮介のリアクションは予想外だったようだ。

「すみません」

 何故か頭を下げる遥に、壮介は恥ずかしそうに頭を掻いた。

「いやいや、こちらこそ……。で、これは?」

 壮介の言葉、前半の部分は遥に向けたもの。後半の部分は千草に向けられたもの。

「これだろ? お化けの正体は」

 すると千草はニヤッと笑った。

「正解。これが新谷さんに見せたかったものの一つ。我らが大神島の守り神、大狼様よ」

 千草は先に家へと上がり、壮介に手招きをした。それに応えて、壮介も靴を脱いだ。そして壮介は玄関奥に鎮座する剥製へと近付いた。近くによると、剥製の精巧さと大きさを実感することができる。

「大神島は別名狼島と言われていて、昔から狼を神の遣いとして祀ってきたの。今日行う大神祭もその名残なの。今でも狼を島の守り神として、みんな畏れている」

 狼について語る千草は、今まで壮介が見てきた千草とどこか違っていた。

 どこか大人っぽく、そして神秘的な感じだった。

「島の年寄りは、今でもこの島のどこかに狼が潜んでいると信じているわ。だから、夜一人で出歩くのは、この島ではタブー中のタブーなのよ」

 壮介は千草の説明を聞き、狼の剥製をまじまじと見つめる。

 そして壮介はあることに気付いた。

「あのさ、これって……」

 すると、千草がニヤッと笑った。それは先程壮介の背中で見せたものと同じ。

「そうよ。それはニホンオオカミでもエゾオオカミでもない。日本の狼はこんなに大きくならないもの」

 すると玄関で靴を揃えていた遥が、壮介たちの元へとやってきた。

「この剥製は私の祖父が海外へ旅行に行った際、現地で購入してきたものです。確かに大神島は狼を祀っていますが、直接的な関係はありません。さ、こちらへどうぞ」

 遥が奥へと続く廊下へ、壮介を誘った。興味津々の壮介は狼の剥製に釘付けとなっていたが、千草に背中を押され、仕方なく奥へと移動した。

 剥製は壮介の方を向くことはなく、ただただ玄関先へ、その鋭い眼光を放ち続けていた。

 


「大神島について一番古い記述は室町時代の物で、その当時は罪人の流刑地だったようです。その後江戸時代初期頃に近くの漁民らが島に居を構え始めたと言われています。大神祭がいつ頃から始まったかについてはよく判っていません。江戸時代にはこの辺りにもニホンオオカミがいたという記述が、当時の文献に残っているので、狼という存在が島民にとって身近な存在であったことは確かなようです。どういう経緯で狼を祀りはじめたのかは諸説あります。那智大社の神が狼に姿を変えてやってきたとか、元々土着の信仰があったとか……。ただ当時の島民にはかなり畏れられていたのは事実のようで、文献によると明治になるまでは島の娘を生贄として捧げていたという記述がいくつもあります。そして明治以降からは島独特の神楽を奉納していましたが、この神楽を取り仕切っていた宮司様が戦災で亡くなってしまい、終戦後からは神具を祀る儀式を行うことで、祭を残していくことになりました」


 加美家において、壮介は祭についての説明を遥から受けることとなった。千草より遥の年齢を聞き、自分よりも若い十九歳と聞いて少々驚いていた壮介だったが、祭のことを伝える遥の姿はとても凛としており、歳上である壮介が思わず固まってしまう程であった。そしてそんな遥とは対照的に、姉の千絵子は遥の隣で足を崩し、一人黙々とケータイをいじっている。島のことなど我関せずという感じである。

 遥も千草も、そんな千絵子の姿を咎めようとはしない。この二人は千絵子がどんな性格をしているのかイヤという程知っているのだろう。だからあえて声はかけない。言うだけ無駄と踏んでいるのだから。

 そして遥の話が終わる前に、ケータイをいじりながら何の挨拶もせず、部屋を出て行った。

「スミマセン……」

 壮介と千草が加美家を出発する前、遥が壮介に向かい頭を下げた。言葉には出さなかったが、これは千絵子の無礼を詫びたものであった。

「いやいや、はは……」

 壮介もバツが悪そうに頭を掻いた。正直、壮介も最初は気になっていたのだが、遥も千草も一切咎めようとしなかったため、気にしないようにつとめていたのだ。

「遥さん、それじゃ私たちはこれで。突然お邪魔させて頂いてありがとうございました」

「ううん、こちらこそ。いつでもいらして下さいね」

 遥は笑顔でそう応え、壮介と千草を見送った。

「遥さん! それじゃ、また祭の時にね!」

「はい!」

 千草は手を振って応え、石段を登っていった。

 そして壮介は遥の方に軽く頭を下げ、千草の後姿を追いかけた。

 そして二人の姿が見えなくなり、遥は屋敷の中へと戻った。

「あら、姉さん」

 玄関を上がると、廊下に千絵子が立っていた。その手にはケータイが握られている。

「これから志都美らと会ってくるから。帰ってくるのは祭が終わった後ね」

 そう言うと、千絵子は遥を横切り、玄関へと下りた。

「さっきの……、変なヤツだね。ずっと目泳いでたよ」

「姉さんがあんな態度とってたからですよ、きっと」

「フン……」

 そしてその後、千絵子は何も言わず加美家から出て行った。

「…………」

 遥は振り向かなかった。

 振り向かなかった遥の視線の先、

 そこには狼の剥製があった。


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