第十四章 真相
一
東の空が暗くなり、夏の太陽がようやく沈んだ頃、診療所から二人の老人が出てきた。一人は喜志で、もう一人は診察に訪れた島民であった。
「ほな先生、遅くまでありがとうございました」
「ええてええて。薬は朝晩一回じゃてな。またなんかあったら来るとええ」
この老人が今日最後の患者だったようで、喜志は薬の入った袋を渡し、玄関まで老人を見送った。
老人は手を振りながら家路へ向かう。喜志はその姿が見えなくなるまで扉の前に立っていた。
もう完全に陽が暮れ、小さな外灯が申し訳程度に辺りを照らしているだけで、これから島は漆黒の闇に包まれようとしていた。
「さてと……」
老人の姿が見えなくなると、喜志は「診察中」と書かれたプレートを裏返し、中へと戻る。
喜志は待合室の床をホウキでさっと掃いた後、ソファに座る。
そして一度、大きく息を吐いた。
その表情は何か思いつめているような様子……。
喜志は十分程そのままの状態で過ごす。
そして……、
「そろそろじゃな……」
まるで何かを諦めたかのような口調で、ボソッと呟いた。
それと同じ頃、大神神社横の捜査本部で動きがあった。
「歌藤主任!」
鑑識課の人間が数人、捜査本部へ慌しく入ってきた。玄関にいた制服警官が応対し、歌藤と長渡のいる二階へと案内する。
「失礼します!」
「おう、お疲れさん!」
丁度食事中だった二人は弁当を隅の方へ移動させる。鑑識はやや慌てた表情で部屋へと入ってきた。
「主任、新居志都美と川住千草両名の解剖結果が出ました」
鑑識の一人が封筒の中に入れられていた書類を歌藤に渡す。
「おう、どうだった?」
「はい、死亡推定時刻と死因については現場の判断とほぼ相違ないです。ただ……」
ここで説明を続ける鑑識員の表情が険しくなる。
「ん、どうかしたのか?」
「実はですね……、新居志都美と川住千草の外傷なんですが、調べてみたら妙なんですよ」
「妙とは?」
すると鑑識は書類を何枚かめくり、あるページを歌藤に提示する。
そのページに記されているのは外傷と凶器の整合性について。
「犯行に使用された凶器ですが、大神島の人間が狼の爪と呼んでいる神社の神具とみられています。しかし被害者の身体につけられた傷と、レプリカの狼の爪と傷痕が一致しないんです。もっと言うと、被害者につけられた爪痕でどれを取っても平行についているものがないんです」
歌藤は鑑識から提示されたページに食入る。
「つまり、凶器は別にというわけか」
「はい、そういうことになります」
鑑識の見解はこうである。
もし凶器が「狼の爪」である場合、それぞれの傷に長さや深さ、傷と傷の距離等、一定の法則性がなくてはいけないのだ。しかし志都美と千草につけられた傷に、そのような法則性が見受けられなかった。
二人につけられた傷は法則性なくズタズタにつけられたようなもの。このような傷、「狼の爪」でつけることはできない。
つまり二人を切り刻んだ凶器は、別の何らかの刃物ということになる。
「あともう一つ……」
鑑識が次のページをめくる。
「川住千草の衣服から、微量ではありますがあるものが検出されました……」
そして鑑識は透明の袋に入れられた「それ」を見せる。
………………
こうして捜査本部も、事件の真相へ、一歩一歩近付いていこうとしていた。
二
時刻は夜九時を回ろうとしていた。
街ではまだまだ宵の口だが、ここは忘れられた過疎の島。港以外は漆黒の闇に包まれ、外には人っ子ひとりいない。
そんな闇の中、診療所の一角からわずかに光が漏れている。ちょうどそこは診察室がある所。
診察室では喜志が一人机に向かっていた。特別何か作業をしているわけでもなく、ただ煙草をくゆらせている。午後診が終わってからずっとこのままでいたのか、灰皿には吸殻が十数本潰されていた。
「…………」
喜志は無言で煙草をくわえる。それ以外、何も動作しない。その姿は喫茶店かどこかで待ち人を待っているヘビースモーカーのようだ。
しかし喜志の表情は「待っている」ことに対する喜怒哀楽が全く感じられない。達観した……というよりも、どうにもならないことへの開き直りともとれる諦めの念を感じさせた。
「…………」
喜志の身体は呼吸と煙草をくゆらすこと以外では動かない。後ろからみると眠っているように見えるが、その老いた瞳はしっかりと開かれ、左眼は少し充血していた。
そんな状態で、この日の夜はどんどん更けていく。
今までくわえていた煙草が短くなったので、喜志は今日十何本目の煙草を灰皿に押し潰す。そして十分程経ってから、煙草の箱へ手を延ばす。
そして新しい煙草を取り出し、ライターで火をつけようとしたその時……、
喜志のライターを持つが止まった。
喜志はライターを煙草に近付けたままの状態で静止して息を潜める。
耳をすませると、小さな音が聞こえる。
それは足音のようで、診察室の方へと近付いてきていた。
その足音は次第に大きくなり、そして診察室の前で止まった。
ガチャ ギイィ……
扉はノックもなく静かに開いた……。
「新谷君!」
診療所の真っ暗な廊下から顔を出したのは、昼に島を出発したはずの壮介であった。まさかの登場に、喜志はくわえていた煙草を床に落とす。
「どうも、夜分遅く失礼します」
壮介は右手で敬礼ポーズを作り、診察室の中へと入ってきた。その姿は昼に診療所を後にした時と全く変わっていない。どうやら自宅に戻ってすぐトンボ帰りしてきたわけではないようだ。
「いやあ、それは構わんが……、一体どうしたんじゃ?」
喜志は立ち上がり壮介を迎え入れる。さすがの喜志も、壮介の登場に混乱している様子だ。
「え、いや、はは……」
壮介は笑いながら頭をポリポリと掻く。
それはこの島で壮介が何度も見せる姿。
しかしこの時のそれは、いつものそれと少し違っていた。
壮介の眼は、笑っていない……。
壮介は今、身体は診療所の診察室で、目の前にいる喜志の方を向いているが、その全神経は全く違う場所へと注がれている。
「ちょっとね、餌をまいてみたんですよ」
「餌とな? ああ、まあ座りぃな」
喜志は壮介の言葉に戸惑いながらも、隅に置かれていたパイプ椅子を取り出そうとした。
「あ、待って!」
しかし壮介はその喜志の動作を制止する。壮介は喜志の手を止め、自分の口元に人差し指を立てる。
……カチャ……
遠くの方で、扉が開くような音が聞こえた。耳をすませなければ聞こえないくらい小さな音だ。
喜志はその音が診療所の扉の開く音であると理解する。
「すみません喜志先生。驚いたでしょう? 昼に診療所を出る前に裏口の扉を開けさせてもらい、さっきこっそり中に入らせてもらいました」
この診療所には裏口があるのだが、殆ど使用されないため普段は鍵がかけられている。
「なんじゃて? 別に表から入ってきたらええやろ」
喜志には壮介の一連の行動が全く理解できなかった。診療所の扉はいつも開いたままで、何故そんな面倒な段取りをしてまで裏口からこっそりと入らなければいけなかったのだろうか疑問の様子だった。
「それはですね、俺が表門から堂々と入ってくると、事が起こらないからですよ」
「な、何?」
喜志の口がへの字に曲がる。
「喜志先生、貴方も薄々気付いているはずです。この事件の真相を」
壮介は喜志の手を離すと、再び扉の方へ移動する。
「俺の考えが正しければ、犯人はまだ全ての殺人を終えていない」
壮介は扉の前に立つのではなく、扉横の壁に身体をつける。まるで忍者が扉越しに自分の気配を感じ取られないようにしているようであった。
壮介は声を潜めながら話を続ける。
「犯人の最後の狙い。それは喜志先生、貴方なんです」
「…………」
壮介の言葉に、喜志は何も言い返さない。また驚きもしなかった。
「しかし犯人は今まで先生を殺さなかった。……否殺せなかった。それは何故か?」
耳をすませると、足音が一つこちらへと近付いてきていた。その足音は確実にこの診察室へと向かってきている。
「俺がいたからです。新居志都美の遺体発見以降、俺が診療所で寝泊りしたから、犯人はうかつに手を出せなくなってしまった。犯人がこの連続殺人の中で犯した最大のミスの一つ、それは喜志先生を最初に殺さなかったことです」
足音はだんだん大きくなってきて、そして診察室の前でとまった。
壮介が背中をつける壁の向こうに、誰かが立っている。
「そして犯人が犯したもう一つの大きなミス、それは……」
その時、扉のノブがゆっくりと回転する。
「それは……、俺と必要以上接触してしまったことだ!」
壮介はノブをギュッと握り、そして扉の向こうの人物よりも早く扉を開け放った。
「あっ!」
突然のことに扉の向こうの人物は思わず声を上げ、立ち尽くしてしまう。
「そうですね、千絵子さん……」
壮介は扉の向こうにいた人物の瞳をしっかりと捉え、その名を呼んだ。
壮介の後ろ、そこには頭を抱えて跪く喜志の姿があった……。
三
「な、な、な……、何でアンタがここに?」
千絵子は戸惑う。それは急に扉を開け放たれたことにではなく、扉の向こうに壮介が立っていたからだ。千絵子は思わず後ずさる。
その時、背中に回されていた右手に何か光る物があった。
それを見た壮介は、これで確信する。
大神島で起こった一連の連続殺人事件、犯人が千絵子であることを……。
壮介は一度髪の毛をガリガリと掻き毟った後、口を開く。
「千絵子さん、あなたがここへ来たのは、俺が島を離れたことを確認したからですね?」
壮介に話かけられた瞬間、千絵子は我を取り戻したのか視線が鋭くなる。しかし壮介の言葉に対して反論は出てこない。
「確かに俺は本土行の渡船に乗りました。実はその後、観光ホテルの宿泊客用渡船の船頭に頼み込んで、こっそり大神島に戻ってきました。そしてあなたがここへ来るのを、その辺に隠れてずっと待っていたんですよ。いやあ、暑かったぁ」
壮介は最後苦笑いを浮かべながら千絵子に向かって話す。後ろでうな垂れている喜志には全く目もくれていない。
そして壮介は、ゆっくりと千絵子へ近付いていく。
「な、何?」
壮介の接近に、千絵子は視線で威嚇するが、それだけで怯む壮介ではない。壮介が一歩近付くと、千絵子は一歩後ろへ下がった。
そして遂に千絵子の背中が壁につく。それでも壮介は千絵子の方へと近付いていく。壮介はお互いの息が顔に触れるところまで近付き、止まった。
「な、な……」
千絵子は動揺し、声が出ない。ただその鋭い視線で壮介を睨み付けることしかできない。
壮介は視線をきることなく、自分の左手を動かす。
「あ……」
壮介の左手は、千絵子の背中に隠れた右手へと伸びる。そしてその右手から何かを奪い取った。
千絵子の手から奪い取ったもの、それは刃渡り十センチ程の果物ナイフであった。
「千絵子さん、これですね?」
壮介は一歩下がってから、そのナイフを千絵子に見せる。それはこのナイフが、一連の殺人事件で用いられた凶器がどうか問いただしていることを意味していた。。
ナイフの刃には、所々に小さな錆が付着している。それら錆は、まるで洗っても流れ落ちない被害者たちの血痕のようでもあった……。
壮介はナイフを持ったまま診察室へと戻る。しかし千絵子は壁に張り付いたまま動けないでいて、その額には脂汗が滲んでいた。
「アンタ……、どうして? どうしてっ!」
千絵子は裏返った声で壮介の背中に言葉を浴びせる。壮介はその声に足を止める。
「千絵子さん、あなたがここへ来た理由……、それは俺がいなくなったのを見計らい、喜志先生を殺害するためですね」
壮介は千絵子から奪ったナイフを机の上に置き、床にへたり込んでいる喜志を介抱する。
「先生、立てますか?」
「ああ、すまん。わしは大丈夫じゃ」
喜志は壮介から差し伸べられた手を取り、ゆっくりと立ち上がる。
そして壮介は再び千絵子の方へ向き直る。
「そして……、大神島で起きた一連の殺人事件の犯人。それは、あなたですね」
壮介が言葉を放った瞬間、壮介と千絵子の間に凄まじいまでの目に見えない電流が走る。それはお互いの瞳から発せられ、お互いその電流に飲み込まれまいと必死に踏みとどまる。
「ち、千絵子……」
壮介の後ろ、喜志は寂しそうな視線を千絵子に送る。
千絵子にとって、壮介の鋭い視線よりも、喜志の視線の方が正直堪えたであろう。
「千絵子さん、貴志先生。少し俺の考えを、聞いてもらえませんか」
壮介は千絵子の瞳を見据えたまま、診察室の中へ入るよう促す。少しの間があった後、千絵子は一度大きく深呼吸をしてから診察室へと入っていった。
そして、大神島連続殺人事件の真相とともに、「惨劇の夏」の終焉が幕を開ける……。
四
「大神島で起こった殺人事件で、俺が最初に気になったのは、新居志都美の殺害状況でした」
診療所の時計の針は十時を回ろうとしていた。
過疎の島においては深夜と言ってもよい時刻、診察室では壮介、喜志、千絵子がパイプ椅子で円を作っていた。
「警察から発表はありませんが、状況からみて新居志都美の殺害現場は遺体が発見された廃倉庫で間違いないでしょう。新居志都美が姿を消した時間帯は、まだ祭の真っ最中で人通りも多かった。そんな中死体を担いで倉庫へ運ぶなんてとても考えられない。祭の夜、新居志都美・丸桑洋二と一緒にいたあなたは、一旦二人から離れ、丸桑洋二が祭に気をとられているのを見計らい、新居志都美を神社から連れ出した」
もう遠い遠い昔の話のようであるが、それはつい二日前の出来事。それ程この事件は、関係者に一日を長く長く感じさせていた。
壮介は祭の夜に起こったであろうことを話し続ける。喜志も千絵子も、視線を床に落としている。
「ここで一番気になったのは犯人像なんです。あの倉庫が殺害現場なら、新居志都美は一人もしくは犯人と二人で倉庫へ行ったことになる。あの倉庫はいくら人通りの多い石段から近いとはいえ、中はもちろん周辺も真っ暗。島の外から来た女性がノコノコと足を運ぶような所じゃない。つまり新居志都美が倉庫で一緒にいた人物がいるとしたら、それは新居志都美が絶対的な信頼をおいている人物ということになるんです」
ここで壮介は一度言葉を止める。それはまるで「誰か」からの答えを待つかのようだった。
しばらく沈黙が続き、その「誰か」が顔を上げる。
「それが、私だっていうの?」
壮介の方へ向けられた千絵子の視線、それはとても鋭い。しかしその口調は恐る恐るという感じ。明らかに動揺していた。
そして壮介は再び話しはじめる。
「新居志都美は大神島に何度か訪れたことがありますが、親が開発計画賛成派という立場上、島内を自由に出歩けたとは考えにくい。そんな状況下で、大神島で親交のある人物というのは限られている。おそらく、菅林と瀬川両名、そして川住千草とあなたの四人でしょう。しかしいくら親交があるとはいえ、何の警戒もなしに歳の離れた男性とあんな場所へ行くなんてこともちょっと考えにくい」
事実、倉庫で発見された志都美の遺体に誰かと争ったような形跡は見られなかった。つまり志都美は何の抵抗もなく、抵抗するという気さえおこることもなく殺されたということ。
そして、それが可能なのは……。
「昨日瀬川さんに会うため、宇方総合病院へ行ってきたのですが、実はその後に島を既に離れていた丸桑洋二と会ってきたんです」
「よ、洋二と……」
思わぬ人物の登場に、千絵子の声は震える。
「丸桑洋二から、あなたと新居志都美の関係について色々聞かせてもらいました。あなたと新居志都美は職場の同僚だそうですね。歳はあなたの方が上ですが、職場ではあなたの方が後輩。しかし新居志都美はあなたのことを先輩と呼び、姉のように慕っていたそうですね」
壮介は千絵子の瞳を見据える。その瞬間、千絵子はサッと目を逸らす。今の千絵子はとても壮介と対峙できるような状態ではなかった。
しかし壮介は千絵子の瞳を捉えようと喰らいつく。追う壮介と避ける千絵子、そんな無言のやり取りが二人の間で行われていた。
「千絵子、逃げたらあかん……」
その時、今まで沈黙していた喜志が口を開く。
「せ、せんせい……」
千絵子は膝の上においていた手を握り締める。喜志の放った一言、それは千絵子にとってとてもとても重い一言だったのであろう。
「わしもあの遺体状況を見て、顔見知りの犯行であると確信した。千草も殺された今、この島で志都美をあないな状況で殺害できるんは、お前しかおらんのじゃて」
最初、喜志はごく普通に声を出していた。しかし言葉を紡いでいくにつれ、次第にその声に痰がからみはじめ、最後にはまるで喉から絞りだすような声となっていた。
それ程喜志にとって、この現実が辛く悲しいものなのだろう……。
「すまん新谷さん。さ、続けてくれ」
壮介は一度喜志のほうへ頭を下げ、そして口を開いた。
「はい、次に川住千草の殺害についてですが……、お話しする以前に、一つ確認しておかなければいけないことがあります」
そして壮介はポケットから一枚の写真を取り出す。その写真に写っているのは、殺された二人の少女と戯れる加美大助の姿。
「現段階ではあくまで俺の推測です。もしかしたら俺はとんでもないことを考えているのかもしれない……。でもあえて言わせてもらいます」
壮介は一度口を真一文字にくっつけてから、千絵子に向かう。
「あなたは三年前、父である加美大助を殺しましたね。この一件が原因で……」
壮介は今まで自分の方へ向けていた写真を千絵子の方に向ける。
「!」
その時、部屋にパンという渇いた音が響く。
それは喜志が自分の太腿を平手で叩いた音であった……。
五
「三年前、あなたは父の急な心変わりにとても動揺されました。つい昨日まで反対派の旗頭として運動を行っていた人物が、今日になって一転賛成にまわろうとしているのですから、そりゃ戸惑いますね」
ここで壮介はもう一つ重要な推理を提示する。
千絵子は以前より大神島開発計画に全く無関心であると言ってきた。
しかし実際は当時の父に勝るとも劣らない開発計画反対論者だったのだ。
この一連の大神島連続殺人事件の動機、それは開発計画賛成派へと寝返った父、そしてハニートラップを使って父を寝返らせた賛成派の人間への復讐であった。
「あなたは父親が賛成派についてしまったことを知り、絶望と怒りの虜になってしまった。そしてそれがピークになったある日、狼ヶ浜で少女たちと事に及んでいた父を殺害し洞の奥に埋めた」
壮介がここで述べたこと、これらはあくまで壮介の推測。しかし千絵子の絶えず泳いでいる視線が、壮介の推理の信憑性を高めていた。
「しかし新谷さん、それなら一つ判らないことがあるんじゃ」
喜志の問いかけに壮介は視線を横に流す。
「もし千絵子がそういう流れで大助を殺したのならば、何故その時に千草たちを殺さなかった? 何故三年も経った今、殺さなければならんかった?」
もし千絵子がハニートラップのことを当時から知っていたのならば、三年前に二人を殺害していてもおかしくはない。三年も経過した今、立て続けに殺害するというのは確かに不自然であった。
そんな喜志の疑問に、壮介は答える。
「おそらく当時の千絵子さんは、誰が父をハニートラップにかけたのかまで判らなかったのではないですかね?」
これは喜志に対する答えであったが、壮介の視線は喜志ではなく千絵子に向けられていた。壮介の言葉は喜志に対する返答であると同時に、千絵子に事実を確認しているものだった。
「新居志都美がハニートラップに関わっていたと知ったのは、同じ職場で働き始める直前、もしくは働き始めた後だと思います。特に川住千草に関しては、殺害の直前まで知らなかったんじゃないですかね?」
壮介は明らかに千絵子からの返答を求めている。しかし千絵子の口からは何も言葉は出てこない。
そして喜志は壮介の推理にただただ目を丸くするのみであった。
ここで壮介は一度髪の毛をガリガリと掻き毟る。
「ここで俺は悩みました。ならば千絵子さんはいつ川住千草に気付いたのか? それを教えてくれたのは現在入院中の瀬川さんでした」
「何、瀬川が?」
壮介は前日の夜、瀬川と交わした内容を話し始める。
三年前の賛成派と反対派の対立、瀬川と千草が交際していたこと、そして大助の突然の変貌についてのこと……。
そして壮介は自分の頬に指をあてる。その指の先には、狼ヶ浜で千草につけられた傷跡があった。
「新居志都美の遺体が発見された日の夜、俺は狼ヶ浜で千草と会いました。この傷はその時につけられたものです。これと同じ傷が、三年前の加美大助の頬にもあったのです」
壮介の頬に残る傷、もう瘡蓋もとれてきており、ピンク色の皮膚がのぞいている。
これと同じものが、あの時の加美大助にもあった……。
「千絵子さん、あなたはあの日俺と川住千草が一緒に歩いていく姿を、偶然見てしまったのではないですか?」
壮介は再度千絵子に確認する。しかし千絵子の口が開くことも、首が上下左右に振られることもない。
「そしてその後、加美家へ戻ってきた俺の頬を見て、あなたはとても驚いたでしょう。あの時の父と同じ傷が、俺の頬にもあったのだから……。そしてこの時、あなたは父を陥れた一人が川住千草であると気付いた。違いますか? 違うなら違うと言って下さい」
壮介は強い口調で千絵子に詰め寄る。
「…………」
しかし千絵子の視線は泳いだままでまるで反応なし。もはや壮介や喜志の声がしっかりと届いているかすらも疑わしい。
「ということは、千絵子が大助を嵌めた人間を知ったのは、ホンマについ最近ということになるんじゃの……」
「そういうことになりますね。正直な所、ハニートラップにかけたのが新居志都美と川住千草であるとちゃんと確信を持てたのは、狼の剥製から写真が出てきた時ではないですかね」
そして千絵子はその日の夜、千草を殺害した。
船着場の待合所に呼び出したのか、偶然その場所で千草を見つけたのか、今となっては千絵子しか知らない……。
ここで壮介は千絵子に背を向け、喜志と向かい合う。
「そして喜志先生を狙うと決めたのは、おそらく今日の昼です」
「今日の昼じゃと?」
あまりのことに喜志の声が裏返る。
「はい、千絵子さんが先生から遥さん用の湿布を取りに来て、その後俺と入れ替わりで部屋を出て行きました。そして俺と先生で大神島に関わるとても重要な話をしましたよね? 実はその話を扉の向こうから聞いていたのでしょう」
「な? ち、千絵子!……」
喜志は思わず席から立ち上がり、千絵子の視線を追う。今まで壮介の視線は避け続けていた千絵子であるが、喜志の視線には合わせてきた。
「せ、先生……」
喉がカラカラに渇いているのか、千絵子の声は魔女のようになっていた。
「千絵子さんはそこで先生が一連のハニートラップに絡んでいることを知り、連続殺人の終幕として先生の殺害を決意した」
壮介は再び千絵子の方へ。
「あ、あ……」
千絵子は何かを言おうとしている。しかしもう声にならない。
「先にも言いましたが、一連の連続殺人事件最大のミス、それは先生を一番先に殺さなかったことです。しかし先生が三年前の一件に絡んでいることを知ったのはこの土壇場……」
壮介は椅子から立ち上がり、千絵子の元へ。
そして千絵子の両肩に手をポンと置く。
「だから、だから……、千絵子さんが実行した殺人計画、これは最初から上手くいくものではなかったのです。殺人による復讐というレールの行き着く先は、はじめからここしかなかったのですよ」
壮介が手に力を入れた瞬間……、
渇いた砂浜に作られた砂の城が僅かな風に飛ばされ崩れていくように、千絵子の身体は椅子から滑り落ち、診察室の床の上に崩れた……。
六
カチ カチ カチ……
時計の針は十一時をさす。
診療所の診察室には三人の姿がある。
一人はパイプ椅子に座り、もう一人は立った状態。そして最後の一人は診察室の床にペタンと座り込んでいる。
そして床に座り込んだ人物へ、他の二人からの視線がずっと注がれていた……。
「千絵子さん、もういいでしょ……。全てを、話してくれませんか?」
立っている人物……壮介は、座り込んでいる人物……千絵子へ語りかける。
千絵子は一度壮介の方を上目遣いで見るが、すぐに視線を逸らす。そこに一見軽いカンジだが、実際は気丈で妹想いである加美千絵子の面影はどこにもなかった。
「千絵子……」
パイプ椅子に座る人物……喜志は目の前でうな垂れる少女を哀れんでいた。
何故こんなことになったのか?
喜志だけではなく、壮介もそう感じていた。そして何より千絵子自身もそう感じているのかもしれなかった。
きっかけは三年前に起こった。
喜志と菅林が仕組んだハニートラップ。新居志都美と川住千草を加美大助へとけしかけ、そして加美大助を腑抜けにしてしまい、賛成派へと寝返らせてしまった。
それを知った千絵子は絶望と怒りのあまり実の父である加美大助を殺害し狼ヶ浜の洞に埋めてしまう。
そして怒りの収まらぬ千絵子は、父を嵌めた人間を捜し出し復讐することを決意したのだ。
三年前のあの日、父を手にかけたその日から、千絵子は狼になったのだ。自分と家族の誇りを傷つけた者たちを地獄の果てまで追い続け、そして惨殺する。
まさに「狼」であった……。
「新谷さん……」
喜志が弱弱しい声で壮介の名を呼ぶ。
「千絵子は……千絵子はどうなるんじゃ?」
すると壮介は無言で首を振る。
「そうか……、すまん」
壮介が首を振った意味を理解したのか、喜志は話題を切り上げる。
決して判らないわけではない。
口に出したくないのだ。
例えつい最近知り合った仲とはいえ、大神島での楽しい時間を共に過ごしたのだ。そんな人の行く末など想像したくないのだ。
「千絵子さん、俺も喜志先生も警察じゃない。俺たちはあなたを裁けない。あなた自身の身の振り方は、あなた自身で決めてください」
そして壮介は千絵子の前でしゃがみ込んだ。
「ただ、あなたのとても大事な人を、これ以上悲しませない選択を、……お願いします」
壮介は小さな声で千絵子に語りかけ、そして立ち上がった。
「…………」
千絵子は顔を伏せたままその場を動かない。
ただ、千絵子が座り込んでいる床の上に、ポトッ ポトッ と小さな雫が滴り落ちていた。
それから三十分程経過した頃、
突然診療所の扉が開く音がした。
慌てて壮介と喜志が診察室から出ると、そこには歌藤と長渡、そして遥の姿があった。
「どうも、こちらに加美千絵子さんはいらっしゃいますか?」
歌藤の言葉に壮介と喜志は顔を見合わせる。
「どうしてここが?」
お互いの気持ちを喜志が代弁する。
「妹さんから、姉が診療所へ行くと言ってから帰ってこないと聞いたのもので、夜分遅く失礼とは思いますが訪ねさせてもらいました」
そして長渡が診察室へと入る。長渡が診察室へ入ってきても、千絵子は床に座ったままの状態。
「加美千絵子さん、新居志都美ならびに川住千草殺人の件で幾つかお伺いしたいことがある。捜査本部までご同行願えませんか?」
長渡の言葉に、千絵子は全く反応しなかった。
「お姉ちゃん……」
その時、診察室に小さく弱い声が響く……。
その声に千絵子は敏感に反応する。千絵子はゆっくりと振り返り、声がした方を見つめる。
そこには唯一の肉親であり、最愛の妹の遥がいた。
二人の間には距離があった。しかし二人の瞳は寸分違うことなく、お互いの瞳を射抜いていた。
二人は二人だけにしか通じない言葉を交える。
そして……、
千絵子はゆっくりと立ち上がり、扉の方へ向かう。
「さ、行きましょう」
歩き始めた千絵子を見て、長渡が素早く横につく。
何歩か進んだ時、千絵子は遥とすれ違う。
「お、おねぇちゃん……」
遥の顔は涙でグシャグシャになり、もう言葉にならない……。
この時、千絵子の目から涙は零れてこなかった。
ただ、一言……
ごめん はるか
遥にしか聞こえない優しい声で、千絵子は最愛の妹、遥に伝えた。
そして壮介たちとすれ違う時、千絵子は再び口を開く
全ては島のため
先程妹に声をかけた時の姉の優しさはない。
何か、寂しく哀しい感じのする声……。
この時、壮介はすれ違う千絵子の横顔をみる。
まるで自らの終焉を悟ったかのような表情だった……。