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眠らぬ羊を数えたら

作者: 白春

羊が一匹。羊が二匹。




 自分という存在がはじっこから、解けるように、ほろほろと崩れるように大気へ溶けてこんでいく。


 溶けて、混ざって、別の何かに造り替えられようとしているのが分かった。

 分かったからといってその事実に危機感を覚えるにはとうに遅く、思考を巡らせるには私の存在は希薄になりすぎていた。

 加えて、溶けていくのはとても心地良かったのだ。どこか安心することができるものだった。


 このまま私の存在は溶けて消えて、私を材料にして別の何かが造られるのだと思っていた。

 その瞬間まで。



 それがどうしたことだろう。

 急に視界がはっきりした。音が聞こえるようになった。存在が実体を持った。


 大気に溶け込んでいた私という私の粒子全てが強引に引っ張られ、私の形に再構成されたのだ。

 おそらく、目の前の青年によって。




 分かるはずもないことを当然のように理解していく。



 ああ、そうか。と他人事みたいに受け止めた。


 私は死んだのだ。



 心は酷く凪いでいた。




   *****



 「…考え事か?」


 遠慮がちなスレストの言葉に我に返る。

 寡黙な彼が尋ねてしまうほど長い間ぼーっとしていたらしい。この身体になってから、時間という概念が無くなってしまっていて困る。ちょっと考え込んでいただけのつもりなのに実は1時間経っていた、なんてことはざらにある。


 「あの日みたいな天気だなあ、と思って。スレストに会った日のことを思い出してた」

 窓からスレストへと視線を向けると、彼は私を通り越して窓の外を見ていた。

 何となく邪魔かなと思い窓の前から身体を右にずらす。


 「…。そうだったか?」


 どうやら彼は思い出せなかったらしい。短くはない付き合いのなかで彼は周りへの関心が薄いと知っているため、覚えてないのも当然かなという気がしている。

 それでも多少なりとも申し訳なく思っているらしく、ひじ掛けについた方の手で顎を触りながら視線を下に逸らした。こういう時、彼はとても分かりやすい人間だと思う。

 別に覚えてなくても気にしないんだけどな。


 「そうだよ。雲ひとつない青空だったからね、良く覚えてる。普通幽霊って夜中に出てくるものじゃないのって思ったもん。燦々と陽の光を浴びる幽霊ってなんだろうって」

 まあ、もう陽は暮れちゃったけどね。と付け足す。


 昼過ぎから日が暮れるまで、と改めて考えると、軽く4時間以上外を見ていたらしい。いくら時間に疎いといえどもさすがに心配で声をかけたくなるのも分かる。

 私の言葉であの日の景色を思い描くように、スレストは視線を頭上に巡らせた。


 そんな彼を眺めながら、彼は昔を覚えていないこと自体を申し訳ないと思ったのではないのだと気づいた。微動だにせず外を見る私が不安定になっているのではないかと心配だったから、昔を覚えていないということでさらに私が揺らぐかもしれないと思い、申し訳なく思っていたのだ。

 優しい人だな、と思う。出会ってからそう思うことばかりだ。


 宙を見ていたスレストが何かを思い出したように小さく笑った。


 「あの日、私はチェーコの存在に感動するばかりだったよ」


 スレストのあたたかな想いが、私の虚ろな身体の中を通り抜けて行く。あの時も私は、スレストの歓喜が怒涛の勢いで押し込まれるのをひたすらに感じていた。

 幽霊になってから、他人の感情が伝わってくるようになった。その瞬間だけ、人の感情がどういうものだったかを思い出す。


 幽霊と人との大きな違いは、肉体の有無だけではなく感情の有無もあるのだと自分が幽霊になって分かった。心は身体に宿るということなんだろう。あの日も心は凪いでいたのではなく、感情を持っていないのだと今なら分かる。

 こういう話をすると、スレストはとても喜んでくれる。生と死の境目に興味がるのだ、彼は。そして人間が嫌いなのだ。自分を含めたすべての人間が嫌いなのだ。

 彼に何があったのかは知らないし、聞こうとも思わない。ただ、彼がいつかそれを話せる生きている相手に出会えれば良いと思っている。



 「感動してくれたなら、出てきたかいがあるってもんだね。…さ、宿に泊まれるのは今日までだし、それに加えて今日は満月だ。明日に備えて早く寝た方が良いよ」


 窓辺から部屋の中心にある椅子に座っているスレストのもとへと滑るように移動し、顔を覗き込んだ。

 側のテーブルの上にはカンテラがあり、橙色の明かりがスレストの若葉色の瞳をゆらゆらと燃やしていた。生きているものの色だと思った。


 「そうだな。…おやすみ、ちぇこ」

 「おやすみなさい」


 旅の疲れを思い出して眠くなったのか、大きな欠伸をこぼしながら寝室へ向かう彼を見届けてから再び窓辺へ戻る。



 空を見上げると、大きな満月が二つ。

 ここは地球ではなかった。私は知らない世界で一人、死んだのだ。

 たぶん、異世界に来て一日もかからずに死んだのだと思う。ある日気づけば見知らぬ森の中に倒れていた。彷徨ううちに見たこともない獣に襲われ、必死に逃げるさなか崖から落ちてあっけなく死んだのだ。助けてくれる誰かなんていないのが現実だ。異世界に来てしまった理由も、きっとないにちがいない。


 そして今私たちは、私の死体を弔うために旅をしている。私が死んだ森はもう目と鼻の先だ。

 死者は弔われなければ死者の国へ還ることはできない。還ることを許されなかった死者の魂は、大気に溶け、淀みとなって世界を呪うのだ。私もそうなる手前だったところを、スレストに呼び出されることによって助け出された。

 異世界で死んだ上に、私じゃない何かになんてされたくなかった。せめて私として死にたかったから、彼に頼んだのだ。私の死体を弔ってくれないか、と。何の見返りもないのに受け入れてくれた彼に少しでも報いるために、私は私の知ることは何でも彼に話そうと決めた。


 例えば、この世界ではちょうど二つの月が満月になる夜、死者の国と生者の国が交わるから、月が昇りきる前に寝なければならないという迷信があるが、それは少し間違っているということ。正しくは、満月の夜になると弔われなかった死者の魂が淀みに変わるのだ。淀みに不用意に関わらないように早く寝るべきというのは正しい。

 私がもしかしたら不安定になっているのかもしれないというスレストの不安はここに起因する。私の存在をスレストが縛ってくれているから、今はまだ問題ないと伝えてはいるのだけれど。

 今は、と限定されるのは、この状態が長くは持たないと知っているからだ。私はとうの昔に淀みになっていたはずで、幽霊として存在しているのはやはり異常なのだ。無理をすると、いつか破綻するというのは分かり切っている。弔いが間に合わなかったら、私は淀みとなって消えるだろう。

 けれど、私が私でいるうちは、できる限りスレストの側に居られれば良いと思う。

 どうしてそう思うのかは上手く説明できない。

 敢えて論理的に言うなら、少しでも多く彼の恩を返すためだろうか。


 願うことはしない。できない。願いには感情が籠るからだ。虚ろな身体ではそれは無理な話だ。仮にできたとしても、死者の願いは怨念となる。死してなお消えない想いというのは、強く醜く汚らわしいものでしかない。

 だから私は思うだけ。



 彼は孤独な人間だ。そして私も人間だった。彼の嫌いな人間だった。

 彼が好きという幽霊は、彼の嫌いな生者なしには生れない。

 彼がそれを分かる日が来ればいい。


 その時きっと私はいないのだろうと思うと、ある筈もない心がざわつく気がする。



 

 満月からカンテラへと視線を移す。

 スレストが寝る前に消したため、もう明かりは灯っていない。

 近寄って、ふう、と息を吹きかけた。何か起こるはずもない。 


 やることもないのに終わりは来ない退屈さを紛らわすため、ふわりと宙に浮かんで目を閉じた。

 瞼の裏を見つめていれば、そのうち朝が来るのだ。



 ああ。


 あと何回、私は夜を越えるのだろう。彷徨う死者に眠りは訪れない。

 あと何匹、私は眠らぬ羊たちを数えるのだろう。いつになったら眠れるのか。


 終わりはもうすぐそこまで来ているのだ。眠らぬ私の躯が待っている。

 その時のために、彼が密かに練習していることを知っている。彼は私の名前を千絵子、ときちんと呼ぶために、こそこそ練習しているのだ。だんだん近づいてきているところに努力の成果が表れている。





 おやすみ千絵子って。

 それを聞けたらぐっすり眠れる気がしている。





実はこの短編、データが一度ぶっ飛びました。

完成が見えたころの上、保存もまだだったのでort状態。ぶっつけで書いているので下書きなんてあるはずもなく。

挫けたため数日おいてからの再出発となって、自分にしか分からないことですが表現や内容が少々異なっているはずです。悔しい。

最初の方が良い出来な気がしなくもなくもなくもない…。隣の芝生は青いなあ。

心なしか短くなったような気も…?


こまめな保存、タイセツ。

1つ賢くなりました。

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