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夏の奇跡

作者: 松原正一

父が死んだ。一週間前のことであった。


私は仕事で広島にいた。不思議と涙はでなかった。

それは医者から、常々、父の病状を聞かされていたせいかもしれない。

東京に戻り、父の姿を見た時、私は父の死に顔に満足さえ伺えた。母が三年前に死んだ日以来、父の生活は入退院の繰り返しだった。母は昔、父の事を体が丈夫なのだけがとりえの人だからといっていたが、父はその母の看病がたたったのかもしれない。しかし父と母にとって、母の看病中は私が知る限り、二人が最も夫婦らしい生活を送っているような時間のように感じた。

そんな父が一週間前に死んだ。そして、今日私は父がいた頃と変わらない生活をしている。

変わったことといえば遺影が一つ増えた、ただそれだけであった。

テレビでは野球中継を流している。巨人が圧勝したようだった。


今、私は妻の恭子、小学三年生になった息子の拓也と三人で生活している。バブルの頃東京からはちょっと離れているが、駅から近いこの地にマンションを買った。この4LDKのマンションのローンは今でも私の影のようにくっついて離れない。でも私にとってここは城だ。男たるもの一国一城の主であるべきという父の言葉が私の脳に刻まれているのかもしれない。ただ、そのおかげで、私は不況という謀反にいつも怯えている。


私は巨人が勝ったのを確認するとテレビを消した。すると拓也の部屋から、恭子の甲高い声が聞こえてきた。

「拓也、まだ夏休みの宿題終わってなかったの」

「あと、自由研究だけだよ」

「明日から、学校なのよ」

拓也が部屋から飛び出してきた。恭子はものすごい形相で拓也を追いかけてきた。

「パパからも何か言ってやって。拓也ったら、まだ夏休みの宿題、終わってないんですよ」

拓也がすがるように私を見ている。

「まあまあ、怒ったからって、宿題が終わるわけじゃないんだから」

拓也は少しにっこり笑ったが、恭子の顔を見て、またこわばった。

「よし、拓也、パパも手伝ってやるから、これから一緒にやろう」

「パパ」

拓也がしがみついてきた。

「あなたは、甘すぎるわ。周りじゃ塾にかよってないのは拓也ぐらいなのよ。それなのに

あなたときたら」

妻は台所に行き、洗い物を始めた。恭子の癖である。嫌な事があると、すぐ洗い物を始める。昔はあんなではなかった。こんなことがあるたびに、結婚は恋人の延長ではなく、肉親の始まりだと感じてしまう。でも血のつながったものではないからこその歯がゆさも感じる。拓也が私の腕をひっぱりながら、

「ねえ、早く手伝ってよ」

拓也も拓也なりに責任を感じているようだった。

「拓也、自由研究が残っているんだろ。何か決めているのか」

拓也はうつむきながら、

「何も」

「よし、じゃあ、お前の部屋で一緒に考えよう」

拓也と、部屋に向かう時、父の晩年の写真が目に入った。


あの時の父の姿を思い出す自分がいた。


拓也の部屋は野球用具が転がり、漫画と教科書がサンドイッチのようになっていた。

私は小さなテーブルを持ってきて、拓也と向かい合わせに座った。

「さて、期限は明日。長い時間をかけるものはできないなあ」

拓也はあくびをかみ締めながらもしっかり考えているようであった。時刻は10時を過ぎている。いつもの拓也なら9時には床に入っている。眠くて当たり前である。

「ねえ、パパは昔、どんな自由研究をやったの」

拓也の言葉で私の遠い昔の記憶が救い上げられるようだった。


父と一緒に作った自由研究。

あの時、父は妙に機嫌がよかった。理由は分からない。

ただ宿題を手伝ってもらったのは、それが最初で最後であった。

私と父の共作は市で表彰を受けた。でも私はなにか反則をしたようで、素直に喜べなかったのを覚えている。父に手伝ってもらったという事実は幼い私に罪悪感を感じさせた。

「ねえ、パパ怒っているの」

拓也は黙っている私を見て怒っていると感じたらしい。そういえば私も父の沈黙が恐ろしかったのを覚えている。

「怒ってないよ。パパの自由研究なんて、すごく昔のことだから、今、必死に記憶のページをめくっていたところさ」

息子がキョトンとしているのを見て思わず、私は笑ってしまった。

「パパが作ったのは絵本だよ」

そう私と父の共作は絵本であった。一匹の競走馬がレース中に怪我をしてしまうという話であった。父は一切賭け事をしなかったが、この話は父が切り出したものだった。拓也が目を輝かせながら聞いてきた。

「どんなお話」

「レース中に怪我をしてしまった一頭の馬のお話・・・」


アオという一匹の競走馬がいた。レースに出るときは違う名前だったが、厩務員達は、アオの毛先がきれいな青色をしていたため、その名で呼んだ。ただアオは決して速い馬でなかった。でもアオを世話していた厩務員のおじいさんは、アオを一生懸命世話していた。アオもおじいさんの気持ちが良く分かっていたが、いくらがんばって走っても、一着になれなかった。ある時アオはレース中に怪我をした。ただアオの怪我は治らないものではなかったが、まったく勝てないアオをオーナーは、処分するとおじいさんに言った。おじいさんは今までこのような馬をたくさん見てきた。でもおじいさんは今まで助ける事ができなかった。おじいさんではオーナーの命令に逆らえなかった。でもおじいさんにとってアオは最後の自分の息子のようなものであった。夜、おじいさんはアオのいる厩舎にきた。アオは寂しそうに泣いていた。自分がどうなるかも、そしておじいさんの気持ちも知っているかのように。おじいさんはアオを厩舎から出し、行くあてもなかったが、歩き出した。アオは怪我した足をかばいながらも、必死におじいさんの後を歩いた。厩舎の明かりがろうそくの光のように見えるところまで歩いた。でもついにアオは歩けなくなった。そしておじいさんもまた歩けなくなった。


「それで、それで」

拓也は楽しそうに聞いていた。

私と父はここで、話がつまった。

ここまでの絵本はできていた。でも父も私もこのあとどうすればよいか分からなくなっていた。

深夜3時を過ぎていた。私は疲れて、眠くなっていた。

すると父が晩御飯の残りである味噌汁を温めて持ってきてくれた。私たちはフウフウしながら味噌汁をすすった。今とは違いクーラーもなく蒸し暑い夜だったが、私はこの温かい味噌汁を飲んだことですごく胸があったかくそして幸せな気持ちになった。

その時、開けっ放しの窓から涼しい風が入ってきた。カーテンがめくれたところから、たくさんの星が見えた。そして私と父は結末を決めた。


「僕、その話を書く。それでどうなったの」

私は寒くなりすぎたクーラーを切った。

「最後は自分で考えてごらん」

「えー」

息子は不満そうだったが、絵本を作り出した。

私もクレヨンで色を塗った。久しぶりのクレヨンだったが、あたかも毎日使っているように使えた。

「途中まではできたけど、終わりはどうしよう」

拓也は器用にクレヨンを回しながら言った。

「拓也、お前なら、この後、どうなって欲しい?」

拓也はにっこり笑いながら、

「もちろん、幸せに」

「どうなったら、幸せになれる?」

「うーん」

拓也は腕を組んで必死に悩んでいるようだった。

私は、窓を開け、風を入れた。ふと空を眺めると、星はほとんど見えなかった。昔は窓を開けると星に押しつぶされそうになるくらい見えたものだった。しかし今はネオンや車のライトなどでほとんど見えなくなっていた。

電気の明かりは私たちに一種の安らぎを与えてくれたが、星というかけがえのない明かりを消してしまった。拓也は月を指差しながら

「かぐや姫みたいに月に行くの。そこで二人は幸せに暮らすの」

私は驚いた。決して息子がかぐや姫の話を幸せな話と捉えているかということではない。

私は、驚きながら、

「よし、それで書こう」

私達はクレヨンを走らせた。

そして東の空が少しずつ明るくなってきた頃拓也の9歳の自由研究は終わった。

拓也は、疲れと安堵感からかテーブルで寝てしまっていた。拓也の寝顔をみて思わず微笑んでしまった。


あの時もそうだった。

私は自由研究を作り上げると眠ってしまった。

父はあの時、どんな顔で寝ている私を見つめていたのだろう。もう永遠に分からない事だし、知る必要はないかもしれない。


絵本のタイトルは「アオとおじいさん」私と父の共作と同じタイトルであった。

でも話は少し違う。

それは最後である。風にカーテンがなびいた時、私はたくさんの星をみて、二人が星座になって、楽しく、空を駆け回る姿を想像したのである。父はそれを聞きニンマリと笑って、

「よし、二人の星座を作ろう」

私と父は二人、空を眺めながら、アオの星座とおじいさんの星座を作ったのだった。


時代は変わった。もし星がたくさん見えていたら息子はどう考えたのだろう。

でも内容はどうあれ、結果二人は幸せになる。それで満足であった。

父とはその後、あの時間がまるで幻であったかのように、変わらない関係が続いた。しかし今思う。

父と息子の関係というのは変化していくものなのだ。私は父が死んだ時、今までと同じように何も変わらない気がした。

でも今思う。変わらない事こそ、変わっていった証拠なのだ。

あの朝、私は目を覚ました時、昨晩の出来事が夢だったのではと思った。しかしちゃぶ台に置かれた絵本を見て、あの時、父と一緒にいた時間は夢そして幻ではないことに気づいた。

私は思わず父が塗った部分のクレヨンを触った、とてもやさしく丁寧に塗ってあった。

窓からこぼれる朝日が今の私にはとてもまぶしかった。

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