男前な彼女
その日、同じ電車に乗っていた幼なじみの藤井京香は、朝の通勤ラッシュという舞台で大声をあげた。
「この人、痴漢です!!」
がっつりと捕まれた腕が、高く上げられる。
ちょうどそのとき駅について、痴漢と言われた男は彼女をふりきって逃走をはかった。
しかし「逃がすかっ」と実に映画のような台詞をはいて、京香は思いっきり相手の急所を蹴り上げた。
男がゆっくりと倒れる。
駅員が駆けてきて、人並みがわれる。
ふと顔を上げた京香と目が合った。
「おはよう」
彼女は少しだけ照れくさそうに、しかしいつも通りに笑った。
「おはよう」
僕もいつも通りにかえした。
◆
あれから駅員に事情を話すことになり、うっかり遅刻してしまうところだった。
しかし、自分たちが学生であること、彼女の周りにいた人たちが証言してくれたこと、犯人が素直に認めたこと。いろんな偶然が重なったけれど、なにより被害にあった本人が
「謝ってくれるならそれでいいです。お騒がせしました!」
と、周囲もあっけにとられるほどにあっさりと許したので、僕らは遅刻ぎりぎりに学校へ駆け込むことができた。
幸い、駅員が学校へ連絡しておいてくれたらしく、先生達の反応は悪くなかった。
大丈夫だったか、と一番に心配されるべき彼女は「平気です!」と一言笑って授業へむかったので、僕もそれにならった。
放課後の部活時間になると、すでに噂が広まっていたらしく、京香は何人かの部員に囲まれていた。
「藤井先輩、痴漢を撃退したってほんとっすか」
「先輩つぇー」
「こら、マネージャーの邪魔をするんじゃない。ダッシュ10本追加だ」
声をかけると「げぇ!部長!」と大声を出して、後輩達は蜘蛛の子を散らすようにダッシュをはじめた。
洗濯かごを抱えた彼女は、ケラケラと笑った。
「あーあ、かわいそう」
「そんなことないよ。部活は始まってるんだから、サボっちゃダメだろ?」
「幸村部長はいいわけ?」
「僕はこれから」
手に持ったラケットをわざとらしく示してみる。
京香はまた大きな声で笑う。
「重そうだね、部室まで持とうか」
洗濯かごにはやまもりのタオルやらユニフォームがあふれている。
彼女は日に焼けた両腕をよいしょっと一度持ちあげて
「さぼってないで、部活しなさい。幸村部長」
そう笑って洗濯にいった。
◆
京香は近所に住んでいて、小さい頃から活発だった。
物怖じしない性格で、小学生の頃、引っ越してきたばかりの男兄弟とすぐ仲良くなったりしていた。
色素の薄そうな王子様みたいな弟と体が大きくて浅黒い兄の兄弟は目立つわりに近寄りがたいのか、周囲の人間は彼らを遠巻きにしていた。
そんな彼らの手を引いて元気に駆けていく京香の姿を、僕はいつも窓から見下ろしていた。
僕はそのころ体が弱くて、学校は休みがちだったが、京香はいつも学校からのプリントを元気に運び、僕とたくさんおしゃべりをしてくれるのでさみしくはなかった。
それが男子に媚びている、などと一部の女子から非難されても、彼女はただケラケラと笑っていたのを覚えている。
友達と仲良くして何が悪いの
彼女はあっさりとそう言いながら「元気になったら幸村も遊びにいこうね」と僕の手を握った。
パジャマ姿で、ひょろひょろで、彼女よりも真っ白な僕の手を、力強く握った京香の体温を感じながら、僕は不似合いにも
僕がいつか強くなって京香を守るよ
小さくそう心でつぶやいたのだ。
それは言葉にすることはなかったけど、僕の誓いだった。
僕は医者のすすめでなにかスポーツを始めることにして、テニスを選んだ。
理由は近所にテニスコートがあり、同い年くらいの子が何人か遊んでいるのをみていたからだ。
テニスは楽しかったし、幸いにも僕は素質があったらしく、やればやるほど上手くなったし、体も強くなった。
でもそれでも、京香は僕と同じ時間の流れに乗って、僕と同じくらい強く綺麗になっていった。
彼女は他の女の子達とは少し違っていて、あまり群れるということをしなかった。
だからといって協調性がないわけでなく、誰にでも笑顔で接する彼女に、いつしか仲間はずれをしていた女の子達もあきらめたらしかった。仲が良いとまではいかなくても、険悪でもない。
そんな彼女は同性の後輩からは人気があった。
もともと面倒見がいいせいもあるのだろう。
高校に入学したとき、当然テニス部に入部した僕は、彼女をマネージャーに誘った。
やけに頭のかたい後の副部長になる友人が「ミーハーな気持ちがなく、マネージャーをする気のある女子はいないのか」とぼやいたことがきっかけだった。
テニス部はやけにイケメン揃いなせいかファンが多い。いつもフェンス越しにちょっとした女子の人だかりができる。
そんなテニス部のマネージャーといえば、女子の花形なのだろう。
そのせいか、仕事がおろそかになっているのも確かに事実だったので、僕はすぐに京香を思い出した。
いや、ただ単に、高校に入って距離を縮めたかったというのが僕の本音だろう。
心の中で僕が一番ミーハーであることを副部長に詫びておく。
しかし、僕の目に狂いがなかったのも確かだ。
京香は僕の頼みをあっさり引き受けると、思った以上にばりばりと働いてくれたし、女子のやっかみもあまり受けていないようだった。それどころか「幸村もてるね」と僕をからかう始末だった。
「京香のこと好きなやつもいるよ」
僕がそう言うと、彼女は少しだけきょとんとして、大きな声で笑った。
「あたしは可愛くないから無理だ-」
そんなことない。
僕は好きだ。
好きだよ。
「そんなことないよ」
冒頭の部分しか口にできない。
「ありがとー」という京香の声を聞きながら
本当だよ
また口にできない言葉をつぶやいた。
◆
痴漢騒動がすっかり沈静化したころ、次期部長として期待している二年生から京香の噂を聞いた。
「ねぇ部長! 京香先輩に悪い彼氏ができたって本当っすか!」
それを聞いて内心びっくりしたのだが、表面上は冷静を装って聞き返した。
「どこからでたのさ、そんな噂」
「俺はクラスの奴からきいたっす。なんでも、校門にバイク乗り付けて先輩を迎えに来たらしーっすよ!」
「わかったわかった。僕から京香に聞いておいてあげるから、とりあえず校庭20周しておいで」
「えー! なんで!」
いいから行け、とすごむと後輩はひっと呻いて逃げるように走っていく。
くるりと周囲を見渡すと、京香はスポーツドリンクを作っている最中だった。いたっていつもと変わらない様子にほっとしつつ、その日の練習試合では「幸村、調子でも悪いのか」と普段は鈍感なはずの副部長に指摘されてしまった。
「そんなことないよ」と軽く返したけれど、彼は不思議そうに僕を見るばかりだった。
部活が終わって、部員達が帰り、部室の鍵を閉めて帰ろうとしていたとき、テニスコート脇のベンチに腰掛けている京香を見つけた。
右手に赤いスマートフォンを握りしめたまま、彼女はぼぉっと夕焼けをみていた。
「帰らないの?」
近寄って声をかけてみると、彼女は野生動物みたいに素早く振り返った。
幸村、と彼女は小さく僕の名を呼んだ。
「待ち合わせ?」
変な噂をきいたばかりだから、そんなことを言ってしまう。
だが彼女はあっさりと「そうだよ」と肯定した。
だから僕はさらに余計なことを口走る。
「彼氏?」
すると、京香は笑う。
快活な声が、乾いたコートに響いた。
「ちがうちがう。そんなんじゃないよ」
僕はなんでもないような顔のまま、京香の隣に腰掛けた。
「幸村帰らないの?」
「女の子一人じゃ危ないから」
もう少し一緒にいたいから。
心と口はいつもずれたことばかり言う。
「覚えてる? 小学校の頃に男の子の兄弟が引っ越してきたの」
「怖そうなお兄さんと、綺麗な顔の弟の?」
「そうそう、よく覚えてたね」
あの後また引っ越しちゃったけど、また戻ってきたんだよ。
すっかりでっかくなってて、誰か分からなかったけど。
会いに来てくれたの。
また友達になったの。
別の高校に行ってるからなかなか会えないねって言ったら
じゃぁ、会いに行くから待っててって言われたの。
「それって何時頃?」
「……うーん、ちょっと過ぎてるかな」
もう人気のない校舎を見上げて、京香は曖昧に笑った。
ちらりと彼女の握りしめた携帯に目をやるけど、それが振動しそうな気配はなかった。
僕は立ち上がる。
「連絡はないの?」
「ないねぇ……」
「もう遅くなるから帰ろう。送っていくから。っていっても行く方向一緒なだけだけど」
「うん。でも」
約束したから。
凛とした声で、はっきりそう言った。
立ち上がったまま彼女を見下ろす僕と、座ったまま僕を見上げる彼女。
「京香」
僕ではない男の声が、彼女を呼んだ。
「ルカ」
僕ではない男の名を、彼女は呼んだ。
僕は振り返って、京香の視線をたどる。
色素の薄い白い肌に、人工的な金髪が、夕日の赤にすけている。
ところどころ汚れたブレザーとよれよれの白いシャツ。
整った王子様のような顔が、ところどころ腫れたり切れたりしている。
彼はばつがわるそうに、「ごめん」と笑った。
「ケンカ、したの」
彼女の言葉に、ルカとよばれた彼は叱られた子供のように「ごめん」ともう一度謝った。
「コウは?」
「大丈夫だけど、すごい顔してるから会えないって。ほら、カッコ付けだからお兄ちゃんは」
ごめん
ほんとにごめん
遅れてごめん
ケンカしてごめん
怪我して、ごめん
待たせてごめんなさい
彼は何度もはにかんで、ごまかすように、必死に、謝った。
京香はそんな彼をじっと見つめていて、僕の方を向いた。
「ごめん幸村。あたし行くね」
行くなよ。
「うん、じゃぁね」
あべこべな言葉に、彼女が離れていく。
京香は、所在無さげな弟の腕を強く引いた。
「いたいよ」「自業自得だ、ばかもの」、ふたりのやり取りが遠く聞こえる。
彼は彼女に引きずられるように、それでいて嬉しそうに、あとをついていく。
僕はその背中をじっと見送る。やがて夕日が沈むと同時に、彼らの姿も見えなくなった。
◆
成長した兄弟の兄の方をみたのは、あれから一週間後の部活だった。
もう日差しも暑くなってきたというのに、相変わらずフェンスの向こうの女性徒達は熱心に練習を見に来る。
しかしその日、いつもできる女子の群れがぽっかり穴を開けていた。
穴の中心には群れから頭二つ分ほど背の高い、うちとは違う高校の制服の男が陣取っている。
色黒で大きな体。後ろに撫で付けられた黒髪と、アザだらけの顔に鋭い目つき。制服は先日見た、ルカという男と一緒だった。
「コウ」
スコアをつけていた京香が、男をそう呼んだ。
「おぅ」と男は小さく返事して、片手を上げて応えた。そして「終わるまで待ってる」と言って、フェンスから離れた。
部員たちがざわめいた。
「気が散ってるぞ! 全員今から筋トレ!」
大声を出すと、全員がびくりと反応し「はいっ!」と返事をする。
ちらりと京香をみると「ありがと」と小さく唇が動いた。
彼女が部室に戻っていくのを見届けて、自分も筋トレにはいると声が聞こえた。
「あれ、〇〇高の桜井兄弟の兄貴だよな」
「最近転校してきたけど、そこらじゅうでケンカしてるんだろ?」
「藤井先輩ってそういう人だったのかよー。あぶねーなー」
「幸村、藤井と話してきたらどうだ」
よほど顔に出てしまっていたのか、鈍感な副部長に言われて僕は思わず「なんで」とぶっきらぼうに答えてしまった。
だが、副部長は驚きもせずに、むしろ納得したという様子で
「その返事がすでに幸村らしくない。気になるのだろ」
僕は少し黙り込んだ、……が、おとなしくその言葉をききいれることにした。
部室に向かう後ろで、「きさまら、たるんどるぞ!」と、副部長の怒声がきこえた。
薄暗い部室に入ると、彼女はタオルをたたみながら「あ、幸村。どうした?」と驚いた。
「京香、桜井さんたちと友達なんだね」
「……うん、そうだね」
「ただの友達?」
「どういう意味?」
「ただの友達なら、あまり付き合わないでほしい」
勝手な言い分だ。それは分かってる。
京香は怒らなかった。ただ悲しそうだった。
「ケンカばかりしてるって聞いた。テニス部はもうすぐ全国大会だ。マネージャーとはいえ、君に問題はおこしてほしくない」
僕は君が好きだ。
「なにより君自身も心配だよ」
だから他の男と一緒にいないで。
「京香は女の子なんだ」
僕に君を守らせて。
「もっと自分を大事にして」
弱い、君でいて。
「ごめん、幸村」
でもそれはもう、君じゃないよね。
僕は何も言えず、彼女は部室を出て行った。
◆
あの日から変わらず、部活の日々は続いた。
京香は変わらずマネージャーだったし、なにも問題はおきていない。
僕らは順当に全国大会を勝ち進み、明日は準決勝というところまできた。
僕はあの日以来、京香としゃべっていない。
もちろん、部活で業務的に話すことはあるが、プライベートなことは一切話さなかった。
僕は僕で、全国大会に全部をつぎこんでいたし、京香は京香で、なにかを考えていたのだろう。
あれから、桜井兄弟はうちの学校には現れていない。
ただぼんやりと、桜井兄弟の噂はきこえてきて、その噂を信じる者たちが京香を疎遠にしていた。
京香はただいつもどおりに、孤高で、美しく、強いばかりだった。
そして、僕らは決勝に進出した。
その日の帰り道は、あと一戦という緊張感と、夏も終わりだというさみしさと、勝利への希望があふれていた。
レギュラー陣がを引き連れて、僕は先頭を歩く。
後方にマネージャーの京香が背筋を伸ばして歩いている。
唯一二年生のレギュラーに選ばれた後輩が「明日の決勝も楽勝っす!」と意気込み、「生意気言うな、ばかもの」と副部長が叱咤する。それをみて、みんなが笑った瞬間にそれは起きた。
何かが激しくぶつかる音。
野太い人の怒号。
通行人の小さな叫び声。
みると、数人の男が喧嘩していた。
よほど激しい喧嘩らしく、何人かの男の顔には真っ赤なものがべっとりとついている。
周囲には僕たちと同じように、試合に参加した高校生や観客が、遠巻きにそれをながめていた。
「あれ、桜井兄弟じゃないか」
「ねぇ、警察よんだほうがいいんじゃない」
ざわめきの中で、その言葉がやけに鮮明にきこえた。
はっとして京香をみると、彼女は喧嘩の中心にいる人物を凝視していた。
よれよれになった金髪とみだれた黒髪。
「京香」
僕は彼女の名を強く呼んだ。
僕の声に驚いて、レギュラー陣も僕を振り返る。
呼ばれた本人である京香だけが、冷静な瞳で僕をみた。
「行くな!行くならマネージャーをやめてもらう!」
僕は、初めて、心と一致した言葉を、口にした。
京香は、泣きそうな顔で、にっと笑った。
「いままで、ありがとうございました!!!」
京香は大声で叫んで、すばやく、深く、とても綺麗なお辞儀をした。
そして獣みたいにさっそうと駆け出した。
自分のスポーツバックで男の一人を殴りつける。
驚いた兄弟の間抜けな顔。
白い手と黒い手を、彼女の強い力が引っ張る。
叫ぶ男たちの怒号とパトカーのサイレン音を背景に、大事な人の手を両手で引っつかんで、彼女は逃走した。
ああ、行ってしまった。言ってしまった。
止まることのないその背中を、僕は目に焼き付ける。
そして振り返る。
「さぁ、学校に帰るぞ。決勝にむけて練習だ」
何か言いたげな顔を並べながらも、部員たちは僕に従った。
鈍感な副部長も、何か言いたげに、しかし何を聞いていいのか分からないといった顔で、僕の隣を歩いた。
その顔がおかしくて、ぼくはくすっと笑う。
僕は君より弱かった。
君より強くなりたかった。
君が好きで、強い君が受け入れられなかった。
だから僕は失恋したのだ。
なのに。
『いままで、ありがとうございました!!!』
なんて。
男前で、格好良いんだろう。
その声は僕を鼓舞するように、何度も何度も、僕の中にひびいた。
誓いを、守れなくてごめん。
でも君を好きになって良かった。
ありがとう。