05
次の日曜日、黒川に招かれた嗣郎は、久しぶりに休日を有意義に消化しようとしていた。普段の休日はモモの散歩をするのがせいぜいで、学校の友人と遊んだりすることなどはなかった。ベッドの中で一日を過ごすことも珍しくなかった。しかし、家にいることが好きなわけでは決してなかった。休日となれば、父親が一日中家にいるためだ。父親も人付き合いに関心の薄い性質らしく、仕事終わりに酒を飲みに出かけたりするようなこともなかった。この日も父親の罵声で目覚めた嗣郎は、少なからずこの予定外の外出を喜んだ。
黒川の自宅は坂の上の団地にあり、嗣郎は斜面を自転車で上るのに難儀した。きっと黒川ならば楽々とこの坂を上るのだろうと推測する嗣郎の心には、やはりまだ黒川への嫉妬心が根ざしていたといえる。途中から自転車を押して坂を上りきった嗣郎は、汗が引くのを待って黒川の自宅の戸を叩いた。
嗣郎は黒川の親が出て来るのではないかと思って身構えたが、予想に反して黒川本人が応対に出て来た。黒川は上下に白のジャージを着ていて、よくくつろいだ格好をしていた。嗣郎が途中で買って来た和菓子屋の饅頭を差し出すと、黒川は顔を綻ばせて礼を言った。嗣郎は家族で食べるようにと言ったのだが、客をもてなす物を用意し忘れたからと、二人分の饅頭を取り分けた。
黒川の自宅は居間が一つと寝室が二つあり、嗣郎はその寝室のうちの黒川が使っている方の部屋に通された。冷たい麦茶で喉を潤し、饅頭を食べる。嗣郎は適当に選んだつもりだったが、饅頭の予想外の美味しさに満足した。
「美味いな」
「ああ、美味しい」
まだまだ育ち盛りの二人である。饅頭をあっという間に平らげてしまった。そうして食後の満足感が生み出す緩やかな雰囲気が、どこか緊張していた二人の気持ちを和ませた。
それが嗣郎に黒川の寝室を観察する余裕を与えた。テレビやラジオの類はなく、勉強机は整然としていて、本棚には小難しい専門書が何冊か並んでいた。印象は簡潔というよりも、質素といった方が正しい。嗣郎はある疑念を抱いた。
「今日、ご両親は仕事なのか?」
「母はパートなんだ。父は俺が小さい頃に離婚して、今は母と二人暮らしだ」
そのことを肯定的に捉えた嗣郎を誰が責めることが出来るだろう。あの父親の狂気を知る者ならば尚更。嗣郎が瞬時にその稚気を恥じたのは、彼にとっては褒められるべきことだろう。
「そうか、父親はいないのか……」
「不幸なことにね。父親ってものをよく知らないんだ、俺は」
そんなに良いものじゃない、と言いかけて嗣郎はやめた。それを言うほど軽薄ではなかった。
「どういうものなんだろう、父親っていうのは」
「そんなに父親が恋しいのか?」
「恋しいね。父殺しが出来ないんだから」
父殺し。その言葉の響きに嗣郎は息を呑んだ。
「俺には乗り越える相手がいないんだ。母のことは好きだし、対立する相手として相応しくない」
「そうか、この前言ってたことは……」
世間から必要とされている立派な仕事に就き、そのうえで多額の報酬を手にしたい。その野心は黒川の母親を助けたいという思い、そこに発しているに違いない。嗣郎はそう理解した。しかし、もっと核心を突けば、そこには重大な何かがあるに違いない。父殺しの出来ない男の恐るべき野望が。
「いや、本当は母親すら愛していないのかもしれない。よく十和子に言われるんだ、冷たい人だって」
「そんなことはないだろう。本当に冷たい人間だとしたなら、赤司が好きになるはずがない」
「さあ、どうだろうね」
先日来、嗣郎の黒川に対する印象は大きく変容していた。平素の黒川は専ら付き合いにくいとか冷然としているとか、嫉妬もあるだろうが負の側面だけが嗣郎の知るところだった。ところがどうだろう、そのようなところを単純に負の側面として考えていた嗣郎は、思い悩む黒川の姿を好ましく感じるようになっていた。黒川は成績の良いことや素行の良さで知られていたから、そんな彼の苦悩する姿は嗣郎にとって兄と重ね合うところもあった。
「父親がいないのなら、その代わりを見つければいい。兄弟はいないのか?」
「一人っ子だ」
「思い当たる相手は?」
「今は……思いつかない」
それが、二人に訪れる初めての静寂だった。嗣郎は不思議と居心地の悪さを感じなかった。
翻って黒川の方は、自室に初めての人間を招くという状況もあって、少しばかりの気まずさを覚えた。それが黒川に似合わぬ提案をさせた。
「どこか外へ出て、昼食でもとろうか」
「そうだな、饅頭だけじゃ物足りないか……」
父殺しの密談をするにはその部屋は狭すぎた。広さとしては不足がなかったが、この広さでは子供騙しの密談が真に迫りすぎる。その証拠に黒川はどこか酩酊したような気分を覚えていた。
黒川は嗣郎のことをよく聞き知っていたから、彼と接することにはまるで抵抗がなかった。それどころか、実際をよく知りたいと思うほどだった。そのために自室まで彼を招くことにまでなったわけだが、こうして休日の日和の下を自転車で疾駆するのは爽快だった。特に路地を抜けて川沿いの広い道を走るときの気持ち良さときたら! 風に遮られて切れ切れになる会話さえ心地良かった。黒川の見たところ、嗣郎もこの状況をよく受け入れているようだった。
「なあ、どこへ行こうか」
どこまでも、どこまでも! 黒川は叫び出したい気持ちを抑えて、行きつけの喫茶店の名を告げた。駅前でファーストフードを食べても良かったが、黒川はそれを好まなかったので、十和子とのデートではよくその喫茶店を利用していた。黒川はそこまでのことを話はしなかったが、嗣郎の方ではいつものデートスポットであることを見抜いたらしく、口元が緩んでいるのが見えた。
そこはありふれた喫茶店である。白髪の店主と小太りの女性が切り盛りしている。いや、切り盛りしているといっても、あまり流行っている店ではない。店先は雑然としているし、店内の照明は薄暗い。何度かねずみ講の勧誘をしている客を見かけたこともある。それでも黒川がこの店を好んだのは何故だろう。きっと、普段は抑圧しているある側面と共鳴し合って、彼の心を揺り動かしたのだろう。ほんのりと漂うアングラ感のようなものが。そこに惰性という言葉を付け足せば、この店を好む理由は全て説明出来るような気がした。取りこぼしがあるとすれば、いつも食べるベジタブルカレーの美味しさだ。
「あっ」
先に店に入った嗣郎の漏らした声に、黒川は慌てて店の中を覗きこんだ。そこには十和子と和良の姿があった。この四人の中で最も動揺したのは誰だろう。きっと嗣郎と十和子ではないはずだと、黒川はそう思った。
しかし、十和子もかなり動揺していた。それに彼女は嗣郎の表情をよく見ていたし、彼が和良に思いを寄せていることを知っていたから、彼が驚愕していることをよく理解した。
「ここ、座って」
四人掛けの席に和良と対面で座っていた十和子は、ほぼ無意識のうちに席を明け渡していた。十和子の動揺の原因は、ある理由を除けば、黒川と嗣郎が共に行動しているためだった。幼馴染である嗣郎に、よく利用するデートスポットを知られることの気恥かしさも多少はあった。
一度は顔を見合わせた黒川と嗣郎も、十和子の提案に従って彼女たちと相席した。小太りの女性が水を運んで来るまでの時間は、しばらくの間でしかなかったはずだが、十和子にはあまりにも長く感じられた。
「ベジタブルカレーを」
「俺は……とりあえずコーヒーで」
いつものように好きなものを注文する黒川のことを、十和子は恨めしく思った。いつもは明晰な彼の頭脳も、感受性の強い嗣郎の心に優ることは出来ないようだった。嗣郎の視線のぎこちなさときたら。
「二人が友達だったなんて」
意外にも口火を切ったのは和良だった。十和子はこれまでに何度も思い知らされてきたように、彼女には勝てないと思った。
「友達……でいいのか?」
「ああ、友達だ」
それにしても、と十和子は思った。黒川が率先して友人を作りたがるところは初めて見た。嗣郎がそれに応えたのも意外だった。
「二人はここで何を?」
黒川の声が僅かに震えているのを十和子は聞き逃さなかった。彼にも心の揺らぎがあることを彼女は知った。
「ちょっと十和子に相談を」
「ふうん、そうか」
もう少し踏み込んでさえくれたなら。十和子は再び黒川を恨んだ。それでも、そうすることが出来ない理由があることを、十和子は感じていた。
と、注意が黒川に向いている間に、嗣郎が何かを手に握りしめていることに十和子は気付いた。
「青井――」
嗣郎が何かを言いかけたとき、小太りの女性がコーヒーを運んできた。彼女が去るまでの時間は、やはり十和子にはあまりにも長かった。
「これ、俺の連絡先だ」
嗣郎が渡したのは連絡先を書いたメモ用紙だった。手渡したとき、それがあまりにも粗雑に感じられたので、彼は多少の後悔を抱いた。
「あ、ありがとう」
和良は恭しくそれを受け取った。その瞬間の波紋の広がりを、嗣郎は感じることが出来なかった。波紋は四人掛けのテーブル席一杯にしか広がらなかった。それでも、その波紋はあまりにも激しく、四人の心を揺さぶった。
その後の会話を、嗣郎はまるで覚えていない。一時間か二時間、もしくは何十分か経過した後に店を出て川沿いの道を走ったところで、彼はようやく空腹なことに気が付いた。口に残るコーヒーの風味が、少しばかり苦かった。
その夜、黒川もあることに思い至った。己の和良に対する好意である。