04
無駄なことだと、嗣郎は分かりきっていた。いつになく和良が放課後まで教室に残っているので、嗣郎も授業の復習をするふりをして、教室に残ったのだ。既に終業後の喧騒は去り、無駄話に耽っていた生徒たちも帰路に着いた。二人きり、の空間だった。彼女はといえば、今日は誰かと待ち合わせでもしているのか、文庫本を読みふけっている。彼はプリントやノートの整理をするふりをしながら、彼女の後姿に目をくぎ付けにされた。と、彼女が文庫本を閉じた。そのまま立ち上がると、窓の方へと近寄り、グラウンドの野球部の練習をしばらく眺めた。
それは、純粋な少女の横顔だった。彼にはそう思われた。
「ねえ」
視線を外したまま、彼女がそう言った。教室内には他に誰もいない。だから、明らかに彼に話しかけているのだ。
「お、俺?」
「そう、嗣郎くん。……どうしよう、私、馴れ馴れしかったかな」
「いや、別に構わないよ。みんなもそう呼ぶから」
「みんな、か。そうね、私もみんなのうちの一人だものね」
妙なことを言うものだと彼は思った。向き直った彼女の悲しげな瞳が、彼の心を貫いた。
「嗣郎くん、私のことをどう思ってる?」
「えっ?」
「幼稚園の頃からずっと同じで、今も同じクラスにいるのに、私たちってあまり話したことがないでしょ。それがなんとなく不自然に思えてきて……、私のことが嫌いだったりする?」
「いや、そんなことはないよ」
「そう。私ね、不思議とみんなに好かれるの。だからあなたも、私のことをそうなんじゃないかって、想像してたんだけれど」
「まあ、好き……かな。いや、もちろん、そういう意味じゃなくて」
「ふふっ、分かってるよ」
初めて彼女が笑った。そうだ、普段の彼女はいつも笑顔なのに、今日は笑うところを見ていなかった。
「こんなに話すのは初めてじゃないかな」
「いや、中学のときにもっと話したことがある。中二の秋だったかな」
「よく覚えてるね。……あっ、やっぱり私のこと好きなんだ」
彼は笑ってごまかした。好きだと言ってしまいたかった。それはできなかった。
「嗣郎くんの連絡先、教えてくれない?」
するりと差し出された要求に、彼はごくりと唾を飲み込んだ。頭ではどう返答すべきか、まだ決めかねていた。しかし、無意識のうちに首を振っていた。
「ごめん、ケータイを家に忘れて、教えようにも教えられないんだ」
「そう……、そっか」
そう言って、和良は微笑んだ。その微笑みには、先日の微笑みのような微妙さがなかった。そこには明瞭に愁いの色があった。
窓外の暗いところを降る雨は、いよいよその強さを増している。学校からの帰宅途中に降り始めた雨が、モモの散歩という――それと煙草を吸う――楽しみを奪ったのだ。嗣郎はこんなふうに散歩が出来ない日は、どこかそわそわして落ち着かず、日頃から欠かすことのない勉強をする手も上滑りするようだった。
彼は自分だけの寝室という私的な空間を持っているが、たまに掃除と称して母親が侵入して来たりする。そのため、彼は煙草とライターの隠し場所に苦慮したが、今では勉強机の引き出しの奥が、その秘密道具の隠し場所になっている。母親は彼の成績の良いことを喜んでいるが、まさか聖域とも言える勉強机の中に煙草が潜んでいようとは、終ぞ考えないことだろう。
ところで、彼には独白の癖があった。それはモモという人の言葉を解せない動物に対するようなものであったり、単に一人でいるときに口を衝いて出るものでもあったりする。重い物を持ち上げるときのかけ声や、何かを始める前に気合を入れるための声のような、そのような軽いものが大半ではあったが、明確に会話を再現することもある。
「嗣郎くん、か……」
数式を書く手を止め、ベッドに寝転がった彼は、天井を見上げながら呟いた。和良との、あの会話を。
「不思議とみんなに好かれる、……どういう気分なんだろう」
彼女は自分の容姿と器量が優れていることを、十分に理解しているのだろう。そんな彼女が特別な相手を作らないことは――噂ではそうなっている――、何を意味しているのだろう。
まず、自分という量りを使って想像してみる。現実的に容姿と器量の不足を考えることはやめて、自分自身が特別な相手を作ろうとしないことを考えてみる。彼の心の中では別の言葉が発見されたかもしれないが、それをよく整理して提出すると、やはり諦念ということになるだろう。彼は諦めているのだ、幸福になることを。
幸福とは何か? それは様々な形で我々の前に姿を現すかもしれないが、最も広く共感されるのは、自分を理解してくれる相手という形をとった場合だろう。そこに恋愛というスパイスがかかっていることもあれば、もっと無骨な装いをしているかもしれない。自分を理解してくれることは、自分の肯定という次の段階を予感させる。その予感のあることだけで、人は幸福を感じるものだ。
尤も、必ずしも肯定に至るとは限らない。五年間の肯定の後に、十年間の否定がやって来るかもしれない。相手のことを理解しているからこそ、許せないこともあり得るのだ。それはちょうど、彼の両親の状態に等しい。彼らもお互いのことを理解しながら、一方は暴力をもって、他方は涙をもって、意思の伝達を行なっているのだ。理解というむき出しの形では、今以上にお互いのことを傷つけあってしまうのだ。
彼にはそれだけのことを理解出来たが、和良の内面のことはまるで想像がつかなかった。
「よし」
突然身を起こした彼は、机に向かって手帳を取り出した。書きとめる何かがあるわけではないが、黒の手帳を持つという嗜みもあるのだ。彼は七分の諦念を宿してはいるが、三分の希望をも有している。
彼は白紙のページに自分の連絡先を書きこんだ。書きこんだところで、強烈な自己嫌悪に襲われた。そのページを引き裂こうとする手を、寸前のところで抑えた。
「誰にだって希望があっていいはずだろう、誰にだって……」
彼はやはり、独白した。
次の日、嗣郎は和良に対するよりも早く、黒川健吾に対峙する必要があった。移動教室の際に忘れ物として残されていた黒川の筆箱を、嗣郎が見つけて届けることになったのだ。折しも昼食時間の前である。見知らぬ顔の多い他のクラスに足を踏み入れることに、嗣郎は少し緊張していた。それでも上背がある黒川を見つけるのは容易だった。
「黒川……くん、これ」
振り向いた黒川の表情に色はなかった。嗣郎の顔を認めた瞬間の強張りを、嗣郎は見逃した。それでも黒川はそれ以上の感情を表に出さず、嗣郎の差し出した筆箱に目を落とした。
「理科室で見つけたんだ。ちょうどきみの名前が書いてあったから」
「……ああ、それでわざわざ来てくれたのか。たしかに俺の物だ、ありがとう」
「良かった。……それじゃ」
「あっ、待てよ。昼飯ぐらい奢らせてほしい」
「えっ?」
売店でパンを、自動販売機で缶コーヒーを買った黒川は、嗣郎を渡り廊下へと誘った。窓の外の秋空はどこかどんよりとしていて、嗣郎の心を映しているかのようだった。彼にしてみれば恋敵ともいえる男と昼食を共にするには、果てしない心労を必要とした。木製のベンチに腰かけた嗣郎は、隣に座った黒川との体格の差を痛感させられた。嗣郎は上背がありながらも貧弱な体つきで、黒川は身長も筋肉も申し分なかった。尤も、そのようなことを気に病む嗣郎ではないのだが。
見知らぬ相手との沈黙を苦にしない嗣郎にとっては、相手の出方を見守る好機だった。その意に反して、黒川はあっさりと口を開いた。
「嗣郎、だったっけ?」
「ん、ああ。大抵はそう呼ばれてる」
「よくその名前を聞いてるような気がするよ。実は……」
「赤司と付き合ってるんだろ? 幼馴染なんだよ、あいつとは」
「ん? へえ、そうなのか」
会話は弾んだ。中学時代の話や偏屈な理科教師の話を経て、進路希望のプリントの話になった。嗣郎は自分でも意外に思うほど、あっさりと進路について悩んでいることを口に出した。
「昔から願望がなかったんだ。大人になったら何がしたいだとか、そういう願望が」
「夢も希望もない、ってところか。残念だけど俺にはよく分からない心境だなあ」
「まあ、そうだろうな。俺にもどうしてこうなったのか、よく分からないから」
「俺は立派な職に就きたい。世間に必要とされていて、多くの報酬を貰えるような。そのためにはまず良い大学を出ないといけない」
それが黒川の、野心だった。黒川と自分とは水と油なのではないかと、嗣郎は改めて思い至った。
「俺とはまるで違うんだな」
「そうだね。でもそれがいいんじゃないかな、だから人は人を好きになるんだ」
「おいおい、ここで恋愛論でも打ち上げようっていうのか」
「いや、恋愛に限った話じゃないんだ。まだ好きというほどじゃないんだけど、俺は嗣郎のことが気に入った」
はっ? と思わず声が出てしまっていた。
「どうだろう、今度うちに遊びに来ないか?」
「待てよ。どうして急にそんなことを」
「俺のことを理解してもらえるんじゃないかと思ってさ。もちろん、嗣郎のことも理解したいと思ってる」
「……」
嗣郎は唖然とするしかなかった。自分の隣に並んでいるのは、最早少年というよりも青年に近い、一人の立派な男だった。嗣郎はこの男のことを、少しずつ関心をもって眺めるようになってきていた。