03
その日の嗣郎の帰り道は珍しくクラスメイトと一緒だった。彼女は赤司十和子、青井和良と同じく嗣郎の幼馴染だ。とはいっても特別に仲が良いということはなく、けれども幼馴染ということでよく打ち解けていた。この可愛らしい幼馴染をもったことを嗣郎は何度か羨ましがられたものの、彼は十和子に恋愛感情をもったことはなかったから、その気持ちはまるで分からなかった。たしかに見た目は可愛らしいけれども、性格の優しさを除けば特に秀でたところはなく、恋愛感情はもち得なかったのだ。
と、これが嗣郎の十和子評だが、少し醒めたところのある彼らしい見方といえた。だからこそ話半分に聞いておかなければならない。実際、男子生徒の多くは十和子のことを好意的に評価していたし、彼女の方も異性に対しては積極的な性格だったから、人気の高い男子と付き合っては別れるということを繰り返していた。
「それでどうなの、結城?」
「どうって、何がさ」
「和良のこと」
嗣郎の和良に対する恋愛感情は、生まれたての幼いものではなかった。遡れば小学生の頃のある出来事をきっかけにして、その感情はこの世に生を受けたわけだが、どういうわけか十和子はその感情に気付いていたらしい。嗣郎も十和子にだけは包み隠さず心情を吐露したが、彼女に和良との関係を仲介してもらおうとはしなかった。それは彼のプライドがそうさせる面もあれば、怠惰や恐れなど、様々な感情が入り乱れていた。
「連絡先ぐらい私が教えるのに」
「いいんだ、下手な希望を持たせないでくれ」
「絶望してるとでも言いたいの? さては和良と何かあったんだ」
十和子が意地悪な表情でそう言った。嗣郎の十和子評が辛辣なのは、この点に由来した。彼女のコミュニケーションに不足はなかったが、過度なところが目立った。一歩引くベきところでそれができない、ある意味のコミュニケーション下手だった。
このときも嗣郎は黒川とのことを話すつもりはなかったが、彼女に探りを入れられて、仕方なくいくつかのことを話す気になった。
「黒川って知ってるだろ? 最近、青井と親しくしてるらしいんだ」
「へえ。中学も違えばクラスも違う二人がどうして接点を持ったのか……、それが気になるってこと?」
「不安なんだ。俺は黒川のことをよく知らない。もし付き合っているとしても、変な男とは付き合ってほしくないんだ」
十和子に恋愛相談をする嗣郎は、途端に幼くなってしまうようだった。
その必死な相談を受ける十和子はといえば、意地悪な表情を崩しかけ、次の瞬間には大きな口を開けて笑い声を上げていた。
「どうして笑うんだよ」
「無骨で古風なところがあるけど、誠実で優しくて、とっても良い人だよ。だって、私の彼氏なんだから」
「はあっ、本当か?」
今度は嗣郎が大声を上げる番だった。言葉の最初は怒りが勝っていたが、語尾には望外の事態に喜びがありありと表れていた。
「じゃあ、赤司があの二人を結びつけたのか?」
「それは違うの。でも、私と付き合ってるから和良も仲が良くなった、ってことはあり得るかも」
「脅かさないでくれよ。怖かったんだ、あの二人が一緒にいるところを見ると」
十和子の笑みが薄れて来た。彼女はどうして、と嗣郎に尋ねた。
「傍から見ていると自然というか、よくお似合いの二人なんだ」
「そう、そうかもね。私と黒川くんじゃ似合わない、和良とはお似合いかもしれない……」
十和子の表情が不意に曇った。そのために晴々としていた嗣郎の心も、どこか落ち着きを失ってしまった。
「嗣郎、勉強はちゃんとやってるか?」
兄が嗣郎を自室に招くのは珍しいことだった。それは行為自体を指すのではなく、頻度を指している。数か月に一度、兄はこうして嗣郎を自室に招くことがあった。
「うん。人並みにはやってるつもり」
二人の横で首を振る扇風機を見ながら、嗣郎は兄の不遇を思った。兄は最早、父からも母からも嘱望されていないが、兄の方は両親に引け目を感じているらしい。夜だというのに兄の部屋は薄暗く、自分の使う光熱費を気にしているのは明らかで、その引け目は期待を受けているという自負が形を変えたものだと、嗣郎は思った。兄は食事も控えめにとっていたから、少し痩せぎすになっていた。
兄は元から努力家で、勉強をやらせれば学年でも上位十人の内に入ったし、高校では遂に一日も欠席することがなかった。努力をすることの意義を兄以上に知る人はいないと、努力の虚しさを知る嗣郎は思っている。就職活動に失敗し、今でこそ引きこもってはいるが、兄は聡明で心根の優しい人だったから、嗣郎の兄への尊敬の念は変わらなかった。
そんな兄がたまに嗣郎を自室に誘うのは、やはり彼らしい理由があり、それは兄としての役割を果たさんとするためであった。つまり、弟の良き理解者であることを。
「学校の勉強に拘らず、色んなことを学んでおくんだ。一番大事なことは友達付き合いだ」
「友達か。俺はあんまり好きじゃないな、馴れ合うような関係は」
「一人で得られる知識や経験は、思っている以上に少ない。色々な人間を通して色々なことを知ることができれば、人としてもっと豊かになれるはずだ。それが人付き合いの醍醐味だ。今は人付き合いが苦手かもしれないが、最初はもっとドライに考えてもいい。要するに、他人を情報源と考えるんだ」
「情報源……?」
「そう。人というものはな、一人一人個性があって、色々なことを考えてるものだ。それぞれの知識や経験や思想に触れることが大事だ。もちろん、それを読書という方法で代替することもできるが、やはり生の情報には敵わないだろうな」
嗣郎が無意識のうちに感じたのは、兄との対照的な性格だった。嗣郎は諦念を宿しているが、兄はまだ諦めていない。その微妙なずれが、嗣郎を少なからず傷つけた。
「ところで、彼女はできたか?」
「まだ。今は彼女なんてほしくないから」
嗣郎は小さな嘘を吐いた。この嘘に理由はなかった。しかし、それがまた嗣郎の心を自ら傷つけてしまうのだった。
「兄さんはどうなの」
「俺か? 俺は……」
「玲子さんとのこと、まだ引きずってるんでしょう」
それは兄が結婚を誓い合いながらも破局を迎えた女性の名だった。
嗣郎の口から咄嗟に出たその言葉が、兄の表情を歪ませた。内心では怒りに震えていただろう。それでも年長者としての矜持のためか、怒りを面に出すことはなかった。
「それはもう終わったことだ」
「ごめん、つい……。もう部屋に戻るよ」
「なあ、一つだけいいか?」
「うん」
「父さんは俺のこと、何か言ってなかったか?」
やはりこの人は何も知らないのだ、と嗣郎は思った。
「さあ、どうだろう」
兄は少し間を置いて、
「分かった。ありがとう」
自室に戻った嗣郎は、開け放しの窓から首を出した。空には見事な満月が輝いている。
そこから自殺をするには、とても高さが足りなかった。そこから自殺をするには、とても絶望が足りなかった。
世界の果てに壁の崩壊を見た和良は、乾燥した音楽の世界から帰還した。一つのオペラでも堪能したかのような陶酔に和良は怖気立った。それがまさに官能的な満足感に等しかったからである。和良は額の汗を拭い、窓を開けて暑気の抜けきれない外気を取り込んだ。空には見事な満月が輝いている。
今日は数学を解く気にはなれなかった。英語も政治経済も食傷気味だった。たまにはこんな日もいいかと、ベッドに寝転がってみる。勉強を放り出して浮かんで来るものは、果てしない自由への憧れ。このままどこか遠くへ、どこか知らない場所へ行けたら良いのに。ロマンス映画のようにどこか異国の地でバカンスを味わってみたい気もした。とはいえ、ベニスに死するのだけは避けたいところだ。例えば、あのグスタフのように。そして、あのワーグナーのように。
ロマンス映画ならば、相手役が必要だ。和良はいくつかの顔を思い浮かべた末に、よく見知った少年の顔を思い出した。いや、忠実に思い出せたわけではない。注視したことなどないのだから。彼女は彼のことが好きだった。理由など、今はどうでも良かった。
しかし、彼に好意を伝えるには、とても勇気が足りなかった。彼に好意を伝えるには、とても言葉が足りなかった。