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サイケデリック・ワルツ  作者: 雨宮吾子
諦念のオイディプス
6/11

02

 青井和良は音楽というものが好きだった。ヘッドホンを耳に装着したときの、あの静謐。ボタンを押せば流れ始める心地良い音楽。肉体は間違いなくここにあるのに、精神が世界の果てに飛び立っていくような、他ではあり得ない体験。和良は時々、瞼の裏に宇宙の誕生を見た。星が生まれたり、衝突したり、爆発して塵となったりする瞬間を。宇宙の胎動を感じるとき、彼女は無限の可能性を内に秘めていることを再認識する。

 例えばワーグナーのタンホイザー序曲の、あの官能的な弦楽器の響き。語る言葉は必要なく、ただそこに音色が存在しているというだけで、音楽は成立する。彼女は音楽を聴くとき、人類が繰り返して来た営みを追体験するのだった。そしてそれは、彼女だけの秘密だった。

 そのような体験を語ったとき、彼女の友人は何と言うだろうか。きっと冷然とした反応をされるか、ふざけているのだと勘違いされるだろう。良き理解者を持たないという意味では、嗣郎と近しいところがあるかもしれない。しかし、二人はそのことをまるで意識していなかった。だからこそ、嗣郎は和良への好意を持ちながら、その共通項を活かそうとはしなかったのだ。

 私には理解者がいないのだ、と彼女は思ってみたりした。手を伸ばせば誰かがそこにいる。けれど、誰でも良いわけではない。自分が必要とし、自分を必要とする、そんな誰かが欲しいのだ、と。 

 器量にも容姿にも優れた彼女が、何故良き理解者を得られなかったか。それはもう言うまでもなく、その優秀さが彼女の孤独を生みだしているのだ。彼女は自分の優れていることを知っているし、自分が嫉妬を向けられる側の存在であることも知っている。その環境が、彼女に理解者を探す努力を放棄させた。放棄はしたものの、嗣郎が彼女への好意を捨てきれないのと同じように、彼女も諦めはしなかった。






『おやすみなさい』


 友人とのメールを終えた和良は、物足りなさを感じて、何度も読んだ大好きな小説に手を伸ばした。ページをめくる度に、この漫画と出会った日のことを思い出す。それは中学生の頃のことで、遠い時間の彼方にある出来事というわけではないが、あの頃は毎日が楽しかった。いつも分からないことだらけだったが、未知のものに対しては好奇心が勝った。今では新しい経験を前にすると、どこかで恐怖を感じてしまう自分がいる。

 それは未知のものに対する不安というよりも、厳密には自分自身への不安だった。いつか自分が壊れてしまうのではないかという不安。自分自身を律することが出来なくなるのではないかという不安。その不安をもたらすものは、焦がれるような自由への憧れだった。厳格な家庭に育ったということが多分に影響しているけれども、それ以上に彼女自身の性格の問題だった。

 この小説のようにハッピーエンドを迎えることが出来たらいいのに。彼女は「華厳のオフィーリア」という小説を読みながら、そう思った。




 和良は朝五時にベッドを出た。その時間に起きたのではない、その時間になっても遂に眠れなかったのだ。こういう日は授業中でも思考が虚ろになって、アレの日だの何だのと、あることないことを吹聴されてしまうのだ。だが、彼女は短時間の睡眠を諦めて机に向かった。他人からどう思われようが関係はないし、今は勉強に励むことが大事なように思えた。

 そう、彼女もある意味で諦念を抱えているのだ。嗣郎と違って彼女がそれに溺れないのは、少なくとも勉強という逃げ場所があったためで、父や母に寄りかかることも出来た。そして嗣郎と同じように彼女は自分の身を犠牲にして、温かい家庭という虚構を守っているのだ。

 虚構。父と母の関係が随分と前から冷え込んでいることには気付いていた。そう長くは保てないだろう、この関係は。


「……」


 数式を解く手の動作は、まるで精密機械のように美しい。顔つきもどこか引き締まって来たように思える。そう、彼女にとって、勉強と写経とは同義なのだ。集中力を高め、心を清らかにし、精神の安定を図る。嗣郎が煙草を以て現実逃避をしたのと比較すれば、それはとても有意義な現実逃避と言えた。

 しかし、それは同時に危うさをも兼ね備えている。現実逃避の結果としての好成績を、つまり他人からの評価のみを心の拠り所とするならば、いつか破綻を迎えるだろう。それを自分の外に依存しているままでは。彼女は狡猾さも大胆さも知らないという点で、まだ少女であると言えた。

 彼女が手を止めたとき、東の空は随分と明るくなっていた。窓を開けて、新鮮な空気を吸いこむ。どんよりとした気分は晴れないけれど、少しは楽になった気がする。音楽プレーヤーを手に取り、何を聴こうか迷ったが、お気に入りのアルバムにした。最初に流れるのは、「降っても晴れても」という曲。

 降っても晴れても、何が起ころうとも、生きていかなければならないのだから……




 よく眠れなかった日には、和良はいつにも増して笑顔を作る。笑っていると気分が晴れるような気がして、けれどそれは気がするだけで、実際には嫌な思いが心の底に累積していくのだ。

 彼女は無理に笑う。無理に笑うことで、誰かに気付いてもらいたいと考える。けれど、誰も嘘の笑顔を見破りはしない。嘘の笑顔を本物の笑顔と取り替えて、それでもコミュニケーションが成立するのだから不思議なものだ。

 さすがに幼馴染の赤司十和子などは彼女の不調に気付いたようだが、今の和良は彼女に寄りかかることを望まなかった。三時限目の授業が終わり、彼女は廊下で彼をつかまえた。何となく、彼と話したいような気がしたのだ。


「昨日はありがとう、私の話に付き合ってくれて」

「いや、構わないよ」


 その男は黒川健吾といった。黒川といえば、和良と二人で公園のベンチに座っていたあの黒川だ。和良はそのときの礼を言うと、頭を下げた。再び彼の顔を視界に収めたとき、少し立ちくらみがするようだった。


「あのね――」


 笑顔が空回りした。テレビの話でも勉強の話でも構わないのに、言葉が出てこなかった。笑顔を浮かべたまま、彼女は静止してしまった。

 黒川は視線を彼女の顔に注ぎながらこう言った。


「ちゃんと寝てないみたいだけど」

「えっ?」

「疲れた顔をしてる。勉強をするのはもちろん構わないけど、体調の管理もしないと」

「う、うん……」


 彼女は彼の紡ぐ言葉が好きだった。そこにはまるで肉親のような優しさがあった。その優しさは父親のそれ以上だったかもしれない。彼の洞察力にも畏敬の念を覚えた。相手が自分をよく理解してくれるということは、とても幸福なことなのだ。

 ある少年にとって、つまり嗣郎にとって不幸なことは、この二人が打ち解けた会話をしているところを目撃してしまったことだ。頬が熱を帯びるのを、嗣郎はどうしても抑えきれなかった。

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