01
憂鬱の朝はいつものようにやってきて、少年の心を乱す。教室に入った少年は毒にも薬にもならない友人たちに挨拶を済ませると、表情を殺して自席に着いた。
少年は結城嗣郎といった。十六歳の高校二年生。成績は良くも悪くもなく、運動神経は平均的。目立つような性格ではなく、友人の数は辛うじて両手の指が必要な程度。友人たちからは真面目な性格だと評されたが、生真面目という程ではない。実は彼こそが毒にも薬にもならない存在として認識されているが、彼自身もそれを知っていた。それでいて、何とも思わなかった。
最後列の席に座った彼は文庫本を片手に持ち、ちらちらと時計に目をやった。チャイムが鳴る十分前には、青井和良が教室に入って来るはずだった。彼は一つの賭けをすることにした。いつもの時間に和良が入ってこなければ、昨日の光景は嘘になる。もしも時間通りに和良が入って来たなら、彼女への気持ちは諦めよう、というふうに。同じような賭けは今までに何度もやってきた。それでも諦めきれないのだ、このことだけは。
ちらちらと、教室の入り口に視線を向ける。続けて時計に目をやれば、まだ十五分前。くるりくるりと秒針が回って、掌の上で茂みの中から虎になってしまった男が現れたとき、和良がいつものように教室に入って来た。いつも通りの時間、いつも通りの歩幅、いつも通りの笑顔。その微笑みが彼に向けられることはなかった。彼はやるせない気持ちになって、本を閉じ、行きたくもないトイレに足を向けた。そして、昨日の光景を思い出さずにはいられなかった。
嗣郎は人気の少ない神社の境内で、煙草を吸うことを日課にしていた。法的にも倫理的にも好ましいとは言えないその行為が、彼の唯一の息抜きなのだ。初めこそ神聖な場所での背徳を躊躇したが、その場所が昔からのお気に入りだった。聖域を守る木々の荘厳さや祀られた神への畏敬の念はないが、まさにそのために生まれる静謐を彼は好ましく感じている。
「ふう」
煙草の火を足で踏み消した彼は、愛犬の散歩という日常に舞い戻った。煙草と共に過ごす時間は、彼にとっては日常の一コマと言えたが、それは限りなく私的な時間だった。家族すら知らないその時間は日常の一端とは言えないだろう。そのために、彼にとっては特別な時間となるのだが。
愛犬のモモだけが、彼のその姿を知っている。彼は犬の散歩と言う面倒な仕事を、この一時のためだけに喜んで引き受けた。少なくとも彼はそう思っていた。
「なあ、モモ」
柴犬のモモが振り返る。彼は時々この犬の利口さに驚かされ、そのためにこの犬を愛した。
「このことは俺とお前だけの秘密だぞ」
モモが鼻を鳴らして応じる。彼はモモの頭を撫でてやると、散歩コースの折り返し地点を回って、帰路に就いた。自分の高校と同じ制服を着た二人組を見かけたのは、町内でも二番目に大きな公園の前を通りかかったときだった。彼はコンタクトレンズ越しに、同じクラスの青井和良の姿を認めた。彼女は同級生の男と、同じベンチに座って身体を寄せていた。あれは――たしか黒川という男だ。
嗣郎にとって、彼女は数少ない幼馴染の一人だった。幼稚園の頃からの仲で――、いや、知り合いという程度の関係でしかない。幼馴染と言うのもおこがましいと思える程だ。だが、彼女は彼に優しく接してくれるので、彼は一方ならぬ好意を抱いていた。
彼女に好意を抱く男子は少なくはないだろう。嗣郎と同じく目立つような性格ではないが、成績も器量も良いので男女ともに人気が高い。もちろん、嫉妬される向きもあるだろうが、どちらかといえばさっぱりした彼女の性格が、それを抑制させているのだろう。あるいは、この黒川という男も彼女に好意を寄せているかもしれない。
このような事情から、彼はこの二人に興味を抱いた。とはいっても、彼は物陰に潜んでこそこそと監視をするような性格ではなかったから、そのまま通り過ぎようとしたのだが、モモがその場に腰を下ろして動かなくなってしまったので、彼は仕方なく――疑問符付きの仕方なく、だが――二人の方を眺め続けた。眺めるといったのは、やはり物陰に潜むようなことをせず、堂々と相手からも見える位置に立ち止っていたためだ。しかし、相手の方は何やら会話に夢中になっていて、彼の方に気付く様子はなかった。
二人が身を寄せている、といった。しかし、よくよく注意して見ると、二人の間には得も言われぬ空間があった。身体を密着させているわけではないのだ。嗣郎は心の片隅でほっとしたし、その感情を見逃さなかった。もしも二人が故意に密着し、手でも握り合っていたとしたなら。彼女に思いを寄せる男子がその光景を見たなら、どれ程傷付くことだろう。いや、女子でさえも例外ではない。それ程に、青井和良という少女は神格化されているのだろうか? もちろん、そうだといえた。では、何故そのように神格化されているのかと言えば、それはやはり、彼女が美しい顔をしていたからだろう。
嗣郎は時々、彼女に対する自分の好意が、ただその美しさのみに起因しているのではないかと、自分に問いかけることがある。返って来る答えは、いつも判断を留保させるような沈黙だった。それが尚更、彼女への好意を否定しようという心の働きを生むのだが、しばらく経って彼女の姿を目にするときには、彼女への好意がはっきりとした形をとる。その矛盾に対して、好きなものは好きなのだから仕方ないのだと、彼は言い訳をしてみせるのだった。
意中の相手が他の男と同じベンチに座っていた。ただそれだけの話なのだ。それでも純朴さを残す嗣郎の胸に去来したものは諦念だった。諦念。彼が諦念を宿すのには理由があった。
実を言えば、彼の家庭は荒廃の極みにある。父親の暴力によって母親は精神的な安定を奪われ、たった一人の兄は大学卒業後に就職に失敗し、家に引きこもるようになった。だから、この家庭で最もまともな状態を保っているのは、嗣郎とモモだけだった。嗣郎の潔白を汚すただ一点の染み、それは喫煙であることに違いはない。彼はそれ以外には何等の落ち度もなかった。その行為は、現実からの逃避を目的としているようにも見えたが、少し視点を変えれば、この荒廃した家庭の一員としての自我を保つために、そのような悪事に手を染めているともいえた。
もちろん、彼はそのことを否定するだろうし、そもそも彼自身は喫煙を悪とは考えていなかった。少なくとも、積極的な悪とは。ただしその考えは、同級生の多くも隠れて喫煙をしているのだから許されるはずだという、脆弱な論理に基づいてはいるが。
悪事といえば、彼にとって家庭内で悪をなしているのは、ただ一人、父のみだった。母親は満足に家事を行なわなくなってしまったが、父の暴行による被害者である。また、兄も家庭や社会に貢献するところはまるでなかったが、それを悪に含めることが出来るかといえば、それは違うと彼は思っている。その点、父親は暴行と言う一つの悪によって、全ての悪を引き受けてしまっているのだが、彼の稼ぐ賃金によって養われている身としては、そう単純な問題とはならなかった。
そもそも、ここ何年間も続く父親の暴力を放置してしまっているのは何故だろうか。例えば、親類や何らかの相談窓口を頼って、父の悪を告発することも出来たはずだ。それを彼が、そして母や兄がしなかったのは、ただ一つの理由による。即ち、家庭の崩壊を防ぐためだ。愚かなことだと、他人は言うかもしれない。だが、健全さを失った家庭といえど、自身の拠り所となる居場所の崩壊を望む者がどこにいるだろうか。ましてや、彼は自立する能力のない十六歳の少年である。どうしてそのようなことが出来るだろう。
「何度言ったら分かるんだ!」
ちょうど嗣郎が散歩を終えて帰って来たとき、父親が罵声を浴びせるのを聞いた。いつもよりも早く、勤め先の工場から帰宅しているのだ。兄は自室に引きこもっているから、いつも罵声の対象になるのは母親だ。嗣郎はモモの散歩をするなどして難を逃れる方策を立てているが、そんなことをしなくとも、父親の暴力の対象になることはないだろう。父の世界に彼は存在していないのだから。
犬小屋に帰すとき、モモが彼の顔を見上げた。いかにも悲しげな、全てを理解しているような瞳だった。
それが、昨日の出来事だ。
嗣郎には夢などなかった。夢など持ち得なかった。だから、進路希望調査のプリントを受け取ったときに、何を書こうか迷った。それは書くべきことが多すぎて迷ったのではなく、書きべきことがなさすぎて迷ったのだ。
彼は眼鏡越しに青井和良の姿を認めた。真ん中の列の一番前、目立つ場所に座っている。彼は昨日見たことの意味を解釈しかねて、彼女の姿に答えを求めようとしたが、彼の胸に去来したものは諦念だった。諦念以外に何があり得るだろう。彼女は校内でも憧れの存在、神格化された女神。対して、彼はごく平凡な存在、それ以上の何者でもない。そう、彼は何者でもないのだ。
不意に、彼女が振り向いて彼に微笑んだ。いや、微笑んだように見えた。彼は、その微妙な表情に、感情の全てを委ねてしまった。一瞬の幸福の後に去来するのは、やはり諦念だった。