04
不思議な旅だった。彼は理子の望みのままに鎌倉行きを決定し、その日の午後に出発した。理子は途中でガイドブックを買ったり、駅弁を堪能していたりしたが、鎌倉駅までもうすぐというところで電車がトンネルを潜った。そのトンネルを抜けたとき、彼は東側の窓に昇る朝日を見たのだった。先程の暗闇の中の僅かの時間で、日は沈んで月が上り、やがて月も沈んで日が昇ったのだ。
彼はどのように感じたか。それはまさしく、狼狽と言う他なかった。しかし、この天の異常のために狼狽したのではない。確かに驚きはしたが、それよりも彼の心を揺さぶったのは、理子との関係がここで終わってしまったのではないか、ということだった。以前に何気なく考えたこと、春まで一緒に過ごすことができたなら、きっと永遠に結ばれる――そんな根拠のない観念に彼は強迫されているのだ。
天の異常は、つまり世界の終わりは、その成就の妨げとなり得た。世界が終わるということは副次的な意味合いしか持たず、あくまでも世界の中心は理子だった。
「どうしたの、顔色が悪いけど」
「いや、何でもない」
理子の横顔は美しい。日輪の光彩を戴くに相応しい、女神のような存在だった。
このことは彼を悩ませもした。彼が愛しているのは理子の本質なのか、それとも以前の彼女への捨てきれぬ好意が混ざった、外見の美しさなのか。もしも外見を愛しているとするならば、愛の対象は奥村理子という人物でなければならない謂われはない。同じ外見をしていれば、本質は捨て去っても構わないのではないか。
けれども、と彼は思う。この手に触れられる、まさに目前に現存している奥村理子という人物は、彼女にしかあり得ない個性がある。それを深く突き詰めた結果を本質と呼ぶとするならば、彼はまさに彼女の本質をこそ愛しているのだ。
そうやって、彼は自己弁護を果たした。
不可解な事象が起こったとはいえ、いずれにせよ、彼と理子の鎌倉観光は始まったのだ。
二人は先日のように由比ヶ浜で下車し、まずは鎌倉文学館へ向かった。二人が図書館の前で知り合ったことからして、当然の成り行きといえるだろう。文学館として利用されているのは、加賀の旧前田侯爵家の別邸であり、その始まりは明治二十三年にまで遡るという。和風建築の館は昭和十一年に洋館へと改装され、それが現在へと続いている。軍記物の平家物語や歴史書の吾妻鏡などから、明治以降の文学者までが紹介されていて、特に文学館の近くに旧邸宅のある川端康成や、この文学館を作品内のモデルとした三島由紀夫などについても、様々な展示品が公開されている。
二人は豊富な展示品にも圧倒されたが、同時に洋館の佇まいにも魅了された。海を背にして北を向けば三方を山に囲まれた洋館の威容が、洋館を背にして南を向けば水平線まで広がる海が、それぞれ二人の目を楽しませた。絶好の位置に整備されたこの一角は、どこか浮世離れしているようで、風に揺れる木の葉のさざめきさえもが優雅に思えた。空は高く、天の頂きまで澄み渡っていて、自然の神秘をより一層際立たせている。その中にあって、二人は手と手を繋いで、相手の鼓動によって生を実感するのだった。今、世界はこの肌の交わりによって成立している。
次に二人は旧川端康成邸へ向かったが、内部の見学はできず、しばらく外観を眺めた後に次の目的地に向かった。第二の目的地は高徳院で、鎌倉のシンボルともいえる大仏、正確には阿弥陀如来坐像を拝観するのだった。与謝野晶子が「美男におはす」と詠んだのが、この鎌倉大仏である。この二人には大仏の由来を云々する知識はなかったから、ただ一種の芸術作品として鑑賞した。この鎌倉大仏は奈良の大仏とは違って、屋外に建立されているから、全体像をよく把握することが出来て、蒼穹を背負いながらもなお損なわれない荘厳さに二人は感心するのだった。
二人が昼食をとったのは、鎌倉駅から小町通りを北上したところにある喫茶店だった。二人はこの長い歴史を感じさせる喫茶店でハヤシライスを注文し、食後にケーキを食べ、レモンを絞った紅茶を楽しんだ。
「このまま鶴岡八幡宮へ行こうか」
彼がそう言ったのは、少なからず疲労を感じていたためだった。元来、あまり運動する性格ではなく、普段の行動範囲も狭かったので、長い距離を徒歩で移動するのには辟易していた。その点、理子は若いからと言うべきか若いくせにと言うべきか、目的を達成するためにどこまでも歩く気概を持ち合わせていた。だから、彼女は当然のようにしてこう言ったのだ。
「光明寺にも行きたいし、釈迦堂口切り通しも見ておきたいし……」
「続きは明日にしないか。今日は鶴岡八幡宮だけ見ておいてさ」
理子が彼の足を小突いた。彼はその鋭さに驚いてテーブルの下を見れば、理子は赤いヒールの靴を履いていた。
「そんな靴であの距離を歩いたのか」
「そうよ。私は目的のためなら長靴でも裸足でも構わない、とにかくどこまでも歩いて行くわ」
彼の呆れたような口調に、理子は皮肉めいた言葉で返すのだった。それで理子は満足してしまったのか、
「ふう、分かったわ。その後の予定は白紙にしておくとして、鶴岡八幡宮に向かいましょう」
「それは良かった。――ああ、会計は僕が支払っておくから」
「ありがとう。でも、貴方に負担させてばっかり。大丈夫なの?」
「心配ないさ」
ふうん、と理子は不思議な顔をしてみせた。彼女にはまだ、父親の遺産のことを話していなかった。
彼は息を吐くと、どこかとろんとした目をしてみせた。過ぎ去りし日々を述懐する老人のような目を。
「どういう言葉で伝えればいいかは分からないけど、僕は君に出会えて良かったと思ってる」
「どうしたの、急に」
彼はさらに笑顔を浮かべて、手元のティースプーンを弄んだ。
「予感がするんだ。僕らはきっと、この関係が続けばきっと、幸せになれるんじゃないかって」
「そうね。でも私たち、まだ出会ったばかり」
「だからこそ、そう思うのさ。今はただの予感かもしれない。でもきっと、未来はそうなっているはずさ」
その言葉に理子がはにかんだ。彼は理子も同じ予感を抱いているのだと、手放しで信じることが出来た。
彼には鶴岡八幡宮の様子はどこか違って見えた。三の鳥居を潜った先に、太鼓橋と呼ばれる橋が架かっている。以前は通行することもできたそうだが、今では安全性の問題から封鎖されていて、その脇にある二つの橋を通行して参拝することになっていた。普段は封鎖されているはずだが、今日は両脇の橋が封鎖されていて、真ん中の太鼓橋を通行するようになっている。しかも、橋の欄干が朱に塗り替えられていて、まるで往時に遡ったような気分にさせられた。
「ねえ、渡りましょ」
「ああ、うん」
彼は躊躇する色を見せたが、太鼓橋を渡って敷地内に入った。そのまま奥を見据えれば舞殿と本宮が見渡せるが、今日はそれを遮る人の姿が見られなかった。そのせいか、辺りは妙に閑散としていて、彼は背中に寒気を覚えるような気がした。舞殿に参拝し、その脇を抜けて大石段を昇ろうとしたとき、彼は決定的なものを見た。
「これは……」
倒伏したはずの大銀杏が、復活していたのである。
後ずさりする彼の目に、更なる変化が飛び込んできた。欠けたヒールの赤である。理子の姿はそこにはない。
「理子、どこへ――」
不意にセピア色の映像が脳内を駆け回った。点が線になり、線が枠となって矩形を作る。無機質な映像が続いたかと思うと、次の瞬間には血を垂れ流したような赤が視界いっぱいに広がるのだった。彼女はいる、きっと自宅に戻っているはずだ。
彼は舞殿の脇を抜けるときに、一度だけ石段を振り向いた。復活した大銀杏が蒼穹に向けて屹立していた。
最寄りの駅の名前が変わっていた。それでも彼が無事に目的の駅で下車できたのは、街の風景が変わらずに存在していたためだ。
しかし、駅前の風景はまるで違っていた。駅から向かって右側にあるはずの郵便局はなく、代わりに銀行が建っている。郵便局はといえば、駅から正面の坂の上、車道の真ん中に平然と建っている。彼は銀行の脇を通って商店街へ入った。この商店街は元の姿のままだったが、入口の肉屋と八百屋はなくなっていた。魚屋と総菜屋もなく、もう一つの八百屋もない。その五つの商店の代わりに、同じ装いのパン屋が五つも営業している。外装も内装も全く同じ、店主や客の姿まで全く同じという、恐ろしい光景。彼は咄嗟に駈け出したが、丁字路を左に曲がったところのブティックと書店までもがパン屋に様変わりしていた。
その四つ角を右に曲がったところで、電線が地中から伸びているのが見えた。空に向かって伸びる電線は、さながら芸術作品のような幾何学模様を生み出している。赤い長方形の一軒家も、隆起した電線の中に呑み込まれてしまっている。柴犬捜索中の張り紙がされていた電柱は、電線とは反対に地中深くに埋まっているようだった。真っ白な家では赤い軽自動車がひっくり返ってくるくると回転し、納屋のあった家にはノイシュヴァンシュタイン城の巨大なパネルが、ネオンライトを光らせて展示されている。生垣に猫の姿はなく、あの小倉という老夫婦が狐の面を付けて寝そべっていた。
理子の面影が脳裏に浮かぶ。そして空に浮かぶ、あの言葉。
「私、きっと幸せにはなれないと思う」
アパートの階段は立派なエスカレーターに変化していて、彼は少し躊躇した後に足を踏み出した。揺れの酷いエスカレーターで、彼の三半規管は大銀杏のように中から折れてしまいそうになった。固唾を飲み、自室のドアノブに手をやる。鍵は開いていて、ヒールの折れた赤い靴が玄関に散らばっている。彼は靴を脱ぐ手間を惜しんで、土足で部屋に足を踏み入れた。
「あら、お帰りなさい」
その女の無事な姿が、そこにはあった。
「ただいま」
彼はその女の身体を抱き寄せた。右の泣き黒子を見て、左の目尻を撫でる。そこに黒子が有るかどうか、今の彼には確認する余裕がなかった。その女の肉体に指が食い込んで、手に骨の感触を味わった。瞬間、迸る鮮血に覆われた網膜が、矩形の現れを見た。即ち、自身の狂気の証拠を。
全ては直線と原色に解体されていった。骨も肉も思い出も、全ては静謐の中に。