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03

 十二月二十三日。彼は祝日を利用して――彼は無職であるから毎日が休日なのだが――、図書館で一日を過ごそうと思った。

 まずは例のパン屋でクロワッサンを十個購入する。焼き加減と触感が絶妙で、ほんのりとした甘さが舌の上で弾けるのだ。元から人見知りがちな彼には、何度足を運んだとしても店主と打ち解けられそうにはないが、店主は他の場所で店を開いていたらしく、何年も前からの常連客などがいた。彼は冷蔵ケースから取り出したりんごジュースを差し出すときに、店主と言葉を交わすのにも、どぎまぎとした気持ちになった。

 祝日というせいもあってか、午前十時を回っているというのに、どこもかしこもシャッターを下ろしている。この商店街はこんな調子で大丈夫なのだろうか、などと彼は心配してみたりもしたが、十秒後には思考の対象が他に移っていた。

 郵便局の前を通り過ぎるとき、不意に以前交際していた女性――先日別れた彼女とは違う――のことを思い出した。その女性の人見知りは輪をかけて酷く、手紙の中でしか自分の意見を十分に表出できない性格だった。何故メールでのやり取りにしなかったのか、その理由はもう思い出せないが、手紙のやり取りというのはなかなか面白かった。手紙を投函してからの楽しみは、それが相手にどう読まれているかということと、相手がどのような返事をしてくるのかということを、予想するところにあった。結局、その女性との関係は手紙の中で始まり、手紙の中で終わってしまったわけだが。

 今の生活を始めてからというもの、後悔とはまた異なるのだが、昔のことを想起することが多くなった。それは郷愁とは違って愁いがなく、ただ単に懐かしい気持ちが心の中の洞窟を繊細に撫でるのだった。そしてその想起は、必ず未来への希望を抱かせた。例えば今なら、また誰かと手紙の交換でもしたいと、そのような淡い期待を。

 と、そんなことを考えているうちに、双川にぶつかった。このまま上っていけば、図書館はすぐそこだ。




「やあ」


 彼は図書館の前で、先日別れたばかりの彼女と再会した。あまりにも早い再会だったので、彼には全く感慨すらなかった。

 彼女の方も虚ろな表情をして、彼の脇を通り過ぎようとした。その仕草があまりにも他人行儀だったので、彼はもう一度、彼女の背中に声をかけた。


「僕はもう怒ってないよ」


 その言葉に彼女が振り向いた。けれども、やはりどこか虚ろな表情をしている。


「どちら様ですか?」


 彼は最初、その表情があまりにも真剣に思えたので、彼女は本当に記憶を喪失しているのではないかと思った。しかし、そう考えるうちに、彼女が平気で嘘を吐くことのできる図太さを持ち合わせていることを思い出したので、きっと彼女は一世一代の演技をしてみせているのだと思った。


「どうして嘘を吐くのさ」

「嘘じゃありません。私、貴方とは初めて出会いました」

「君、名前は?」

「奥村理子です」


 咄嗟に考えたにしては、あまりにもすらすらと口から出てきた名前なので、彼はいよいよ彼女の記憶喪失を信じるようになってきた。と同時に、別の可能性を考慮せざるを得なかった。つまり、彼女が別人である可能性を。ここで確かめる方法は、彼には考えつかなかった。いや、一つだけあった。以前に付き合っていた彼女は、右側の目尻に泣き黒子を持っていた。


「本当に僕のことを知らない?」

「はい」


 彼は彼女の微妙な顔の傾きを注視した。右に、泣き黒子。そして左にも泣き黒子。以前の彼女は右にしか泣き黒子を持っていなかったから、この奥村理子と名乗る人物とは別人だと分かった。


「もしそうだとするなら、とても悪いことをしたな。これ、残り物だけど食べるかい?」


 差し出したパン屋の紙袋を見て、理子の顔が綻んだ。そうして紙袋を受け取って、その中身がクロワッサンであることを知ると、却って理子は礼を言うのだった。


「ありがとうございます。これ、駅前の商店街のクロワッサンですよね」

「有名なのか。知らなかったよ」

「三十年も続いてる店の名物ですよ。とても有名なんです」


 へえ、と彼は呑気に感嘆した。三十年も続く店だとしたら、常連が追いかけて来ても不思議はない。――いや、果たして本当にそうだろうか? 店主はせいぜい四十代前半で、いかにもサラリーマンを辞めてパン屋を始めたばかり、そんな風貌をしていた。父親の後を継いだばかりだという可能性もあるから、そのことを無視するとしても、数日前に引っ越してきたばかりの店の場所をわざわざ知っているものだろうか?


「どうして店の場所を知ってるの? 引っ越してきたばかりだよ、あの店は」

「いえ、違いますよ。あの店は三十年間ずっとあの商店街にありますよ。勘違いじゃないですか?」


 おかしい。確かに数日前までは八百屋があった場所に、パン屋が引っ越してきたのだ。きっと理子は何かの勘違いをしているのだろう。誰にでも間違いはあるものだ。


「ありがとうございます。こんな美味しいものを頂いちゃって。でも、本当に貴方のことは知らないんです」

「ああ、それこそ僕の勘違いさ。君によく似た女性と別れたばかりでね」

「やだ、それって……」


 理子が、くしゃっと紙袋を握る。彼は理子の誤解を解こうと、舌を酷使した。


「いや、勘違いしないで。僕は君によく似た女性に好意を持っていたけれど、君に特別な好意があるわけじゃないんだ。いや、君はとても美しい人だけどね、そういう意図はないんだ。信じてくれないか」

「ははは、冗談ですよ。貴方ってとても素直な人なんですね」


 彼は頬が熱くなるのを意識した。元から人見知りの人間が、初対面の相手とこうして臆することなく話せるのは、とても珍しい偶然だった。人見知り、というのは少し美化が過ぎるかもしれない。結局のところ、彼は他人に興味が持てないのだ。当然、見ず知らずの相手と話すことへの緊張はある。だが、ある程度の情報を得ると、すぐに相手への興味が薄れてしまうのだ。だからこそ、彼は孤独に生きていくことが出来た。


「貴方は図書館に用事ですか?」

「……あ、ああ、まだ何を借りるかは決めていないけど、とりあえず借りた本を返そうかと思って」

「何を借りたんですか?」


 そう言われたので咄嗟に差し出した本の表紙を見て、理子よりも差し出した彼自身が驚いた。ドグラ・マグラの文庫本は、とても誤解されやすい表紙をしていたから。


「やっちゃった……」

「ドグラ・マグラですね。名前は聞いたことがあるけど、まだ読んだことがないんです。読めば精神に異常をきたすって、本当ですか?」

「僕は、大丈夫だったけど……、この表紙を見て何も思わないの?」

「表紙は表紙でしょう。マーラーの交響曲第二番を聞いたからといって、“復活”を想起しなきゃならない謂われはないでしょう?」


 なんという偶然の悪戯だろう。彼はまさしく、奥村理子に好意を抱いてしまった。彼を裏切った女性に瓜二つの、美しい女性に対して。


「良かったら、君のおすすめの本を教えてくれないか」

「ええ、もちろん」


 そう言うと、理子は彼の手を引っぱって図書館の中へ突進していった。その力強さに彼は快い気分になるのを禁じ得なかった。




 十二月二十四日の朝、彼はもそもそと這い上がり、二人分の食事の用意を始めた。そうして出来上がった目玉焼きと味噌汁が冷める間、彼は布団の中の温もりをいっぱい味わった。十分間程もそうした後に、理子にせめて下着だけは着けさせて、食卓へ導いた。彼は窓を開けて朝の空気を吸い込みたかったが、理子が寒がるのでそうすることができず、仕方なくラジオを付けてみたりした。流れてくるのは、ストラヴィンスキーの春の祭典だった。


「傑作だね」

「えっ、何が?」

「この真冬に春の祭典だってさ」


 理子は彼の作った朝食を実に美味しそうに食べた。その顔を見るだけで、料理を作った甲斐があったものだと彼は思った。彼はいち早く朝食を食べ終えると、昨日図書館から借りてきた本をめくってみた。それは彼には馴染みの薄いホラー作品で、いくつかの短編から成っている。ほとんどの話で主人公が発狂してしまう、あまり精神的に健全ではない代物だったのだが、いざ読み進めてみるとなかなか面白い。論理的な筆致が特徴で、淡々とした語り口で紡がれる狂気の話は、彼をすっかり魅了してしまった。これが、奥村理子の薦めた本の一冊だった。


「ねえ、どうしてこの本を僕に薦めたのかな」

「ドグラ・マグラを読む人だから、薦めやすかったのかもしれない。私が中学生の頃に読んだ思い出の本だったしね」

「ふうん、中学生の頃にこれを読むのは、なかなか――」

「なかなか?」

「まあ、そういうことだよ」

「何それ、分かんない」


 理子はけたけたと笑った。彼が久しく味わっていない温かい気持ちを、理子が春風のように運んできた。もし、春までこうして一緒にいることができるなら。そのときには永遠に結ばれるに違いないと、彼は根拠もなしにそう思った。


「たまにはハッピーエンドの話でも読みたいな。こっちはどんな話?」


 理子が薦めたもう一冊の本を手にとって、彼は尋ねた。


「ワーグナー狂ね。残念だけど、ハッピーエンドとは言えない話かもしれない」

「ふうん。もしかして君は切ない話が好きなのかい」

「そうね。最後に救済があり得るワーグナーよりも、ブラームスの交響曲第四番の方が好きだわ。救いのない感じがして」


 ここにきて、彼は別れた彼女のことを思い出した。理子と瓜二つの彼女のことを。その彼女の何気ない言葉が、彼の体内で反響している。


「私、きっと幸せにはなれないと思う」




 二人は午前中ずっと同じ布団に包まっていたが、腹の虫が騒ぎ出したのを合図に、外出することに決めた。彼はまたクロワッサンを買って、どこかの公園にでも行って、二人で食べようと提案した。しかし、理子はその提案を斥け、電車で都心まで出かけようと言った。彼はやはり、クリスマスという幻想を信じておらず、わざわざ人の多い時期に都心まで出かけることに難色を示したが、理子の提案を受け入れることにした。以前の彼女に対するのと同じように、彼は他人の幻想を否定するようなことはしなかった。

 ちょうど二人が部屋から出たときに、隣人が帰宅したところだった。いつの間にか隣人の井上は引っ越していったらしく、中川という新しい住人が挨拶をしてきた。二人は挨拶を済ませると、彼を先頭にして駅の方へと向かった。後ろを、とことこと付いてくる理子の仕草は、以前の彼女には見られなかった可愛らしさがある。

 生垣の中から野良猫が飛び出してきた。理子は突然の出来事に驚いて小さな悲鳴を上げ、彼の腕にしがみついた。


「猫、苦手なの?」

「うん」


 柴犬捜索中の張り紙もどこかへ飛んで行ってしまったらしく、無口な電柱がより無骨に見えた。工業製品の箱が積み上げられた納屋は潰されていて、その隣の白い家には赤い軽自動車が停まっていなかった。きっとこの家の娘も、クリスマスという幻想に浸っているのだろう、と彼は何となく思った。

 三叉路のところの赤い長方形の家も、外観をすっかり塗り替えてしまっていた。どこかの画家が描いたような、直線と原色のみで描かれた外観は、彼に好ましい印象を与えた。不意に空を仰ぐと、集中し過ぎた電線が絡まっていて、とても危険な状態になっていた。

 商店街の寂れた二つの店、書店とブティックは早くも年末休みに入っていた。儲かっているように見える店ならば、きっとどこか海外にでも旅行へ向かったのだろうと思えるだろうが、この寂れた店がシャッターで閉ざされていると、縁起の悪いものを見たような気がして、彼は何となく嫌な気持ちになった。そこを通り過ぎれば、例のパン屋が――ない。


「あれ?」


 昨日までパン屋が建っていた場所は、元の八百屋に戻っていた。そこで買い物をする客も、八百屋の主人も、まるでパン屋など存在していなかったかのように自然な振る舞いを見せている。


「昨日までパン屋だったのに……」

「パン屋なんてあったの?」

「君が言ったじゃないか、ここには三十年前からパン屋があったって。美味しそうにクロワッサンを食べていたじゃないか」

「記憶違いでしょ。私はこの商店街に馴染みがないし、クロワッサンを貰った覚えもないけれど」


 思い返してみれば、今日は不思議な日だった。柴犬の張り紙も納屋も赤い軽自動車も、それに書店もブティックも、今日は何も目にしていない。隣人の井上もいつの間にか引っ越していたし、何よりも理子が三十年前からあると言ったはずのパン屋も、すっかり八百屋に変貌してしまっている。これは悪い夢の中にいるのではないかと、彼は考え始めた。そうして考え始めると、理子の存在も別れた彼女の存在も、そして自分自身の存在もあやふやなものに思えてくるのだった。


「ねえ、そろそろ電車の時間だから行きましょ」

「……うん」


 理子の差し出した手から腕を辿って、その顔をまじまじと見た。間違いなく、理子はそこに存在していた。




 食事を終えた二人には、まだまだ時間の余裕があった。彼は理子の普段の生活を知らないから、どんな職に就いているのかは分からないが、彼と同じように定職に就いていないのではないかと思われた。時間の感覚が一般的な社会人のそれとは違って、時間や体調の管理に気を遣っているようには見えなかったのだ。理子にそのことを尋ねてみようかとも思ったが、事実を知ることは二人の関係を壊してしまうような気がして、彼は遠慮してしまった。


「私、京都か金沢に行ってみたいの」

「へえ、僕も同じことを考えていたんだ。けれど京都は遠いし、この寒い時期に金沢に行く気にもなれないな」

「それはそうだけど……。だったら、鎌倉はどう?」

「ちょうど先日行ってきたところなんだ。と言っても、ほんの少ししか観光しなかったけどね」

「もう一回行きましょ。今度は私と」


 そうやって強引に決まった鎌倉行きは、その日のうちに決行されることになった。現在の時刻は午後三時で、日帰りで観光するのは無理だから、どこか宿を決めてから出発しようと彼は言った。けれども、理子はその提案を却下して、すぐにでも鎌倉へ行きたいと言い出した。


「この時期だから、どの宿も満室なんじゃないかな」

「大丈夫。宿なんか必要ないんだから」


 彼は不安に駆られた。駆られはしたが、理子と一緒に鎌倉へ行くことには賛成だったし、たまには予定を立てない旅をしてみるのも良いかもしれないと思った。もしかして、理子には何らかの見込みがあるのかもしれない。こうして、彼は理子に身を任せることにしてしまった。

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