02
彼には友人がなかったし、職もなかった。たった一人の恋人は、失ったばかり。かと言って、生活が窮しているかといえば、そういうわけでもない。父親の残した遺産があり、しばらくはそれで十分やっていけるのだ。もちろん、職に就くという選択肢もあったが、今はそうする気分になれなかった。それでいて、時間をもてあましてもいた。
この生活を始めたのは失ったものを取り戻そうとしたからだが、結局のところ、高望みしてみても自分の性格というものは変えられない。未来の自分が見れば、きっと灰色の生活をしていると言うだろう。彼にはあまり物欲がなかったし、趣味といえるほどの趣味もなかった。唯一、趣味と呼べそうなものは読書で、一日を図書館で過ごすことも少なくなかった。流行の小説を読んでみるのも面白かったし、古典とされる小説を読みあさる面白さも最近になって知った。
そんな彼が何のために生きているかといえば、間違いなくそのときを待っているのだった。必ずやって来る、そのときを。
この日も彼は図書館へ向かうために家を出た。
彼はアパートの二階の一番奥に住んでいたが、隣室の井上という男とすれ違い、一階の小倉という老婦人と挨拶を交わした。住宅街とシャッターの目立つ商店街を抜け、駅の前を通る。やがて双川に隣接する、外壁に蔦の絡まった図書館にたどり着いた。
最近では流行の小説を読むのにも飽きて、国内外の古典文学を読むのが日課になっていたが、この日は気紛れで石原莞爾の最終戦争論を読んでみたりした。正午を過ぎると、彼は図書館内に併設されたカフェで昼食をとった。喫茶店でアルバイトをしていた彼女の顔を、彼はぼんやりと思い出した。はっきりと思い出すことは、少なからず苦痛を伴うから。
最終戦争論を読み終えると、以前から気になっていた夢野久作のドグラ・マグラを借り、近くの大きな公園に行ってみることにした。
午後四時を回ったところだった。学校帰りの小学生が占拠した公園の一角の、小さなベンチに座る。そこで借りてきた本を読んでみようかとも思ったが、自宅で一息に読みたいと思ったので、ベンチに寝そべってみることにした。
ふと考えるのは、もしも自分が子供を授かったならどうなるかということだった。もちろん、今すぐにそれを実行に移す気はないし、この先もそうすることはないだろう。しかし、もし子供を授かったとしても、きっと父親らしい責任を果たせずに終わってしまうだろう。何よりも分かり切っていることだ。
どんよりとした雲が憂鬱だった。今の生活に不満があるわけではないが、自分がこの世界で何事も成し得ないという事実は、あまり気分の良いものではなかった。これはあの彼女の悲観主義とは違って、揺るぎない事実なのだ。もしも子供を残し、立派な家庭を築いたとしても、全ては徒労に終わってしまう。
ため息をつく。その息の白さが、彼の純白を証明したわけではなかった。しばらくベンチに寝そべった後、彼は帰路に就いた。
帰り道はいつもの道。駅前の郵便局の脇を通って商店街に入る。食材がなかったのを思い出して、総菜屋でおかずを買う。
二つ目の八百屋のところで丁字路を曲がる、はずだったが、八百屋のあるはずの場所はシャッターが閉まっていた。店じまいをしたのかとも思ったが、その予兆はまるでなかった。きっと店主が体調でも崩したのだろう、彼はそんなことを考えながらブティックの前を通り過ぎた。分岐して数を減らしていく電線を見上げながら、赤い長方形の家から左の道に入る。柴犬捜索中の張り紙が風に震えている。ちょうど朝に挨拶を交わした老婦人の夫と出会い、お互いに会釈した。隣室の井上とは遭遇しなかった。
部屋に入り、時計を見ると午後六時前だった。彼にとってはちょうど夕食時だ。彼は茶碗にご飯を装い、買ってきたばかりの肉じゃがとポテトサラダの包装を取り払った。ガラステーブルに食事を用意したとき、ちょうど午後六時を迎えた。テレビではどこかの銀行の立てこもり事件が報道されている。いつものように食事を済ませ、いつものように入浴し、いつものように床に就いた。
彼女を失ってからというもの、彼の生活はとても単調なものになってしまった。
明くる朝、彼は午前五時半に目覚めた。午後九時前には寝たのだから、早すぎるということはない。彼は目覚めた後もしばらくは布団に包まって、夢の中の心地良さを手放さない。冬になってからというもの、特にその傾向が強くなっている。今はテレビもラジオも本も、彼の興味をそそらなかった。そんな彼を布団から引きずり出したのは、餌を求めて悲鳴を上げる胃袋だった。
どこかで朝食をとろう、そのついでにどこかへ行こう。思いついたからには、すぐに行動する。それが彼の美点といえたかもしれない。それを実行出来る環境でもあった。今朝は寒いのでマフラーを首に巻き、手袋をコートのポケットに押し込んだ。部屋の鍵を閉めてからは、両手そのものをポケットの中に突っ込んだ。野良猫が鳴くのを耳にしたような気もしたが、彼は動物全般にあまり関心がなかった。
数が増えていく頭上の電線を眺めながら、商店街に差しかかる。午前六時を回ったところだから、まだ開いている店はないはずだ。と、香ばしい匂いが漂っていることに彼は気付いた。寂れたブティックから商店街の通りに入ると、昨日まで八百屋があったところにパン屋がオープンしていた。春にこの街に来てから半年以上が経ち、いつの間にやら愛着が湧いていたらしい、街並が変わると少し寂しい気持ちがした。
それでもこれは幸運だった。ちょうど胃袋を満たすものを探していたのだから。彼は小さめのクロワッサンを三個と、総菜パンを三つ、そして紙パックの牛乳を買った。店はオープンしたばかりというのに、もう常連顔をした女性がいて、店主に親しげに話しかけていた。
パン屋の紙袋を片手に駅へ向かう。紙袋の軋む音がシャッターに反響する。次に電車が来たら、方向はどちらでも構わないからそれに乗ろう、彼はそう思った。
彼は海を見ようと思って、横浜方面へ向かう列車に乗った。クロワッサンを二つと総菜パンを一つ平らげ、紙パックの牛乳を飲み干したとき、彼の心に残ったのは多幸感だった。そのためか、横浜へ着いても列車を降りず、そのまま鎌倉にでも足を伸ばそうという気持ちになった。
東京で生まれ育った彼には、きっと鎌倉へふらりと立ち寄るだけの機会や時間はいくらでもあったはずだが、彼にとっては初めての鎌倉だった。
鎌倉といえば、まず思い出されるのが鶴岡八幡宮だろう。伊勢神宮や出雲大社ほどの知名度はないが、誰もが鶴岡八幡宮の名を知っている。せっかくこうして日本という国に生まれてきたのだから、一度はこのような場所を訪ねて、長い歴史に思いを馳せてみたいと、彼はそう思った。その荘厳の内に幾多もの流血が含まれていたとしても、こうして時を経てもなお現存している建築物に、何かしらの敬意を抱かずにはいられないはずだ。
彼は鎌倉で江ノ電に乗り換え、由比ヶ浜で下車した。このまま江ノ島まで行ってしまいたいと思わないではなかったが、今日は鶴岡八幡宮に向かうと決めていたし、目前に広がる久しぶりの海原を見て、思わずそこで下車してしまったのだ。
この美しい砂浜こそ、まさに流血の歴史の一端を成す場所だった。つまり、源頼朝の命によって源義経の男児が遺棄されたのが、この由比ヶ浜なのだ。彼はその歴史を知らなかったが、打ち寄せては拡散し、さらにその上をなぞるようにして再び打ち寄せる波の姿は、感傷的な思いを呼び起こすのに十分だった。
この海の先には何もない。きっとそうだ。
しかし、本来、この海の先には何もかもが存在する。海は全てを受け入れるが、同時に全てを拒絶する。百年の昔から日本という国が流した血の多くは、この海の向こうで散っていったものだ。それはまるで凝固した青年の血液が、日本という自我を外側から規定するために、日本という国の自我を確立させるために、流されたようなものだと彼は思った。そうして流れた血の一滴を知ることもなく、我々はただ海を海としてしか認識できないのだ。
彼は俄かに頭を振った。孤独は思索の最良の友といえるが、その思索は他人に認識されて初めて、思索として存在し得るのだ。私が消えたなら全ても消えるといったような、独我論的な考え方は、きっと否定されなければならない。プラトンだったかアリストテレスだったか、中庸を讃えた人物は彼に好感を抱かせた。独善的であってはならない。
ところで、海というのは過酷なもので、暑い盛りの夏の日には日差しを遮るものがなく、凍えるような寒さの冬の日には、海風が骨身の力を消耗させるのだった。寒さにやられた彼は、そのまま北上して、鶴岡八幡宮への道を歩いた。
鶴岡八幡宮の参道は若宮大路といって、由比ヶ浜へとまっすぐ向かう直線の道だ。彼が思い起こしたのは、あの月修寺へと至る参道のことだった。あれも厳しい冬の日の出来事だったはずだが、彼にとってはその深刻さがあまりにも足りない。そこに待つ女性もなければ、そのために死に至ることなどあり得ないし、タクシーに乗って途中まで行ったところで後悔はしないだろう。だが、まさにその深刻さの欠如こそが、彼に徹頭徹尾歩いていくことを決意させた。
ともすると、彼はあの由比ヶ浜での気分を引きずったまま、自分の死を意識していたのかもしれない。その証拠に、二の鳥居をくぐったときに、彼は得も言われぬ清浄な感覚を味わった。参道を上っていくことが、まさに禊ぎの過程であるとするなら、その先に待ちうけているのが死であるとするなら。三の鳥居をくぐったときには、いよいよ自らの死を直感した。
が、彼にはどうしても拭えない疑念があった。果たして、自分はどのように死ぬのだろうか?
舞殿を抜け、その奥に倒伏した大銀杏の幹を見て、彼はそこで歩みを止めた。最早、自分の生きていることも、そこにある神秘性も、何もかもが信じられなくなったのだ。大石段の上に口を広げて待ち構えている楼門に背を向けて、彼は今来た道を戻って行くのだった。