06
いつも通りの時間、いつも通りの歩幅、いつも通りの笑顔。和良がいつものように教室に入って来たとき、その微笑みは嗣郎にも向けられた。その一瞬の微笑みに嗣郎はこの世の春を見た。
とはいえ、滑り出しが順調だったわけではない。嗣郎と和良には共通の話題がたくさんあり、小学校の頃に転校していった共通の友人の話や、中学校の偏屈な理科教師の話などをメールでした。しかし、実際に学校で顔を合わせる二人はぎこちないままで、全く会話を交わさないことがほとんどだった。少なくとも嗣郎は既に恐れていた。二人の会話の内容は過去のことに関するものばかりで、現在や将来についての話などしたことがなかった。嗣郎は将来に目を向けることが恐ろしかった。彼の諦念が、二人の破滅を囁くのだった。
嗣郎には黒川や十和子との距離も一気に縮まったように感じられた。特に学校外で遊ぶことこそなかったものの、昼休みや放課後によく談笑した。黒川と話すときには決まって勉強の話題が出て、彼の目指す大学の話なども出た。その代わりに過去の話はまるでしなかったし、二人ともそんな話は求めていなかった。必要があれば語れば良いのだからと考えていたようである。きっと、同じクラスではないことが幸いしたのだろう。黒川や十和子とも同じクラスであれば、和良との関係を構築していくことに気恥かしさを感じただろうから。
そうやって新しい関係を結んだことで、嗣郎は様々な発見をすることが出来た。他人と交われば交わる程自分自身と向き合えたことは、兄の発言を思い出させた。今までの短くも長くもある人生の中で、嗣郎は自分のことをすっかり理解していたつもりになっていた。それが青井和良や黒川健吾といった光芒を前にして、自分の影の如何に深いかを知ったのだ。つまり、嗣郎は劣等感の奴隷だったのだ。
例えば、ある美術の授業のとき、和良は見事な絵画を描いてみせた。「うたた寝に恋しき人を見てしより」と題されたその絵画は、ある老夫婦の背中が描かれていた。その女性はまさしく青井和良の似姿であったし、その男性は彼女の将来の夫となるべき男の似姿であった。周囲が褒め称す中、嗣郎はただ一人愕然とその絵画を見つめていた。何故なら、その絵があまりに美しすぎたためだ。
その絵画は彼女の信じるところの夫婦の姿であり、両親の姿であった。嗣郎はここに至って、改めて自分の出自の危ういことに気付かされた。狂気する父と衰退する母、そして引きこもりの兄。和良が描いてみせた世界からは遠くかけ離れた、醜い家庭の姿だった。そして、もしも彼女をこの胸に抱くとするならば、嗣郎自身も美しくあらねばならなかった。少なくとも嗣郎はそう思いこんだ。
他方、黒川もまた成績優秀者であって、いずれは嗣郎の手の届かない高みへと至ることが容易に察せられる。そこには嗣郎にはない熱、這い上がろうとする意地と他人を追い落とそうとする暴力とがあった。
振り返ってみれば、嗣郎には何も誇れるものがなかった。そのことが彼をひどく傷つけた。彼は劣等感の奴隷であっただけでなく、嫉妬の卷属でもあったのだ。
黒川は迷った。一度気付いてしまったなら、容易には抑えられないのが恋心というものだ。少なくとも黒川の恋心はそのような構造になっていた。だから、決断してしまえば行動も早かった。
「ごめんなさい、少し遅れちゃって」
放課後、黒川は例の喫茶店に和良を誘った。これからの話の性質上どこかの公園で話すというわけにもいかなかったし、一度はこの喫茶店で同席したのだから、ここへ誘っても不思議に思われることはないと考えたのだ。和良は時間に厳しい性格であったから、この珍しい遅刻に黒川は凶兆を見たように感じた。しかし、ここへ誘ったのは当日のことであったから彼女も都合があったのだろうと、黒川は思いなおすことにした。
二人が座ったのは、先日の昼間に座った四人掛けの席だった。店内はあの日と同じく閑散としていた。
和良はコーヒーを頼んだ。十和子はいつも紅茶を頼んでいたから、黒川は少し不思議な気分がした。いつも十和子が座る席に和良を座らせておきながら、未だに逡巡していたことの証左であったかもしれない。黒川はコーヒーが運ばれるのを待って話を進めた。
「こっちこそ急に呼び出して悪かったね」
「いいの。私も予定が空いていたから」
「そうか。ちょっと告白したいことがあったんだ」
「うん、どうしたの?」
本来、告白という言葉は必ずしも恋愛の色を帯びているわけではない。賢明にも黒川はそのことを理解していたが、自分の口から告白という言葉を出したとき、自分が恋愛に酩酊していることを悟った。
「そうだな、どこから話そうか。時間はたっぷりあるかい」
「ええ、幸せなことにね」
「じゃあ、少し回りくどいけど、例え話から始めよう。そこにある男がいた。男には女が寄り添っていて、幸せな日々を送っていた。ある日、男は美しい女性に恋をする。自分に寄り添ってくれる女ではなく、全く別の女性に。許されるはずがないことは分かっている。それでも、それでも……好きになってしまったんだ、その女性のことが。叶うことのない気持ちだということも分かっている。それでも好きだと言ってしまわなければ、その胸の焦がれるような気持ちを、どうすることもできなかったんだ」
「……」
「君はどう思う、そんな男のことを」
「私の立場にもよると思う。もし、私がその男に寄り添っている女性の立場なら許せないはずだし、その男が好きになった女性の立場だとしても……、ううん、肯定できないでしょうね、どの立場にいても」
「もしも、目の前にいる男がそんな男だったらどうする? そして好きになった相手が……」
「待って!」
和良が強い口調で黒川の言葉を遮った。一瞬だけ伏せられたその瞳と見つめ合ったとき、黒川はそこに彼女の感情の全てを見た気がした。
「それ以上は言わないで。言葉にしなければ、何も壊れないから。……私は、嗣郎くんのことが好き」
「……そうか」
ちょうどそのときだった。扉が開き、二人の男女が店の中に入ってきたのは。
和良はこの前と同じように瞠目した。そこに立っていたのが、嗣郎と十和子だったから。
「俺が呼び出したんだ」
そう言って黒川は席を立った。嗣郎とすれ違いざま、彼は嗣郎にこう告げた。
「こんなに敗北の味が苦かったなんて、知らなかったよ」
嗣郎と和良を喫茶店に残した黒川と十和子は、十和子の家までの道を寄り添って歩いた。その日は風が強かった。敗北の傷口を刺すように強風が駆け抜けていった。
「十和子、すまない」
「……分かってる。何も言わないで。そうすれば今まで通り、何も変わらないんだから」
いつになく十和子はそんなことを言うのだった。黒川は十和子を抱き寄せると、彼女の温もりを肌に感じた。今はその温もりだけが、彼の心を満たしていくのだった。
最早、二人は言葉に出すことをせずとも、互いの好意を了解していた。二人とは、嗣郎と和良のことである。
振り返ってみれば、二人が互いを意識し始めたのはいつのことからだろう。端的に言えば、嗣郎と和良は恋人同士であるという、小学生時代の全く根拠のない噂だった。これは無論、事実ではなかったわけだが、多感な時期の二人に少なからぬ影響を与えた。つまり、二人は小学生の頃から互いに少なからぬ好意を抱いていながら、それを行動で示そうとはせず、今になってようやく小さな橋を架けたのだ。ただそれだけのことでも、奇跡的な出来事だといえた。
それでも、二人の恋がハッピーエンドを迎えたわけではない。むしろ、まだ始まったばかりなのだ、二人の恋は。
「行くぞ、モモ」
冬を迎える直前のある日のこと、嗣郎はモモの散歩に和良を誘った。二つ返事で了解した和良は、嗣郎が並々ならぬ愛情を愛犬に注いでいることを知った。それは和良にとって、嗣郎への評価の再確認だった。素敵な人と寄り添っていけるのだと、再確認したまでのことだ。
嗣郎はいつもの散歩コースを歩いた。少なからず同じ時間を過ごしてきた二人の会話は、いつの間にか未来について話し合うことが多くなっていた。思えば、転換点となったのは、二人があの喫茶店で二度目の同席をした日だろう。嗣郎は全ての事情を知っていたわけではないが、黒川が和良への好意を散らしたことは、何となくだが理解していた。それでも、四人の関係には全く変化がなかった。四人が四人とも賢明だったのだ。
そんなことを考えているうちに、嗣郎はあの神社の鳥居の前に立っていた。嗣郎と和良は真ん中にモモを挟んで歩いた。
「実は和良に隠し事があるんだ」
そう言って嗣郎が取り出した煙草を、和良は一瞬にして取り上げてしまった。和良の眼光の鋭さに、嗣郎は思わずたじろいだ。その隣でモモがため息を吐いた。
「ダメよ、嗣郎くん。私、煙草は好きになれないの」
「分かった、分かったから、そんな怖い顔をしないでくれ」
二人が互いの好意を了解していると言った。しかし、言葉というものには凄まじい力がある。内側ではその気持ちを昂ぶらせ、外側からはその気持ちを規定し、遂には熱狂のままに愛を叫ばずにはいられなくなる。
そのようなことをまだ二人は経験していなかった。少なくとも嗣郎の側には、そう出来ない理由があった。ここで再び顔を出した、諦念である。やはり彼は恐れていた。言葉にしてしまった気持ちが裏切られるのではないか、裏切られないにせよ破滅を迎えるのではないか、といったように。
いずれにせよ、告白はしなければならなかった。自分の愛する気持ちか、諦念という魔物の存在かを。
「なあ、和良。本当に俺でいいのか?」
「えっ、どうして?」
「いや、俺はたいした男なんかじゃないんだ。例えば……」
例えば、黒川のように。そう言いかけて嗣郎は首を振った。
「……俺は何かが特別に上手いわけでもないし、性格が良いわけでもない、もちろん見た目だって良くない。そんな俺のことを、無理に好きになる必要はないんだ」
「私にもよく分からないの。ううん、そういう意味じゃなくて、私にとっては嗣郎くんはとても素敵な人。性格も見た目も口ぶりも、横顔だって手の形だって好き。でもね、そんな理由だけじゃ説明がつかないくらい、貴方のことが好きなの」
「てっ、照れるじゃないか、そんなこと言うから」
「本当よ。一番好きなところは、どこか悲観的なところ」
「どうして?」
「私ね、貴方ももう知ってると思うけれど、少し厳しい家庭で育ったの。いつも明るくいなさいとか、他人に感謝しなさいとか、色々と説教をされながら育ってきたの。それはもちろん感謝すべきことで、振り返ってみれば良い教育をしてくれたと思う。でもね、どこかで明るくいられないし、自分のことばかり考える自分がいたの。そういうときに嗣郎くんを見て、私とは違う世界で育った人なんだって直感したときに、貴方のことが好きになったのかもしれない。無理に明るくいなくたって良いし、無理に他人に気を遣わなくても良いんだって思えるようになったの」
今や、形勢は逆転していた。告白すべき嗣郎が、却って矢継ぎ早の告白を受けて言葉に詰まっていた。
「ごめんなさい、自分のことばかり喋っちゃって」
「……いや、良いんだ。俺も和良を見習うべきかもしれない」
「嗣郎くん……」
嗣郎も和良も、ある予感を抱いていた。その予感のするままに、二人は口づけをした。それが初めてだった。
「夢てふものは頼みそめてき、か……」
「ん、どうした?」
「ううん、何でもないの」
「行こう、紹介したい人がいるんだ」
二人は手を握り合って、神社を後にした。嗣郎は兄に和良のことを報告するつもりだった。そうすることで、父親の代理を果たしてもらわなければならないのだから。




