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真の滅びというものは存在しない。何故なら、滅びには観察者を必要とするからである。観察者がなければ滅びというものはあり得ない。しかし、観察者のあることは真の滅びを意味しない。
このように真の滅びがあり得ないとするならば、どうして恐怖する必要があるだろう。虚無は否定されたのだから。
二〇一五年、東京の冬が深まる時期のこと。
彼は年末商戦に浮き足立つ百貨店で高級ブランドの財布を購入し、その足で恋人の元へ向かった。人々は、儚くかつ華美な純白のクリスマスという幻想を夢に見、さらに冬のボーナスをいかに使うか、冬期休暇をいかに過ごすか、思案に耽っている。要するにお祭り前夜の静かな狂騒の最中にあったわけだが、少なくとも彼はその幻想を共有していなかった。だから人気の少ない路地に入ると、浮かれた人々のいないことにわくわくするような気持ちがして、恋人の待つアパートへ行く足も軽やかだった。
その恋人とは春に知り合った。二人はお互いに一目で惚れて、最も長い夏の日に漸う恋人同士になった。彼女は利発そうな顔立ちをしていて、実際にそうだったのだが、悲観主義に溺れたところがあった。容姿も性格も学歴も揃っているというのに、喫茶店のアルバイトで満足できるのはその証拠といえたかもしれない。
「私、きっと幸せにはなれないと思う」
彼女はエレキギターを趣味にしていた。か細い腕で図太い音を鳴らすのだが、そのギターの嗚咽のような音色を聴いていると、人が手を触れてはいけない天の頂きに接するような気がして、彼は穏やかではいられなかった。その行為はまるで自己治療のようでもあったし、破壊的な衝動に満ちた音は、彼女を内面から崩壊させていくようでもあった。そんな彼女の右の目尻には泣き黒子があるが、彼は彼女の涙を見たことがなかった。彼女は泣くことをしない代わりに、塞ぎ込んでしまうことがよくあった。そういうときには連絡も取れなくなって、家に閉じこもってしまうのだが、彼はもっと自分を頼ってくれれば良いのにと思わずにいられなかった。
そんな彼女は身の回りのことに頓着しなかった。だから財布も高校生の頃から同じものを使っていて、彼にクリスマスプレゼントとして財布を渡す気にさせた。それを彼女は喜ぶだろうか? きっと喜ぶだろう、彼女の好きな赤色の財布を。
先にも述べたが、彼はクリスマスという幻想を信じない。けれども、幻想を否定することはしなかった。彼女もきっと幻想を信じていると、思い込んでいたのだ。
彼女の住むマンションは、無名のデザイナーによる少し奇抜な外観をしていた。形も色使いも、常識の範囲内を出ないぎりぎりのところの奇抜さだった。それは彼女が悲観主義に溺れながら、人としての生活を捨てられないところに似ているようにも思えた。
彼女は七階に住んでいる。彼がエレベーターのボタンを押すと、ちょうど七階からエレベーターが降りてきた。エレベーターに乗り込むと、微かに煙草の臭いがした。そういえば彼女は、たまに煙草を吸うらしい。それはどんなときだろう。記憶を整理しているうちに、エレベーターが七階に到着した。結局、まだまだ彼女のことを何も知らないのだ。一人の人間のことを知るには、あまりにも時間が足りなかった。
彼はドアの前に立ち、合鍵を忘れたのでチャイムを押した。反応はない。荷物をひっくり返して、ようやく合鍵を見つけたので、部屋に入った。見慣れない革靴がそこにあった。一瞬にして様々な可能性が脳裏をよぎったが、そこでもう結末は分かってしまった。寝室のドアを静かに開けると、彼女の放恣な姿がそこにはあった。彼はプレゼントの財布を下駄箱の上に置いて、そのまま部屋を出ていった。
電車を降りて、市海駅から家に向かう道はいくつもあった。
しかし、彼はいつも同じ道を歩いた。駅を出ると右手に郵便局、その脇を通って商店街へ。肉屋と八百屋に挟まれた商店街の入り口を通り、魚屋と総菜屋、そしてまた別の八百屋のところで丁字路を左に曲がる。寂れたブティックの次はシャッター、その次もシャッター。さらにもう一つシャッターを挟んで、今度は寂れた書店。通り過ぎざまに新刊雑誌を確認し、お目当てのものがなかったのでそのまま進む。しばらく進んだところで、四つ角を右へ。
まっすぐ進むと、まだ新しい一軒家のある三叉路に行きつく。その家の赤い長方形が描かれた外観を眺めながら、左の道を進む。商店街から四つ角、三叉路と進むごとに頭上の電線が減っていく。柴犬捜索中の張り紙が半年も貼られたままの電柱があり、そこから左へ。比較的新しい真っ白な一軒家は娘が就職して赤い軽自動車が一台増えていて、さらに古い工業製品の箱が積み上げられた納屋のある家を通り過ぎる。誰かが野良猫のためにマットを敷いた生垣を抜けると、そこにあるアパートが彼の住まいだ。
「ただいま」
言うまでもないことだが、彼は一人暮らし。好むと好まざるとに関わらず、一人で暮らしていると独り言が増えるものだ。
彼はおぞましいものが身体にまとわりついているような気がして、服を脱いですぐにシャワーを浴びることにした。彼は思いっきり熱いお湯を浴びることで、頭の中にうずまく思考を取り払おうとした。最早、それを考えても意味がないのだ。きっと、彼女からの連絡はないだろう。いつかは壊れると分かっていた関係が、静かに崩れていったに過ぎない。それでも後悔はあった。彼にとっては久しぶりの恋人だったし、とても素敵な女性だったから。
ぼんやりとテレビを見ていると、いつの間にか夕方になっていた。お腹が空いたので冷蔵庫を開けてみたが、そこには何もない。カップラーメンやレトルト食品もない。ご飯すら炊いていない。総菜屋で何かを買おうかとも思ったが、もう一度出かける気にはならなかったので、彼はそのまま眠ることにした。