手術
翌日。
今日子はチコを入れたキャリーバッグを持って、ゼミ室にいた。今日子の所属する薬理学ゼミ室。そのゼミ室のロッカールームで、学生用の青のスクラブに着替える。
「チコ、怖くないよ」
なんとなく普段とは違う雰囲気にビクつくチコに声をかける。
そして大学付属動物病院へ。スクラブに着替えると、今日子の気持ちは飼い主から獣医学生のそれに、自然に変わってくれた。
キャリーバッグを持って、予約の3時少し前に病院に入った。
すぐに名前が呼ばれ、手術準備室に通される。一般の飼い主は普通、ここまでは入れない。しかし今日子は学生である特権を利用して、手術を見学する事になっていた。
そして手術室には今日子以外にも、今日子と同じ青のスクラブを着た学生が4,5人集まっていた。
そこには緑のスクラブを着た、研修医の上田美佳先生もいた。白い頬にあるそばかすが、かえって実際の年齢よりかわいらしい印象を与えている。セミロングの髪は、邪魔にならないように後ろで束ねられていた。‘先生’と言っても、この春大学を卒業したばかりの獣医師だ。最高学年の今日子とは一学年しか違わないため、‘先生’と呼ぶより‘先輩’と呼ぶほうが、しっくりくる気がする。
上田先生が学生のころ今日子と接点はなく、上田先生が研修医になってからも直接話したことはなかったが、上田先生の話は以前から何度も聞かされていた。
そう、上田先生の出身は、里奈が所属する病理学ゼミ室。包丁もまともに扱えなかった里奈を料理上手にした、あの‘美佳先輩’なのだ。里奈は上田先生に相当懐いているようで、年中彼女の話をしていた。
「上田先生、今日はよろしくお願いします」
今日子は上田先生に声をかけた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。三好さんのことは、里奈ちゃんから聞いています。里奈ちゃん、一番の親友だって言っていましたよ」
そんな話をしていると、教員用のグレーのスクラブを着た藤本准教授が入ってきた。
「準備できてる?」
藤本准教授が訊くと、上田先生が元気良く答えた。
「はい、できています!」
チコはすでに学生たちの手によって、キャリーバッグから出されていた。
学生たちは優しく声をかけるが、チコはこの雰囲気に怯えきっている。もともと臆病な猫だ、無理もない。今日子は、体を小さく縮こまらせて震えるチコに声をかけながら、背中を撫でた。
「今日は、絶食させてある?」
藤本准教授は、今度は、今日子に対して訊いてきた。全身麻酔を必要とするときは、絶食が必要になる。膀胱鏡を用いた切らない施術とはいえ、猫はおとなしくはしていないので、全身麻酔が必要になる。そのため今日子は、今朝からチコの食餌を抜いていた。
「はい、絶食させてあります」
緊張気味に今日子は答えた。今日子は緊張していた。手術見学はもちろん初めてではないが、やはり患者がチコとなると緊張するものなのかもしれない。
そしてそれだけでなく、今日子にはなんとなく嫌な予感があった。
上田先生の手によって、チコに全身麻酔が施された。周りの学生たちは、バイタル(体温、心拍数など)をとる係になる。今日子だけは、特になんの役割も与えられていない。
麻酔はすっかり効いてきたようだ。チコは仰向けの姿勢で固定された。
「じゃあ、始めようか」
こうして、膀胱鏡を用いたチコの尿道結石摘出術が始まった。
膀胱鏡は内視鏡の一種だ。尿道からカメラになっている部分を挿入して、その先端から鉗子(物を掴む器具)を出すことができる。カメラの映像は、接続されているモニターに映し出される。それを見ながら鉗子を動かして、結石を取り出そうというのだ。
今日子はモニターに集中した。
藤本准教授はチコの尿道にカメラを挿入した。カメラはすぐに結石の場所に辿り着いた。白い結石がモニターでもはっきりと確認できる。鉗子は、上田先生が捜査していた。上田先生は結石を掴もうと鉗子を進めた。しかし、掴めたと思った瞬間に、結石はツルッと鉗子から逃げてしまった。
何度もトライしたが、上手くいかない。この鉗子で掴むには、結石が大きすぎるのかもしれない。
「貸してみろ」
藤本准教授と上田先生はカメラの操作と鉗子の操作を交替した。しかし藤本准教授でも、なかなか上手く結石を掴むことができない。
角度を変えたり、カメラ役と鉗子役を交替したりしながら、何度も結石を掴もうと試みた。
どのくらい時間が経過しただろうか。ついに
「藤本先生、掴めました!」
上田先生の操作する鉗子が、結石を掴んでいた。
「よし、そのんままだ、離すなよ」
結石を掴んだまま、そっと膀胱鏡を抜きにかかる。しかし、
「あっ!」
結石は膀胱鏡を少し動かしただけで、鉗子から外れてしまった。
どうやら鉗子の保持能力が弱すぎるようだ。
その後も何度か結石を掴むまではできたが、それを外に取り出すことは、どうしてもできなかった。
そうこうしているうちに、もう時計は6時を回っていた。始めたのが3時だから、もう3時間以上続けていることになる。藤本准教授にも上田先生にも、学生たちにも今日子にも、疲労の色、苛立ちの色が三重はじめた。
そんな時、掴んでいた結石がまたもや鉗子から滑り落ちた。カメラを藤本准教授、鉗子を上田先生が捜査していた時だ。結石はカメラの画面から外れ、奥のほうへ行ってしまった。藤本准教授は舌打ちし、強引な手つきでカメラを奥に進めた。
その時だった。モニターの画面が突然変わった。
(え!?何?)
今日子は事態がよく呑み込めなかった。尿道内を映しているはずの膀胱鏡のカメラが、尿道内とは思えない空間を映し出している。
今日子も学生たちも、上田先生でさえ、事態をよく理解できていなかった。
藤本准教授だけが、苦虫を嚙み潰したような顔をして、突然、怒ったように叫んだ。
「切開術に切り替える!」
そして尿道から、膀胱鏡を抜き去ってしまった。
(何?何故?切開を避けるための膀胱鏡じゃなかったの!?)
今日子は混乱していた。
しかし上田先生には何が起きたかわかったようだ。素早く切開術の準備にかかりはじめる。
「藤本先生、どうしたんですか?」
今日子はやっとの思いで、藤本准教授に尋ねた。
「……尿道に穴が開いた。これから腹を開いて穴を塞ぐ。でないと、腹膜炎を起こす」
藤本准教授は、ぶすっとした様子で答えた。鬱陶しそうな長い髪を手術用の帽子の中に押し込んでいく。(尿道に穴が開いた?膀胱鏡が突き抜けちゃったってこと?じゃあ、あのモニターの映像は腹腔内の映像!?)
ますます混乱する今日子をよそに、切開術の準備が進められていく。
混乱する頭で今日子は、
(ちょっと待って!)
と思った。
(藤本先生が切開術?)
藤本准教授は泌尿器系の専門だが、内科に属する獣医師なので、通常外科手術を手掛けたりはしていない。
「待ってください!切開術を外科の先生にお願いすることは、できないんですか?」
「できないよ。待てない。尿道に穴が開いているんだ。尿が腹腔内に漏れる。すぐに塞がないと腹膜炎を起こして死ぬよ。まあ、看取るつもりなら、このまま麻酔を覚ましてもいいんだけどね」
今日子がもう少し冷静であったなら、外科の研究室に行って外科の先生を呼んでくるくらいの時間の余裕は充分にあることがわかっていたはずだ。しかし混乱の極致にあったその時の今日子は、藤本准教授に任せなければチコは死ぬと思ってしまった。
「助かるんですか?」
震える声で、今日子は訊いた。
「そんなこと、やってみなければ、わからないだろう!」
藤本准教授は、今日子を怒鳴りつけた。
飼い主と獣医師としてではなく、学生と教員の関係であったことが、今日子から反論の言葉を奪っていた。
切開術が始まった。
今日子は、チコの術野(傷口)を見ることができなかった。手術見学は何度もしている。血が怖いわけではない。
でも、チコの血は見たくなかった。ただ、気管挿管され麻酔をかけられて眠るチコの顔だけを見つめていた。
手術は0時近くにまで及んだ。膀胱鏡の手術を始めたのが3時頃だったから、実に9時間、チコは麻酔をかけられっぱなしだったことになる。犬猫の手術としてはあり得ない長さだ。
しかし、手術はどうにか無事に終わった。結石は摘出され、膀胱鏡で開けてしまった穴は縫い合わせられた。尿道にはカテーテル(管)が入れられ、尿はそのカテーテルを通って、その先に取り付けられたパックに溜まるようになっている。膀胱に尿が溜まって膀胱が広がり、傷が開かないようにするための処置だ。
あまりに長時間麻酔をかけられていたため、麻酔が抜かれた後もチコはぐったりしていた。チコはそのままの状態で入院室に運ばれ、入院用ケージの中に入れられた。
藤本准教授は今日子に何か言うでもなく、それからすぐに帰っていった。
学生たちや上田先生も、それに続いた。チコを見つめる今日子の耳に、
「今日は、遅くまでかかったおかげで疲れたな」
などと、学生たちに話しかける藤本准教授の声が聞こえた。