チコの異変
そして、大学6年10月のこと。今日子の卒論制作も佳境に入ったころだった。
「どうしたんだよぉ、チコ」
なんとなく、チコの様子がおかしいことに、今日子は数日前から気付いていた。でも、ごはんは食べるし、元気もないわけじゃないしと、不安を打ち消していた。
そして膝に抱き上げれば、いつも通りのゴロゴロとフミフミ。
具合が悪そうには見えない。
しかしどうしても飼い主の勘が、どこか異常を知らせていた。
そんな時。
「あれ、チコ、何やってんの!」
トイレの失敗は一度たりともしたことのないチコが、洗濯物の上で踏ん張っているのを見つけた。
踏ん張ってい入るが排便姿勢ではなく、排尿姿勢。まさかと思って今日子がそのあとを覗くと、白いタオルの上に薄赤い尿がわずかに染みついていた。
急遽、チコをキャリーバッグに詰め込んで、大学病院に向かった。
受付で血尿があったことを伝えたので、最初にチコを見てくれた沢田准教授ではなく泌尿器が専門の藤本和夫准教授に回された。今日子は内科実習で、藤本准教授の授業を受けていた。小柄な風体で長髪に片耳ピアス。学生ならば普通の域だが、四十過ぎでそのいでたちは、一目で変わり者とわかる。だが、獣医師に変わり者は少なくない。
「膀胱炎じゅないの?」
と、藤本准教授は、チコのおなかの辺り…膀胱を触診する。
「ん?尿は溜まっているな。ちょっと抜こうか」
藤本准教授がそう言うと。周囲の学生たちがパタパタと準備を始めた。
ちょっと大きめのシリンジ、ちょっと長めの注射針。チコは学生たちの手によって、仰向けの状態で保定された。
❝あれ?❞と、今日子は思った。
(膀胱穿刺をしようとしている)
膀胱穿刺とは、おなかから注射針を刺して尿を取る方法である。尿を採取するにはいくつかの方法があり、それぞれの方法にメリット、デメリットがある。今日子はてっきり尿道にカテーテル(管)を入れる❝尿カテ法❞で採取すると思っていた。でも、雌猫は雄猫より尿道にカテーテルを入れにくいし、准教授のやり方に間違いはないだろうからと、口は挟まなかった。
藤本准教授は、仰向けで保定されたチコの腹部を左手で探った。そして膀胱の位置を確認し、針を刺していった。
チコはそのあいだ、まったく動かなかった。怯えきっていて、動けないのだ。猫としては珍しいタイプかもしれない。猫の場合、恐怖を怒りに変換して、暴れまくるタイプも多い。その点では、チコは獣医にとって扱いやすい猫と言えた。
採取された尿は、やはり薄っすら赤色だった。
「これ、検査に持っていって。ペーパー(尿検査)と尿沈渣(尿を遠心分離機にかけて沈殿する物質を顕微鏡で調べる検査)、尿比重(尿の水分と水分以外の物質の割合を算出したもの)」
そう指示された学生は、尿を持って検査室に向かった。
検査室には、臨床検査技師がいる。
「ついでにX線も撮ろうか。X線室に行って」
レントゲン撮影も行い、待合室で待つ。
(多分、ただの膀胱炎だろう)
と、希望的観測も含めて、今日子は予想していた。
待たされること十数分。今日子とチコが再び診察室に呼ばれた。
「ん~、これ見てくれる?」
X線写真。
「ここのところ」
藤本准教授が指し示す位置。膀胱の辺り。今日子の予想に反し、そこにはX線不透過性物質(レントゲン写真に白く写るもの)が、はっきり写し出されていた。
「尿石症だね」
説明されるまでもなく、それはわかった。ただの膀胱炎ではなかったか…。
今日子は少しがっかりしたが、気を取り直して尋ねた。
「尿沈渣はいかがでしたか?」
藤本准教授は答えた。
「ストルバイト結晶が出たよ」
❝尿石症❞とひと口に言っても、いろいろな種類がある。
まずは尿路系のどこにできたかによって、腎結石、尿管結石、膀胱結石、尿道結石に分けられる。
次に結石の成分によって、ストルバイトとも呼ばれるリン酸アンモニウムマグネシウム結石や、シュウ酸カルシウム結石、ケイ酸結石、尿酸塩結石などの種類がある。この結石の成分の違いによって、X線不透過性(レントゲン写真に写る)かX線透過性(レントゲン写真に写らない)か、食餌療法で溶解するかしないか、といった性質の違いが出る。
「尿沈査にストルバイト結晶が出ているということは、ストルバイト結石ですよね?」
ストルバイト結石はX線不透過性で、食餌療法や内服のみで溶解させることができる。つまり、ほとんどの場合ストルバイト結石であれば、手術を受ける必要がない。
尿沈渣にストルバイト決勝が現れるとういのは、尿を遠心分離したその沈殿物の中にストルバイトの細かい砂が混じっていたということだ。
それに猫の尿石症は、ストルバイト結石が圧倒的に多い。
(ストルバイト結石であれば…。)
と、今日子は願った。
「いや、その可能性は高いけど、100%そうだとは言い切れないよ。内科実習で教えたでしょ。忘れたの?」
そうだった。尿沈渣に結晶が現れれば、大抵はその成分の結石だと言って良い。ただし、絶対ではない、違うこともないとは言い切れないと、確かにそんなようなことを、内科実習でこの藤本准教授自身が言っていた。
「それでは、治療はどのような…?」
今日子は恐る恐る尋ねた。
「内科的にいくか、外科的にいくかだね」
「でも、ストルバイト結石じゃない可能性もあるとおっしゃったじゃないですか。もしストルバイト結石じゃなくて、内科的にいったら、どうなりますか?」
「ん~、まぁそのあいだに石が大きくなっちゃうかもね」
今日子は悩んだ。
可愛いチコのおなかをメスで切るなど、できればやりたくない。でも、尿が詰まれば尿毒症となり、腎臓がやられてしまう。
この時、自分が思っている以上に混乱していた今日子は、ひとつ大事なことを訊き忘れていた、
尿pHだ。
pHとは、その液体が酸性なのかアルカリ性なのかを示す値。今日子は尿が酸性なのかアルカリ性なのか、確認することも忘れて悩んでいた。ここで尿pHを確認していれば、今日子の判断とその後のチコの運命は違ったものになっていたかもしれない。
「もうひとつ、方法はあるんだよ」
黙り込んで悩む今日子の耳元で、藤本准教授が囁いた。
「膀胱鏡を使うって手も、あるんだよね」
(膀胱鏡…聞いたことがない)
「膀胱鏡はね。内視鏡の一種で、尿道から挿入して膀胱に入れるんだ。これを尿道に入れて結石を取り出せば、切る必要はないよ」
今日子にはそれが最良の方法に思えた。
「それじゃあ、膀胱鏡でお願いします」
今日子のほうから訊かなかったというのもあるが、藤本准教授から膀胱鏡の危険性についての説明は、一切なされなかった。
膀胱鏡を用いた尿結石の摘出は翌日3時からと決まり、今日子も学生として、その様子を見学することになった。