本物の獣医師
その日の夕方、今日子は昼間病院実習で体験した出来事を考えながら、1人とぼとぼと家路につこうとしていた。
大学の南門を出ようとすると、突然、後ろから誰かが飛びついてきた。
「里奈!」
「今日子、今帰り?」
「‘今帰り?’じゃないでしょ!もう!転びそうになっちゃったじゃない!」
里奈のスキンシップは激しい。いつもこんな感じなのだ。
「まあまあ。そんなことよりさ、今日、夕飯一緒しようよ」
今日子のほうでも、その日は、なんとなく里奈と話したい気分だったんだが…。
「…ごめん、私金欠だから、外で食べる余裕ない」
実際今日子の財布には、小銭しか入っていなかった。
「それなら、心配いらないから」
「え!?もしかして奢ってくれるの?」
「そうじゃなくて、作ってあげる❤」
「は?」
「いいから、早くチコにご飯あげてきなよ。で、そのあと、すぐに私の部屋に来てね」
里奈はそう言うと。今日子の返事も待たずにその場を去ってしまった。
(…里奈の料理?)
今日子は首をかしげた。今日子の知っている限りでは、里奈はまったくと言っていいほど料理ができない。いつも食事は学食かコンビニ弁当だったはずだ。一体何を作るつもりなのだろうか?
(…まさか。卵かけご飯とか納豆ご飯?それとも、ふりかけご飯かな?)
今日子はそんなことを思いながらチコに食餌をやり、里奈の部屋に向かった。
エプロンを着け、包丁を持った里奈が迎えてくれた。
「ちょっと里奈、包丁なんか持って大丈夫?手、切らないでよ!」
以前、今日子の部屋で食事を作った時、里奈も手伝おうとしてくれたのだが、あまりにも危なっかしい包丁さばきで見ていられず、台所から退場してもらったことがあったのだ。
「何言ってんの。もう、包丁くらい使えるって」
今日子は恐る恐る、里奈の手元を覗き込んだ。
(…あれ?)
里奈は、器用にジャガイモの皮を剥いていた。しかもその手付きには、まったく危なげがない。
「里奈、こんなに上手に包丁使えたっけ?」
里奈は薄く向いた皮を今日子の顔前にかざしながら、
「‘女子三日会わざれば括目してみよ’って言うでしょ?いつまでも、昔のままの私だと思わないでね❤」
などと言ってのけた。
(それって、‘女子’じゃなくて‘男子’では?)
と心の中でツッコミつつ、今日子は黙って料理ができるのを待った。
今夜のメニューは、クリームシチューのようだ。驚くべきことに、里奈は‘シチューのもと’も使わず、バターと小麦粉で、ホワイトソースから作っている。台所からは良い匂いが漂ってきた。
「お待たせ」
里奈がテーブルにクリームシチューを運んできた。
「ありがとう。いただきます!」
今日子は恐る恐る、里奈の作ったそれを口に運んだ。
「…美味しい!」
お世辞ではなく、それは本心からの一言だった。そのシチューは、あの里奈が作ったとは信じられないほど美味しかった。
「すごいじゃない!今まで何も作れなかったのに、いつの間にこんなにできるようになったの!?」
里奈が得意げにほほ笑んだ。
「エヘ。実はね、ゼミ室の先輩が教えてくれたの。すごく料理上手で、その先輩に特訓してもらったんだ」
「優しい先輩がいるんだね。どんな先輩なの?」
「美佳先輩っていうんだけどね。私、その先輩の卒論を手伝ってるんだ。それで、いろいろと可愛がってもらってるの」
5年生が6年生の卒論を手伝うことはよくある。そうやって先輩の卒論を手伝うことで自分の卒論のテーマを決める参考にしたり、実験方法を勉強したりするのだ。
「いい先輩の下につけて、よかったね」
「そうだよね。私、兄弟いないでしょ。でも、お姉ちゃんがいたら、きっとこんな感じなんだろうなって思うの」
良い先輩に恵まれ、楽しそうにゼミ室のことを話す里奈は、何だか眩しかった。
その一方で今日子はまだ、今日の病院実習での出来事を引きずっていた。
「今日子、なんとなく元気ないよね。何かあった?」
里奈は、そんな今日子の様子を敏感に感じ取っていたようだ。
「うん…。実は今日、病院実習でね…」
今日子は里奈に、昼間の病院実習での出来事を話した。
肺に転移した乳ガン。もう手の施しようのなかった患者。
「里奈は、考えた事はない?どんなに獣医が手を尽くしても、どんなに獣医学が発達しても、動物の寿命は人間より短い。動物は、必ず飼い主より先に死ぬんだよ。別れは避けられない。私は18の時、家族同然だったゴンを亡くした。老衰だった。老衰じゃ、獣医の力ではどうにもならない。でもゴンを亡くした時の悲しみは、言葉で表現できるようなものじゃなかった。ねえ、私、わからなくなってるの。獣医のやっていることって、なんなのかな?ほんのちょっとだけ別れを先延ばしにすることに、一体どんな意味があるのかな?」
今日子は、自分の思いのたけを話した。里奈は黙って聞いてくれた。
そして、里奈が続けた。
「私も、まったく同じ経験をしたことがあるよ。で、私も今日子と同じコト考えた。獣医師の役目って、なんなんだろうって。そんな時に、美佳先輩がこんな話をしてくれたんだよ。美佳先輩が病院実習に出ていた時に、1頭の老犬が亡くなったんだって。おばあさんが本当に大事に可愛がっていた犬で、その飼い主のおばあさんは人目も憚らずに泣いたらしいよ。だけどそのおばあさんが、最後にこう言ったんだって。‘私より先で良かった’って。それを聞いて、私は思ったんだ。飼い主には自分の飼っている動物を看取る義務があるんだって。ほとんどの動物は飼い主よりも先に死んでいくけど、飼い主さんはそれを承知で、動物と暮らしているんだと思う。悲しみを背負う覚悟で、動物と暮らしているんだよ。楽しい時間・幸せな時間を、少しでも分かち合うために。私たちには動物の命を永遠にすることはできないけれど、飼い主さんが悔いを残すことのないように、精一杯のことをしてあげるしかないよね。私は、そんな飼い主さんと動物に寄り添うような獣医になりたい。獣医って、そういうものだと思う」
里奈の言葉を聞いて、今日子は昼間の沢田准教授の言葉を思い出していた。
『皆、その亡くなった子に感謝しろ。その子との楽しい思い出と、その子を亡くした時の悲しみが、お前たちを本物の獣医師にしてくれる』
本物の獣医師…今日子はその意味を、ようやく理解しはじめていた。