動物を‘飼う’ということ
大学で得た友人たちの存在、そしてチコの存在によって、今日子はゴンを失った悲しみから、完全に立ち直った。今日子はチコとともに暮らしながら、2学年、3学年、4学年と、順調に進級していった。
そうして今日子は、5年生になっていた。4年生までは学年単位で講義や実習が行われるのだが、5年生以上になると皆ゼミ室に所属し、ゼミ室単位での実習や卒論制作が中心となる。今日子は薬理学ゼミ室に入った。薬理学とは、薬物の効果や副作用について学ぶ学問になる。そしてそれぞれの進路を歩む里奈や将太とは、別々のゼミ室になってしまった。
今日は病院実習の日だった。今日子の所属する薬理学ゼミ室の沢田雅史准教授(チコを拾った時に診てくれたのが沢田准教授である)について大学病院に行き、彼の診療を見学したり簡単な診療補佐をしたりする。病院実習には5,6年生だけが参加でき。それは実際の現場で学べる貴重な機会となる。
今日子はゼミ室のロッカールームで青いスクラブに着替えた。スクラブは大抵は男女兼用で、色は青や緑が多い。人間の医者の場合スクラブは手術着の下に着ることが多く、普段の診療は白衣姿で行うのが普通だが、獣医の診療は人間の医者の診療より体を動かすことが多い。そのため獣医は普段の診療でも、裾の長い白衣ではなく動きやすいスクラブのみを使用することが多いのだ。
この大学病院では、教員はグレーのスクラブ、研修医は緑のスクラブ、そして学生は青のスクラブと色分けされていた。
今日子は同じゼミ室に所属するその他3人の学生とともに、沢田准教授について診療室に入った。うち2人は今日子と同じ5年生で、斉藤裕美と田辺晃一。もう1人は1学年先輩の6年生で、山崎亮介という。彼は無事に獣医師免許を取得できれば、来年の4月からこの大学病院の研修医となることが決まっている。
獣医学部の卒業生の進路はさまざまだ。やはり一般の動物病院に就職する者が一番多いが、中には山崎亮介のように大学病院で研修医となったり、大学院に進んだりする者もいる。また、一般の企業に就職して研究職のような仕事をする者もいる。そして公務員獣医師として、農林水産省や厚生労働省、地方自治体に勤める者も少なくない。BSE(狂牛病)や鳥インフルエンザ、口蹄疫のような動物の伝染病の予防や対策にあたるのも、公務員獣医師の仕事の一環だ。
診察の準備が整うと、沢田准教授は診察室に備え付けられているマイクで、待合室に向かって呼びかけた。
「加藤モカちゃんと飼い主様、第3診察室にお入りください」
すると、すぐにチョコレート色のトイプードルを連れた50代くらいの夫婦が、診察室に入ってきた。
飼い主の夫婦は、ひと目で緊張していることが見て取れた。患者である動物は飼い主の緊張を敏感に感じ取り不安を抱いてしまうので、まずはリラックスしてもらうことが重要になる。
沢田准教授は飼い主の緊張をほぐすため、あえて他愛もない話から始めた。
「モカちゃんは、カワイイお洋服着せてもらってるね~」
すると飼い主は少し落ち着いたように
「えぇ、私が自分で縫ったんですよ」
と、答えた。
「へえ~、お上手ですね」
と、飼い主が笑顔を見せたところで、沢田准教授が本題に入る。
「モカちゃんは、お乳の辺りにしこりがあるとのことですね」
「はい、犬にも乳ガンがあると聞きまして。心配になって連れてきたんです。元気もありますし、まさかとは思うんですが……」
「それじゃあ、ちょっと触らせてもらおうかな。カワイイお洋服ですけど、ちょっとだけ脱がせましょうね」
沢田准教授はそう声をかけながら手早く服を脱がせると、触診に入った。時間をかけて、ていねいに左右の乳腺に沿って触診していった。続いて可視粘膜(歯肉など)を観察し、聴診を行った。患者の胸に触診器を当てたその時、一瞬沢田准教授の表情が変わったことに、今日子は気が付いた。
「今、触ったところでは、左右の乳腺に、大小合わせて7つのしこりがありますね」
沢田准教授は飼い主に向かって話し始めた。
「えっ!?そんなにあるんですか?私たちは1つしか気付きませんでした」
飼い主の夫婦は、再び不安そうな表情になる。
「これは、乳腺腫瘍と見て間違いないでしょう。ただし良性か悪性かは、触っただけでは判断できません。実際にしこりを取って、検査してみないと駄目なんです。それは今すぐにはできません。今すぐにできる検査として、レントゲン撮影をさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「はい、よろしくお願いします」
「では、しばらくのあいだ、待合室でお待ちください」
飼い主の夫婦は、モカを置いて、待合室に戻っていった。モカは知らない人間の中に取り残され、不安そうな表情をしている。
沢田准教授は、学生たちに言った。
「ちょっとこの子の呼吸音を聴診してごらん」
今日子を含めた4人の学生たちは、順番に自分の聴診器でモカの呼吸音を聴いていった。
「この子の呼吸音が、正常とは違うことに気が付いたかな?」
微妙なものだったが、確かに違うように、今日子は感じた。
「俺は嫌な予感がする。裕美!」
沢田准教授は、5年生の斉藤裕美に指示した。
「この子をX線室に連れていって、胸部のX線撮影をしてもらってこい。VD(縦方向の写真)とラテラル(横方向の写真)だ」
「わかりました」
裕美はモカを抱いてX線室に向かった。
しばらくして、裕美がモカを連れて戻ってきた。そしてそのすぐあとに放射線学ゼミ室の学生が、今出来上がったばかりのX線写真を持ってきた。
「ありがとう」
沢田准教授はそう言って、X線写真を受け取った。心なしか、写真を持ってきた放射線学ゼミ室の学生の表情が暗いような気が、今日子にはした。
沢田准教授は、すぐにその写真を読影(検査画像を読み取ること)した。そして、苦しそうにこう呟いた。
「……CTを撮るまでもなかったな」
正常であれば、肺はX線写真に黒く写る。ところが黒く写るはずの肺に、いくつもの白いボツボツが写っていた。
学生たちも、ある診断を予測した。それが間違いであってくれることを祈りながら。
「ここまで進行したものなら、お前たちにもわかるだろう。今日子、お前ならこれをどう診断する?」
沢田准教授が今日子に問うた。その問いに、今日子は、自分が考え付いた最悪の結論を口にした。
「乳ガンの……肺転移です」
学生たちの願いも虚しく、沢田准教授が今日子の答えを否定することはなかった。
「その通りだ。この白い影のすべてが、ガンなんだ。もう肺全体に及んでいる。乳腺腫瘍は触診だけでは良性か悪性かの判断はつかないが、肺に転移しているろいうことは、これは悪性だ。しかもここまで転移が進行していては、手の打ちようがない」
沢田准教授の言葉が響いた。診察室に重苦しい空気が流れる。
沢田准教授は、続けて5年生の田辺晃一に問いかけた。
「晃一、犬と猫の乳腺腫瘍で、良性と悪性の比率はどれくらいだ?」
晃一は答えた。
「犬の場合は、五分五分です。猫の場合は、九割方悪性です」
「その通りだ。犬の場合、乳腺腫瘍全体の半分が良性で、半分が悪性だ。だが、よく覚えておけ。犬の悪性の乳腺腫瘍のうち、さらにその半数は発見された時点ですでに肺に転移していると言われている。つまり犬の乳腺腫瘍全体のうちの25%は肺転移があるということだ。ここまで進行しているのは、珍しいがな。乳腺腫瘍を発見したら、必ず肺を調べろ」
沢田准教授は、話を続けた。
「さあ、これから獣医師として最もつらい仕事が待っている。この検査結果を飼い主さんに説明しないといけない。お前たちも、よく見ておくんだ」
そう言って沢田准教授は、待合室に放送されるマイクに向かって呼びかけた・
「加藤モカちゃんの飼い主様、お待たせしました。第3診察室にお入りください」
モカの飼い主夫婦が、診察室に入ってきた。知らない人間に囲まれて緊張していたモカは、飼い主の姿に喜んで、そちらに跳びつこうとする。モカを抱いていた裕美は、飼い主の女性の腕の中にモカをそっと返した。
「加藤さん、まずはこちらをご覧ください」
沢田准教授は、モカと同じくらいの体格の正常な犬の胸部X線写真を貼りつけて、飼い主に見せた。
「これは正常な犬のものです。胸の真ん中辺りに白い心臓があり、その周りに黒い肺が写っているのがわかりますね」
「……はい」
飼い主は不安げに答えた。
沢田准教授はその隣に、モカのX線写真を貼りつけた。
「そして、これがモカちゃんのものです。本来、黒く写るはずの肺に、白い影がいくつも見えます」
飼い主は、沢田准教授の次の言葉を待っている。
「これは、ガンです。残念ながら、モカちゃんの乳腺腫瘍は悪性のものです。それが、肺にまで転移しています」
「――――!」
飼い主は絶句した。
沢田准教授は、しばし待った。飼い主がその言葉を受け止めるのを。
「……じゃあ、手術するんですか?」
飼い主の男性のほうが、やっと口を開いた。
そして沢田准教授は、最も残酷な事実を口にした。
「いえ、もはや手術を行えるような段階ではありません」
「では、薬が、抗ガン剤がありますよね!?」
「いいえ。こんなお話を飼い主さんにするのはとても残酷なことであると重々承知しております。ですが、どうか落ち着いて聞いてください。抗ガン剤も使えません。この状態の子に、効果のある抗ガン剤はないんです。完治はおろか延命すら期待できません。いたずらに副作用を引き起こすだけです。我々にできることは、この子の苦痛を和らげ、安らかな最期を迎えられるように、全力でサポートすることだけです」
沢田准教授はゆっくりと、言葉一つ一つを噛みしめるように説明していった。その言葉は厳しいものだったが、その口調には残酷な現実をつきつけられた飼い主への、気遣いが満ちていた。
「モカは、モカは、あとどれくらい生きられるんですか!?」
飼い主の男性は、すでに涙声だった。女性は声すら出ない。
「おそくらくは、1ヶ月程度でしょう」
沢田准教授の言葉に、飼い主の女性がモカを抱いたまま、アーッと泣き崩れた。
学生たちは、唇を噛みしめて聞いている。飼い主の前で、涙を見せるわけにはいかないと、誰もが必死だった。
今日子も、耐え切れずにこぼれた涙を必死に隠した。このような場面を今日子たちよりも知っているであろう6年生の山崎亮介が、ティッシュペーパーの箱を取り、泣き崩れた女性にそっと差し出していた。
すべての説明を聞き終えると、飼い主夫婦はモカを連れて帰っていった。もはや入院しても意味はない。それよりも残された時間を少しでも長く自宅で過ごさせてやったほうが良いだろうという、沢田准教授の判断だった。
診察室に残った学生たちに、沢田准教授が語りかけた。
「こういう場面には、獣医をしていれば何回でも遭遇する。そのたびに精神的に参ってしまっていては、獣医は続けられない」
学生たちは黙って話を聞いている。沢田准教授は、さらに言葉を続けた。
「だが、忘れるな。動物の死に慣れ、それになんの感情も動かされなくなったら、もうその時点で、その人間は獣医じゃない」
沢田准教授は、学生たちの顔を見回した。
「この中に、動物を飼ったことのない人はいないよね?」
学生たちは頷いた。獣医になろうと思う人間のほとんどは、幼いころから何かしらの動物を飼っている。
「じゃあ、飼っていた動物を亡くしたことはあるかな?」
これにも全員が頷いた。幼いころから飼っていれば、このくらいの歳になるとすでに亡くなっていることが多い。今日子も、ゴンを思い出していた。
「皆、その亡くなった子に感謝しろ。その子との楽しい思い出と、その子を亡くした時の悲しみが、お前たちを本物の獣医師にしてくれる」
その言葉を噛みしめながら、学生たちはそれぞれ、今は亡き大切な家族の姿を思い浮かべていた。