今日子、母になる
そんな大学生活にもすっかり慣れた6月のある朝、今日子はいつものように大学へ行こうと、アパートの扉を開けた。すると、
「ミィーミィーミィーミィー」
と、うったるように鳴く、か細い声が飛び込んできた。
(何!?)
と、今日子が驚いて辺りを見回すと、アパートの駐車場に段ボール箱がポツリと置いてある。中を覗くと、ちょうど片手に乗るくらいのネズミのような生き物が、ミィーミィーミィーと、必死に声を上げていた。
摘み上げて掌に乗せる。すると、その生き物にはまだ臍の緒が付いていることがわかった。
(これはネズミじゃない。生まれたばかりの猫の赤ん坊だ)
段ボール箱に入れられ、きっと昨夜のうちに捨てられたのだろう。
今日子はしばし悩んだのち、その猫を連れて大学へ向かった。
大学に着いた。しかし今日子は、教室には向かわなかった。大学付属の動物病院へ。
病院の受付で、受付表を書かされた。飼い主名の欄に‘三好今日子’、ペット名の欄に‘未定’、生年月日の欄に‘たぶん、昨日’と書いた。
待合室でしばらく待っていると、名前が呼ばれ、診察室に通された。
「どうしたの?」
グレーのスクラブ(上下に分かれた医療着)を着た沢田雅史准教授が、今日子に話しかけてきた。ちょっとお腹が出て、ちょっと頭も薄くなってきている、ごく普通のオジサンだ。しかし学内ではその指導力に定評があり、その飾らない人柄や獣医師としての技術の高さから、学生たちや飼い主にも人気がある。そして何故か、動物にも好かれている人物だ。
その周りには青いスクラブを着た5,6年生の先輩が数人。そして緑のスクラブを着た研修医の先生が1人立っていた。
「これ、捨て猫みたいなんです。今、アパートの前で拾っちゃいました」
今日子はそう言って、ネズミのような生き物、否、猫の赤ん坊を摘み上げた。
「そうか、このへんは捨て犬や捨て猫が多いんだよ。この辺りのアパートに住んでいるのは、皆、獣医学生だからね。獣医学生なら、きっとなんとかしてくれると思う人が多いらしい。まったく無責任な話だがな。大学周辺のアパートの大家は、大抵はペットを許可している。君のところはどうだ?」
沢田准教授は話しながら、子猫に簡単な身体検査をしていく。
「ペット可です」
今日子は答えた。
「なら、問題ないだろう。君が飼いなさい」
そうしてその日から、その猫は今日子の飼い猫になった。
診察が終わったのは、ちょうど1時限目と2時限目のあいだの休み時間だった。1時限目は完全にさぼってしまった。しかも沢田准教授には、すぐにでも子猫用ミルクを買ってきて与えるように言われた。この辺りで子猫用ミルクを売っているのは、駅前の大きなペット用品店だけだという。自転車を飛ばしても、往復30分以上はかかる。これは、2時限目もさぼり決定だ。
今日子は子猫を連れて一度教室に向かった。
「どうしたの、今日子?」
すぐに里奈が寄ってきた。他の学生たちも、今日子が猫の赤ん坊を連れていることに気づいて周りに集まってくる。
「今朝、拾っちゃったんだよ」
今日子は答えた。
「それで1時限目、来なかったんだ。まあ、代返はしといたから」
「ありがとう、里奈。2時限目も代返頼める?今から急いで、こいつのミルクを買いに行かなきゃいけないんだ」
今日子は子猫をあやしつつ、里奈に頼んだ。
「ん?代返なら、俺がやるよ」
将太が話に割り込んできた。
「バカ。その野太い声で代返されたらモロバレだよ。里奈、よろしく」
その日から、今日子はその猫の赤ん坊を育てはじめた。子猫は女の子だった。小さい猫だから、‘チコ’と名付けた。不思議なもので、初めはそれほどチコに愛情を持っていなかった今日子だが、授乳のたびに、どんどんチコが可愛くなってきた。
「あぁ、私のおっぱいも飲ませたいなぁ」
チコに子猫用哺乳瓶をくわえさせながら、今日子は目を細めた。
「何、変態っぽいこと言ってんの!」
今日子の部屋に遊びに来ていた里奈がツッコミを入れる。
「だって、それくらい可愛いんだよぉ~」
チコは哺乳瓶に一生懸命吸い付いて、グビグビとミルクを飲んでいる。その姿は、確かに可愛らしいことこの上ない。里奈ももちろん、そのことは認めている。
今日子はミルクを飲み終えて眠りはじめたチコの頭を指で撫で、その姿を見守っていた。
それからしばらくたったある日、里奈が今日子の部屋にやって来た。今日子が頼んで来てもらったのだ。
「どうしよう、里奈!」
今日子は、あたふたとチコを抱きかかえながら言った。
「これ見てよ!」
そしてチコの口を開くと、おろおろした様子で里奈に見せた。
「……これがどうしたの?」
「それが……チコったら、まだ歯が1本も生えてこないの!どうしよう!」
「そんなもの、これから生えてくるのよ」
「だって教科書には、‘猫の乳歯は生後2週間くらいから生えはじめ、生後1ヶ月頃に生え揃う’って、書いてあるんだもん。チコは今日で生後2週間と4日目なの。それなのに乳歯が生えてこないなんて、おかしくない!?どこか体が悪いんじゃ!?」
あきれる里奈におかまいなしで、今日子は続けた。確かに教科書にはそう書いてあるのだが、生き物は教科書通りに育つわけではない。
だが、里奈は冷静だった。
今まで犬1頭しか飼ったことのなかった今日子に比べ、里奈は猫には慣れている。両親が、捨て猫や野良猫の保護団体の代表をしているのだそうだ。
そんな里奈は、猫についていろいろなことを今日子に教えてくれた。たとえば、野良猫の正確な平均寿命は、誰も調べたことがないのでわからないが、その多くが子猫のうちに死に、成猫になってもほんの数年しか生きられないと言われていること。飼い猫であれば、15年以上生きる猫も珍しくないのに、だ。また野良猫はゴミを荒らしたり、あちこちに糞尿をしたりして、人間社会に悪影響を及ぼすことも多い。里奈の両親は、そんな野良猫たちが飼い猫としてくらしていけるように活動しているのだそうだ。
地元ではちょっと名の知れた保護団体で、捨て猫や野良猫を保護し、ワクチン接種や避妊・去勢手術を受けさせてから、HPや独自の人脈を駆使して募集した新たな飼い主に引き渡す。100名近くいる会員の家には常時1~数匹ずつの猫が保護されていて新たな飼い主を待っており、代表である里奈の両親は、常に10匹以上の猫を預かっているということも聞かせてくれた。
中にはチコのように生まれた直後に捨てられた猫や、保護した時にはすでに妊娠している野良猫も多いらしい。だから、里奈は猫の出産シーンを何回も見たことがあるし、子猫の成長過程も幾度となく見てきているようだ。この両親の活動を手助けしたいと思ったのが、里奈が獣医を志した動機なのだ。
ちなみに、猫の乳歯は生後2週間くらいで生えはじめるとは言っても多少のズレは普通だし、生後1ヶ月くらいで生え揃うと言っても、実際には生後3~6週間くらいの幅がある。そのことをよく知っている里奈から見ると、ほんの数日歯が生えてくるのが遅いからといって、騒ぐ今日子の姿は、ユーモラスにさえ見えていた。
「それに、これも見てよ!」
さらにダメ押しするかのように、今日子がノートパソコンを開いた。
それを見た里奈は、さらにあきれ返ってしまった。
「今日子!まさかあんた、毎日朝晩体重測定して、グラフまでつけてんの!?」
「ね?おかしいと思うでしょ?ここ何日かの体重の増え方が、少ない気がするの!」
一般的に言って、それくらいは十分に個体差の範囲だ。里奈の目から見ても、生後2週間と4日目の猫として、チコは平均的な大きさだった。
「あんた、それ育児ノイローゼだよ」
育児に慣れていない人間の母親も、育児書通りに子供が育たないことに不安を覚え、ノイローゼになることがあるという。今日子はまさに母親の心境だった。
ただ今日子の場合、それも無理のないことではある。生まれてすぐに母猫から引き離された子猫を無事に育てあげるのは、実はそれほど容易いことではない。人工哺乳しいれも、死んでしまう子猫も多いことは、獣医を志す者ならみんな知っていた。
しかし、今日子の心配をよそに、片手サイズから両手サイズになったチコは、今日子の膝の上でスピスピと眠っていた。
結局、チコの乳歯はその3日後から生えはじめ、生後5週間ほどで生え揃った。さらにその乳歯は生後3ヶ月頃から抜け替わりはじめ、生後7ヶ月頃には完全な永久歯になった。今日子はやっと、安心したようだ。
そのころになると、今日子の‘育児’にも、少し余裕が出てきた。
実は今日子はチコがやって来てから、大学へ行っても昼休みには必ずチコの様子を見に帰り、部屋で昼食をとっていた。また、放課後に出かける用事があっても必ず1度は部屋に戻って、それから出かけるようにしていた。
だがある日、午後からの実習のミーティングのために同じ実習班の学生たちと学生食堂で昼食をとり、部屋には戻らなかった。また、その実習終了後、やはり同じ実習班の学生たちに誘われ、部屋に戻ることもなく、そのままカラオケに行った。結局、朝部屋を出たまま、帰りはずいぶんと遅くになった。そんなことはじめてで、それは今日子の成長を示す出来事であったかもしれない。
だがもう1つ、今日子にとってとても大きな意味のある1日でもあった。戻ってきた今日子が自分の部屋の扉の前まで来ると、中でチコがニャーニャー鳴き叫んでいる声が聞こえた。
「ごめんね、チコ。おなかすいたでしょ」
そう言いながら急いで玄関の鍵を開け、中に入った。するとチコは、今日子の足元に擦り寄って強く頭を押しつけてきた。
「はいはい。今、ごはんあげるから」
今日子は猫缶を開けて、チコの食器に入れた。ところがチコは、食べ物には見向きもしないで、ひたすら今日子の足に擦り寄ってくる。
「ごはんなら、今、入れたでしょ。器に入ってるじゃない。ほら、こっちだって」
今日子はチコの鼻先に器を持っていったが、やはり食べようとはしない。食餌など目に入らないとでも言うように、チコは今日子の膝の上に上ってこようとしている。
腰を落ちつける前にいろいろと片付けてしまいたかったのだが、仕方なく、今日子はチコを抱いた。するとチコは、満足そうにゴロゴロと喉を鳴らした。ようやく自分の想いが叶ったとでも言わんばかりに満足そうだ。
「チコ……あんたおなかがすいてたんじゃないの?」
チコは今日子を見上げながら擦り寄り、腕の中で甘えている。
「……もしかして、寂しかったの?」
もう離さないとばかりに、今日子の服に爪を引っかけてしがみついているチコを見ていると、愛情がこみ上げてきた。
「ごめんね!チコ!」
今日子は、チコを抱きしめた。
チコは、今日子の愛情をたっぷりと受けて、すくすくと成長した。
チコは今日子にとって、家族同然の存在になった。
―――かつて、ゴンがそうであったように。