小説観(感)論
注。支離滅裂です。流れる川のようにとどまることを知らない思考を文章にするのは難しいと知りました。
既に定年で退職していたが人手不足で駆り出された国語の先生が授業でこう言ったことがある。
「小説とは文章の持つ虚構性によって現実を見つめるためのものである」
当時は、へえ、と思うだけだった。しかし、そのことを少し考え直して見たいと思った。
言うまでもなく、小説とは虚構である。ノンフィクションですらもその例に漏れない。なぜなら文章それ自体が虚構性をもっているから。
その先生の授業で最初の小説は芥川の羅生門だった。
鼻の曲がった老婆。若さという言葉をそのまま背負っているような若者。同一のものであるにもかかわらず複数の言い方を持つ描写。
その授業で私が思ったことは、要約すると、「小説はまごうこと無き虚構である。嘘である。しかしそれは現実にはなんら干渉しない」ということである。
自明のことではあるが、丹塗りのはげかかった柱にキリギリスがいたところで誰の目にも止まらなければそれは誰かにとって存在しないのと同じである。擬人法も、そう思う人間がいて初めて存在する。となると小説すら人間がいなければ存在しないのだが。(しかしここまで認識力・空想力を持った動物はおそらく人間のみだろうが。)
「小説とは文章の持つ虚構性によって現実を見つめるためのものである」ということを疑わずにいられる人間は書評をする人間だけだろう。
今日、ほとんどの人にとって(これは私がそうであるという以外の意味を持たない)小説とは娯楽である。虚構が娯楽である。(江戸にも室町にも娯楽であっただろうが)
娯楽を持つということは、生きることに余裕を持っているということ。かつかつなのに娯楽を持っていたら野生では簡単に死ぬだろう。生きるために脳を大きくさせた人間が娯楽として空想を選ぶのはある意味必然である。
娯楽とは、生きるために強要されるものではない。ゆえに、いくつかの娯楽から苦労の少ないものを選ぶのもまた必然である。
本を買って読むときに、この文章は隠喩だ直喩だ、ストーリーにおいて伏線だ、これをこのキャラクタがいうのはおかしい、これを証拠に主人公が推理をああしてこうして云々、いちいち考えて読む人は少数派だろう。基本的に娯楽とは受身なものなのではないか。
小説を読む人が読む際に求めるものは、メインディッシュを修飾する実体のない言葉、前知識などではなく、それと一緒に出てくる付け合せなのではないか。
拙くも娯楽小説を書くことを趣味にしている人間の書くものではないですが。。。しかし思考は坂道のボールのように止まらないのです。