「ぼくらのゆくえ―9」
夢中で本を読んでいるうちに、いつの間にか消灯時刻になっていた。どうも足元が冷えると思った。
「いけない、何のために居残ったんだか」
勇介は昼間の患者を見るために席を立った。当直の看護師が見回りから戻ってきたので、彼女を連れてICUに入る。背の高い看護師は、いつも浅川にセクハラをされている、看護師三人組のひとりだ。
ベッドサイドの計器でバイタルをチェックしている勇介に、看護師が小声で言った。
「北詰先生って、すごく仕事熱心なんですね」
「え……?」
「なんか、雰囲気が黒崎先生に似てますよ」
何気ない彼女の言葉にショックを受けた。
気を取り直し、患者の肩に痛み止めの注射を済ませると、後の事を彼女に任せて医局に戻った。
(このオレが……あの女に似てる?)
何だかどっと疲れが出た。自分のどこが、あの暑苦しい黒崎に似ているのだろう?
そう思って、ふとさっき読んでいた本を思い出した。皮膚移植に関する専門書だったが、あちこちアンダーラインを引いてあるのが彼女の勤勉さを物語っている、と言えなくも無い。医療に対する熱心さ、という意味なのだろうか。いまさら訊けないな、と思った。
「でも、オレのほうが、断然クールなはずだ」
誰に言うともなくつぶやくと、自席に座って再び読書を開始した。
借りた本を全て読み終えた時点で、形成外科の奥深さに改めて感じ入っていた。一口に皮膚移植といっても、患者の状態によってやり方はさまざまだ。また、体の傷は心の傷にもなる、という事を、症例を読んで思い知った。外科的治療を受けて完治した後も、その時の傷が元で心の病になり、傷を消したくて形成外科の世話になる患者は数多いという事実に驚いた。そんなことなら、外科的治療の段階でキレイにしてやれるのではないかと思うと、まだまだ腕を磨かなければいけないと気付いた。
「そうだ、ついでにあのDVDも見てしまおう」
明日は当直だから自分の仕事をしているわけにはいかないのだ。当直の佐竹に断りを入れて、救命の二階にある会議室にこもった。この建物ではDVDプレイヤーは院長室かこの会議室にしか無いのだ。
映像が映し出されると、聞き覚えのある声がした。
「あれ? この声って……」
サポートの医師に指示を出している執刀医がアップになった。
(桂院長?)
間違いなく、ここ市立総合病院の院長、桂だった。
――オレの専門は形成外科だからさ。
尊敬するS大病院の香川教授の親友だという桂院長。歩の姉、鳴沢杏子のつぶれた頭部を見事に修復した腕前を、実際にこの目で見られるのかと思うと、心臓がバクバクした。
「なんか、AVより興奮する……」
オペのDVDを見終わった時点で一睡もしていないにもかかわらず、勇介はまったく眠くなかった。
(すごい! すごいな。桂院長!)
それはまさに神がかり的なオペだった。十五センチ以上にもなる正中切開は、通常術後の傷痕はひどく盛り上がった状態になる。表皮と真皮を巻き込むようにして縫い合わせるのが一般的だからだ。女性患者の腹のど真ん中に縦一線に傷が入るのは、オペする側としても心が痛む。しかし、桂の縫合は独特だった。真皮と表皮を別々に縫う。しかも表皮は糸を出さないようにして内側から縫うのだ。術後の引き攣れや弛みなども計算しつくされていてまさに「神の手」が成せる技だと思った。
勇介は興奮状態で会議室を出た。とにかく、一刻も早く院長のような縫合を練習したいと思い、彼はそのままマンションに帰って自分の部屋に引き篭もろうと考えた。患者の容態も安定しているし、出勤時間にはまだ数時間ある。
花冷えの夜道にほぼ駆け足状態の足音を響かせて家路を急いだ。ちょっと腰が痛むが、そんな事は構っていられない。吐く息が白かった。
シンと寝静まった我が家の鍵を開けると、寝ぼけ眼の歩が顔を出した。
「あれ? 勇さん帰ってきたの?」
妙に神経が昂ぶっているせいだろうか、この興奮と感動を誰かに伝えたくてどうしようもない。勇介はパジャマ姿の歩をリビングに引っ張って行った。
「ちょ、ちょっと……勇さん? 酔っ払ってないよね?」
歩は何事かと目を白黒させている。勇介はまったく素人の歩に向かって、先ほどのオペ映像の事を延々としゃべっていた。
「うん、粉砕骨折とかって聞いてたけど、姉ちゃんの顔、すごくキレイだったよ」
「そうだろ? それがやっぱり普通だとさあ――」
「へえ、そうなの?」
よく考えれば、真夜中なのに迷惑な話だ。けれども、歩は嫌な顔一つせずいちいち頷きながら一生懸命聞いてくれた。
「あーちゃん、あーちゃん」
和室から渚の声がしたので、勇介は渋々歩を解放した。和室の襖に姿を消すと、すぐに歩の声が聞こえてきた。
「あーあ、おしっこ横漏れしちゃった。こりゃ冷たかったなあ。……そっか、嫌だったか。うん、うん、パジャマね、取り替えようね」
さきほど勇介に対して笑みを浮かべていた話し方とまったく同じ言い方で、歩が渚に話しかけている。
(もしかして、オレって渚と同等?)
襖の陰からのぞくと、歩は渚のパジャマを替えながら振り向いた。彼はニコニコ顔で言う。
「もっと聞かせて。勇さんの話」
「あ、うん……。でも、つまんないでしょ」
「そんなことないよ。勇さんって本当に根っからのお医者さんなんだね。熱い男って感じで、カッコイイよ」
「へ……?」
――熱い男?
どちらかというと、自分はずっとクールなタイプだと思ってきたのに。
(オレ、人格変わった?)
だから黒崎に似ているなどと言われたのかもしれないと思い当たって呆然となった。
「いや、遅いから、やっぱり寝よう……」
興奮が一気に醒めた。勇介はシャワーを浴びるとベッドに潜り込んだ。
寝室のドア越しに歩の遠慮がちな声がした。
「勇さん、仕事忙しそうだけど、体壊さないようにね」
彼の思いがけない言葉掛けに、ちょっと嬉しくなり、ベッドから起き上がるとドアに近付いて答えた。
「……ありがと。あーちゃんもね」
ドアを挟んでの会話でも、歩の優しさは十分伝わってくる。勇介は再びベッドにもぐり込むと、ホッとして目を閉じた。