「ぼくらのゆくえ―8」
先ほどの患者が不安定な容態なので、今日は病院に泊まることにした。
「あーちゃん、戸締りキチンとしてね」
廊下の隅で自宅の歩に電話をしていると、背後に気配を感じた。慌てて携帯を切ってホッとした。看護師長の木村だった。彼女には、家族三人で暮らしているとだけ告げてある。
「明日は当直でしょう? 連続で泊まったら、ご家族が寂しがるんじゃないですか?」
そう言って彼女は勇介に小さな袋を手渡した。
「なんですか?」
「お土産です。お子さんにですけど。家族でスパリゾート・ハワイアンに行ってきたの」
開けて見ると、パイナップル模様のよだれ掛けが出てきた。勇介は慌てて袋の中にそれを戻した。
木村は「うふふ」と笑って医局に戻って行った。家族についてのウワサは全く聞こえてこないから、木村は勇介のことを彼女一人の胸のうちにしまってくれているようだった。
(やっぱり……独身なのに「パパ」は、まだ抵抗あるもんな……)
赤面しつつも、先ほど電話口で聞こえた渚の「パーパー」という声を思い出して、ちょっと嬉しくなった。歩が渚に教えてくれているのかもしれない。とりあえず、渚のパパの座は譲ってくれたということだろう。
(家族で温泉。いいな、それ)
疲れた体に鞭を入れつつ、患者の様子を見にICUへ向かった。
医局に戻るとデスクに紙袋が置かれていた。中を見ると、数冊の本とDVDディスクだった。
「よかった、北詰先生。帰ってしまったかと思いました」
私服姿の黒崎が医局の奥から姿を見せた。薄紅色のニットのワンピースを着ている。
「今日もアルバイトですか?」
訊ねると、彼女は首を横に振った。サラサラの黒髪が豊かなバストのあたりで揺れる。着ている物の色合いのせいか、今日の黒崎はとても女性らしい雰囲気がした。彼女は近付いてくると言った。
「愛ちゃんの皮膚移植のことですけれど、先生に二、三、確認しておきたくて」
「なんでしょう?」
彼女は勇介の経験を知りたがった。皮膚移植は二度ほど執刀した事があった。
「じゃあ、美容整形は?」
「それはさすがに、ありません」
すると彼女はニッコリして言った。
「やっぱり、それを持ってきて良かったわ。オペまでに、その本とDVD、見ておいてくださいね。きっと役に立ちますから」
艶やかに笑う黒崎がとても綺麗に見えて、ちょっとドキリとする。
(ああ、化粧が違うんだ……)
いつもくっきり引かれているアイラインが無い。薄化粧の黒崎は、意外にも好みのタイプだったりする。
「私の顔に、何か付いてます?」
からかうように微笑まれて、慌てて下を向いた。外見はどうあれ、黒崎は黒崎だ。内心の動揺を悟られないようにと、何でも良いから言葉を探す。
「そんなにボクが信用できないなら、あなたが執刀したらどうですか?」
いけない、また余計な事を言ってしまった、そう思ったときにはもう遅かった。形の良い彼女の眉が、みるみる吊り上がった。
「私は患者の為に、整形外科医としてあなたにアドバイスしただけです。あなたって、どうしてすぐにそういう言い方するかなぁ!」
勇介はまたまたむしゃくしゃしてきた。
(どうしてなんて……!)
訊かれても困る。何故だか黒崎と話しているとつい口が滑ってしまうのだ。そうなると、もう止まらない。
「ボクはどっちだってよかったんですよ。実際、外科に断りに行ったのに、あなたが余計な事を申し出るから……」
(だから、一ツ木から目を付けられて、あんな事まで言われて……こじれて……!)
なんとか後半の言葉を飲み込んだが、黒崎の顔が真っ赤になった。
「なんて言いかたなの! せっかく患者さんから信頼されているのに、どっちだっていいなんて!」
彼女が出て行った後、勇介は頬を押さえて椅子に座り込んでいた。
(よく、人を叩く女だ……)
一部始終を目撃していたはずなのに、木村師長は黙ってお茶を淹れてくれた。大人な木村の気配りがありがたかった。
お茶を飲み終えた頃、木村師長が静かに言った。
「今回の、愛ちゃんのオペをきっかけに、何かが変わってくれたらいいなって、思うんですよ。一ツ木先生と北詰先生……。どちらもこの病院にとっては必要なドクターですから。それに、黒崎先生も……」
「木村さん……?」
「今日のお二人のオペ、とても息があってて、特に一ツ木先生の目が輝いていたの、久しぶりに見ました」
彼女の言葉は勇介の心拍数を上昇させた。勇介自身が感じたのと同じように、一ツ木もあのオペの中で高揚感にひたっていたのだろうか。
外科医だけが感じる、生命を紡ぐ興奮。
(だとしたら、また一緒に……?)
元々ある外科と救命の確執。それに加えて、(勇介にはまったくその気は無いけれど)黒崎を挟んでのトライアングル。そんな障害を越えて、また一ツ木と仕事が出来る可能性があるとすれば、それはあの興奮に浸りたいという、外科医としての本能が勝った時だ。
医者としての本質。
淡い期待だと思ったが、ほんの少し希望が持てそうな気がした。
勇介は黒崎が持ってきてくれた本に目を通し始めた。