「ぼくらのゆくえ-3」
北詰先生どんだけいそがしいのか^^;
ちょっといじめすぎ?
救命の医局に戻ると、皆が彼を探していた。
「ああ! 北詰先生、どこに行っていたんですか?」
胡麻塩頭に汗の粒を浮かべた医局長の佐竹が転びそうな勢いで駆け寄ってきた。彼はホッとしたような顔で言った。
「さっきの複雑骨折の患者さんのご家族がお見えになっていて、もう話が出来ないで困ってたんですよ」
安心しきったように見上げてくる佐竹と、ばっちり視線が絡み合ってしまった。
「あのぉ、医局長。あの方は確かイラン人でしたよね。……ボクもさすがにペルシア語までは……」
「ああ! イラン人はペルシア語だったのか!」
背後でポンと宮下が手を叩く。呑気なセリフに勢い良く振り返った勇介の手を医局長が凄い力で引っ張った。首が嫌な音をたてて置いて行かれた。
「あ゛うっ! く、くびが!」
勇介はうめき声を上げる。
「北詰先生、早く早く!」
佐竹はそんなことはおかまいなしで、勇介をぐいぐい引きずってイラン人の家族の元へと連れて行った。痛む首を押えつつ、勇介は心の中で舌打ちする。
(だから、ペルシア語はしゃべれないって言ってるのに!)
先日、たまたま米軍の将校を診察した時に英語で会話していたのだが、そのせいだろうか。
(あのときだって、たいした会話もしていなかったのに……。やたら皆が「すごーい」とか言っていたよな)
S大病院では医師だけでなく、看護師たちも普通に英語くらいは話せたから、こちらにきて誰も外国人に対応できない事に勇介は心底驚いていた。
幸いイラン人の家族は片言の日本語と英語が出来たので、話は通じた。こんなことなら誰でもよかっただろうに、と思った。
「なんだか疲れたな……」
当直明けに加えて、外科でメガネブラザーズの相手をし、戻ってすぐにイラン人とちぐはぐな会話をした勇介はぐったりして自席に座った。もともと人と会話するのはあまり好きではない。これなら黙ってオペでもこなしている方がよっぽどもいい。
壁掛け時計を見上げた。もうすぐ(一応)終業時刻だ。当直明けは定時上がりでも許されるらしいと、最近になって知ったのだ。もっと早く、誰か教えてくれればいいのに。些細なことだが、そういうところがこの職場自体の不信感につながるのだと勇介は思うが、口に出すのはさすがに大人気ないので、今のところは黙って目をつぶっている。
とにかく、早く家に帰りたいと思った。
(今日の夕飯、何かな)
歩の作る手料理は、なかなかにいい味がする。歩は子どもの頃から必然的に家事をしなければいけない環境にあったが、それだけではなく、彼はどうやら料理が趣味のようだった。学校の参考書と並んで料理の本をずいぶんたくさん持っているのを勇介は知っている。姉の杏子の持ち物だと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。
(洋食かな。この間食ったミネストローネは絶品だったな)
気分を切り替える為になるべく楽しい事を妄想していると、甲高い声で呼ばれた。
「北詰先生、ちょっと!」
(またこの女か……)
黒髪をキリリと結い上げた、白衣姿の黒崎女医が呼んでいる。髪をアップにしているせいばかりではなく、その目は明らかに吊り上っていた。彼女の背後で佐竹医局長の胡麻塩頭が見え隠れしており、さらにその後ろで頭ひとつ分大きな浅川がニヤニヤしている。
何となく不穏な空気を察知して身構えると、黒崎はヒールのかかとを鳴らして近付いてきた。手に持っているカルテをひらひらさせている。警戒心を露わにして見つめている勇介の鼻先に、彼女はそのカルテを突きつけて言った。
「一度承諾したんだから、ちゃんとやりなさいよ」
受け取って見ると、それはあの熱傷の赤ん坊のものだった。
勇介は首をかしげる。話はすでについているのだから。それに、何で黒崎がコレを持ってくるのだろう?
「コレは……?」
一応尋ねてみると、彼女は声を荒げて言った。
「だから、皮膚移植。指名されたんでしょう? あなたがやるべきだわ」
チラリと佐竹を見ると、彼はまたまた大汗をかいてさっきとは違うハンカチをとり出している。
黙っている勇介に、彼女は言った。
「内海先生から聞いたわよ。今朝承知したくせに、午後になったら手のひら返したように断られたって」
(ああ……内海先生と仲がいいんだっけ)
外科ブラザーズから内海女医に、もう執刀医交代の話がいったのだと理解した。勇介は黒崎の顔から目を逸らして、彼女の背後を見た。佐竹医局長は曖昧な表情でこちらを見ている。
佐竹は、自分の言葉で勇介が思い直して、外科に断りに行ったのだと勘違いしているようだった。ただ面倒臭いから、「どうでもいい」という言い方をしただけなのに。まあ、とにかく外科との揉め事を避けたいという医局長の思いを尊重する形になったのだから、佐竹はいいとしても……。
目を吊り上げた女医に視線を向ける。
どうしてこの女性はいつもいつもやっかいごとを持ってくるのだろう。
(この病院の医師でもないのに……)
黒崎はココ市立総合病院の院長・桂の姪で、市内にある整形外科・黒崎クリニックの医師だ。彼女はときおり救命を手伝っているが、いわばアルバイトにすぎない。
「黒崎先生、またアルバイトですか。熱心ですね。それとも、オシャレする為に稼ぎたいとか?」
疲れていたから、言い方がちょっと刺々しいものになってしまった。彼女は吊り上げた目を大きく見開いて言った。
「神聖な職場で、セクハラめいた発言は感心しないわね。まあ、あたしは大人だから気にしないけれど」
勇介は口をつぐんだ。言わなくてもいい事まで言ってしまったと気付いて、とりあえず無表情でその場を取り繕ったが、内心ヤバイと思っていた。
(なんでだろう……)
黒崎の顔を見ていると、無性に不愉快になるのだ。
「お話を戻してもいいかしら?」
勇介の様子を無視して、黒崎は彼の手もとのカルテを指差した。
「北詰先生、あなた今朝、内海先生に自信たっぷりに言ったそうじゃない、オペは出来るって。それなのに、どうしちゃったの?」
彼女は少し声を和らげた。責めているのではなく、労るような響きに、勇介は彼女のほうをもう一度見た。
「愛ちゃんのご両親が、どうしても北詰先生にお願いしたいって言ってるのよ。それをあなたは……」
どうやら黒崎は内海女医に頼まれたらしい。内海は患者と外科の間で板ばさみ状態になっているようだった。
「どうしてそれほどまでにボクを?」
勇介は不思議に思って尋ねた。S大病院ではそれなりに実績もあったが、ココに来て話題になるような大きなオペはしていない。
すると今まで黙っていた浅川が笑いながら言った。
「北詰ちゃんの熱狂的なファンの看護師がね、あることないことしゃべったらしいよ。S大病院の「神の手」とか呼ばれていた、ってね」
「ボ、ボクはそこまで言ってません!」
うずたかく積み上げられたカルテの隙間から、宮下のニキビ面が垣間見えた。
(ああ……また、コイツか!)
勇介は額に手をやった。
目が合うと、宮下は「てへ」と舌先を出して顔を赤らめた。
勇介のこめかみに青筋が立つ。
(おまえの「てへぺろ」は、かわいくないんだよっ!)
実際のところ、患者は女の子だけに、ご両親も傷痕が残らないように、少しでも腕の良さそうな医師に頼みたかったのだろう。それで尋ねられた宮下あたりが、余計な事を言ったに違いない。目に見えるようだった。
――ああ! それでしたら、なんといっても救命の北詰先生がダントツです!
……とかなんとか。
シンとなった医局に、佐竹の大きなため息が漏れた。
「医局長、そんなに気にすると禿げちゃうよ。それに、北詰ちゃんが自分で外科に出向いて断ったんだったらさ、もういいじゃない。やっぱ、自信が無かったんだ、って事でさ」
浅川は勇介に向かってニヤッと笑う。さすがに今のは聞き捨てならないセリフだ。
ひとこと言い返そうとしたとき、聞きなれない男性の声がした。
聞きなれない声の男性、誰だ???