「心の器があふれるとき―8」
本編再開です。
「夕飯はカレーが残ってるから、洗濯物だけ取り込んでおいてくれればいいよ」
くまさんのエプロンをつけた歩は、相変らずせわしない動きでキッチンとリビングを行ったり来たりしている。もうすっかり見慣れた朝の風景だ。
「勇さん、本当に休みをとってくれちゃって、仕事のほうは大丈夫なの?」
心配そうな歩に片手を挙げて返すと、勇介はソファに座って欠伸を噛み殺した。久しぶりの休暇だが、今日の予定は一日中子守りだ。
渚は膝の上で、まだ読んでいない本日の朝刊を盛大な音で破いている。眠くて取り上げる気力も無い。
S大病院第一外科の助教授に対する、父からの献金疑惑について考えていたら、眠れなくなってしまったのだ。ようやく寝付いたと思ったらもう朝だった。
「じゃあ勇さん、渚を頼むね」
そう言って制服のブレザーに袖を通した歩は、渚のほっぺにチュッとキスをした。
「あーちゃん、ボクには?」
試しに訊いてみたが無視された。
歩が出かけてしまうと、渚は泣いて外に出たがった。かれこれ五日間も家に居たから、相当ストレスが溜まっているようだった。もうすっかり熱も下がり、発疹がたくさん出ているだけだから、パワーが有り余っているのかもしれない。この様子なら、来週から保育園に行けそうだ。
癇癪をおこしてキイキイ言いながらミニカーを投げつけてくる渚を取り押さえ、天井まで届くぐらいに「高い高い」をしてやると、渚は足をばたつかせて喜んだ。あっという間に機嫌が直る。そんな素直なところは、大人も見習わなくっちゃいけないと思う。
勇介は渚をぎゅっと抱きしめて、やわらかいほっぺたに自分の頬を押し付ける。
「渚、今日はパパと何して遊びましゅか?」
何故、赤ん坊と接するとき、人は赤ちゃん言葉になるのだろう? などとつまらない事を考えつつ、勇介はリビングの床におもちゃ箱の中身をぶちまけた。
思えば、渚と一日中二人きりで居るのは初めてかもしれない。幼児は集中力が続かないから、おもちゃで遊んでいてもすぐに飽きてしまう。ようやく積み木を並べてやったと思ったら、もう別のことを始めた渚を、ため息混じりに見守った。
(あーちゃんは、毎日どうやって遊んでやっていたのかな?)
どうしてだかわからないが、渚の動きを目で追っていると、眠たくて堪らない。渚は勇介の膝によじ登って、ぬいぐるみをかじり出した。栗色の癖毛が胸元でもそもそ動くたびに、催眠術に掛かってしまったように勇介の頭は前後にガクガクした。
温かい日差しが差し込む昼下がりのリビング。うっかり居眠りをこいていた時に携帯が鳴り、一気に覚醒した。目覚めて、膝の上にいたはずの渚がいないことに気づき、勇介ははじかれたように立ちあがった。
「あれ? 渚?」
携帯は床の上で鳴り続けている。あたふたとそれを拾い上げ部屋を見まわすと、渚はロフトへ通じる梯子を半ばまでよじ登っていた。
「なんてことを!」
慌てて渚を取り押さえてから、うるさく鳴り響いている携帯に応答した。
「はい」
着信名義も見ずに不機嫌な声で出ると、
『お休みのところ、申し訳ないわね』
携帯から聞きなれた女性の声がした。
「え、うわ、なんで?」
『もしもし? 北詰先生?』
――黒崎だ。
「びっくりするじゃないですか!」
勝手に自分でビックリしておきながら声を荒げてしまった。電話の向こうで黒崎が黙り込む。気まずい沈黙は明らかにこちらのせいなので、一応低姿勢で話しかけた。
「いったい、何の御用ですか?」
彼女から借りた本の中に、大事な書類が挟まっていて、それを取りに行きたいと、黒崎は言った。
勇介はとりあえず書類の存在を確認した。たしかにレポート用紙数枚が挟まった本が見つかった。
「ありましたよ」
『じゃあ、今からとりに行く』
え……? 今から?
こちらの返事も聞かず、彼女は一方的に通話を切ってしまった。
「ちょっと待てよ!」
かけ直したが、運転中のメッセージが流れてきただけだった。
マズイ!
勇介は改めて自分の姿を見下ろした。パジャマのようなスウェットの上下はいいとしても、寝癖だらけの頭で髭も剃っていない。小脇に抱えたままの渚は、おろせ! というふうにキイキイと癇癪をおこしかけているし、無秩序におもちゃや千切れた新聞紙などが散らばる家の中は、まるで嵐が通過したような有様だ。
(これは、いかん……だろ)
いくらなんでもこんなのは見せられない。特に黒崎にだけは、こんなにもだらしのない部分があるということ自体、絶対に見せたくない。黒崎の性格からして、思いがけないときに、これをネタにからかわれるに決まっている。
緊急事態に動揺して、荒れたリビングをただ行ったり来たりする。
「ああ! どうしよう」
うろうろする彼の後から、おもちゃの自動車に乗った渚がガラガラと音を立ててついてくる。床に転がっていた三角形の積み木を踏んずけてのたうちまわっていると、玄関のチャイムが鳴った。玄関ドアの覗き穴から見ると、黒崎が立っている。
「早っ!」
いったい彼女はどこから電話していたのだろう? まだ二分程しか経っていない。とりあえず手櫛で髪だけ整えると、半分ほどドアを開けた。すぐに渡すものを渡して帰ってもらおうと思った。
「自宅まで押しかけちゃって、ごめんなさいね」
そう言って微笑んだ黒崎の顔の前に、書類の束を突きつけると、「じゃ!」と言って素早くドアを閉めようとする。
と、そのときだった。
「パーパー」
可愛らしい声と共に、ちっこい人間が勇介の両足の間を通過した。ヤツは、まさにこのときを狙っていたかのような動きを見せ、外に飛び出した。
「あ、コラ!」
黒崎は玄関から転がるようにして出てきた渚を抱き上げた。渚は物珍しそうに彼女の顔をじっと見つめている。
(渚、泣け! 泣くんだ!)
渚が泣き喚けば帰ってくれるに違いない。心の中で懸命に念じ続ける。
黒目がちの瞳で黒崎を見つめていた渚は、彼女の長い髪を摘まんでニコッと笑った。
「まあ可愛い! 先生と違って愛想がいいのね」
「渚、こっちへ来い」
手を差し伸べる勇介を一瞥しただけで、渚はプイと顔をそむけ、黒崎の豊かな胸にぺたりと頬をくっつけた。
――万事休す。
念は通じなかった。
仕方なくドアを全開にすると勇介は「どうぞ」と黒崎を招き入れた。




