「心の器があふれるとき―6」
例の赤ん坊の皮膚移植の日程が決まった。患者の体調が良好なら、二週間後に実施される。外科からのサポートは無しだ。予想はしていたものの、ひょっとしたら一ツ木と共に執刀できるかもしれないと、密かに期待していたので落胆の色は隠せない。
気が抜けたように院長室から出てきた勇介の肩を、医局長の佐竹が労るように叩いて通り過ぎた。
(とにかく、二週間後のオペは、キッチリと非の打ち所が無いくらいにやってのけなければならない)
頭を切り替えるために屋上への階段を上がっていった。
ポケットからタバコを取り出して口に咥えると、鉄扉を開けた。サッと日差しが差し込んでくる。
五月も半ばを過ぎ、汗ばむほどの陽気だった。タバコを咥えたまま火もつけず、ぼーっと箱庭のような街並みを眺める。
ここからの景色もすっかり見慣れた。街を横断するように伸びている幹線道路を離れると、緑多い住宅街が広がる。その住宅の一軒一軒にそれぞれ「家族」がくらしているのかと思うと、なんだか街が息づいているように感じられた。
背後で鉄扉の開閉する音がしたので振り向くと、白衣姿の黒崎が居た。
「やっぱりここでサボっていたのね」
黒崎は隣に来ると、いたずらっぽい目つきで背の高い勇介を見上げた。今日はいつもどおり、キッチリとアイラインを引いている。少々濃い目の化粧もいつもどおりだった。
「あれから、縫合の練習してます?」
尋ねられて、頷くと、黙ってタバコに火をつけた。ゆらゆらと立ち昇る煙を見ながら、ふと訊いてみたくなって、彼女に向き直った。
「どうして外科は手伝わないんです?」
「は?」
黒崎は言っている意味がわからないようだった。勇介は言葉をつぐ。
「確かに救命は人手不足ですけど、形成外科の腕を磨くなら、外科の方が症例も多いし勉強になるんじゃないですか?」
「まあ、そうね……」
黒崎は曖昧に頷いて金網に背を預けるようにして寄りかかった。勇介もタバコを咥えたまま、彼女に並んで金網にもたれかかる。ひし形の網の間から、風が初夏を運んで勇介の後ろ髪を撫で、黒崎の長い髪を弄んで吹き抜けた。
「ねえ、なんかしゃべってよ」
「え?」
タバコを味わいながら一分ほど沈黙していただけなのに、黒崎は突っかかるような言い方をした。
「彼女と居るときも、こんな感じで無愛想なの?」
「はあ?」
話の意図がつかめず、気の抜けた返事をしてしまった。チラリと横を見ると、黒崎は空を見上げて唇を引き結んでいる。
『彼女』とは、たぶん歩の事だろう。女性がプライベートな話題を振るときは、決まってこちらに少なからずの恋愛感情を抱いているのだ。これは、けっして自惚れているわけではなく、今までの経験でわかる。
黒崎に惚れられても困る。本当に、困る。
最近接触する機会が多かったせいか、最初の印象ほど嫌な女でない事はわかってきたが、それだけのことだ。
「……彼女とは、よい関係ですよ。ボクはこう見えても子持ちですからね。当然、家庭は円満です」
「ふ~ん」
「子どもの世話だって、それなりにしますよ」
それなり、という部分がポイントなのだが。
渚の世話はほぼ全部歩がしている。勇介は、歩が手一杯のときに渚を寝かしつけたり風呂にいれたり食事をさせたりするが、基本、ほとんど家にいない。だから、「それなり」なのだ。ちなみに、まだオムツは替えたことがない。
黒崎は勇介の顔を見ながら目を細める。
「あなたが子持ち……ねえ。みえないな。そう感じさせるニオイがしない」
「ニオイ?」
黒崎はわざとらしく勇介のニオイを嗅ぐようにくんくんと顔を寄せてきた。
「やめてください。浅川先生じゃないんですから」
距離をとるように若干体を引くと、黒崎が言った。
「……ウソのニオイがするな」
「え?」
「子持ちって、ウソのニオイ」
ドキリとしてタバコを取り落とした。慌てて足元に落ちたソレをサンダルで踏みつける。
やはりというべきか……
一ツ木からどこまで聞いているのだろう? どこまで知っているのだろう?
探るように彼女の横顔を見ていると、黒崎はふっと目を伏せて言った。
「……ごめんなさい。あなたには、大切なご家族がいらっしゃるのに、こんな事に巻き込んでしまったから」
「なにを今さら」
小声でつぶやくと、こちらを向いた彼女の潤んだ瞳と出逢ってしまった。心臓がトクンと跳ねる。
「一ツ木が、どうやら本気になったみたい」
「そりゃよかった。彼をヤル気にさせたかったんでしょう? あなたは」
「そんな事か」と笑みを浮かべると、黒崎は激しくかぶりを振った。
「本気になったのは仕事じゃなくて、本気であなたを追い出す気になったみたいって事よ!」
勇介は口を開けたまま彼女を凝視していた。
追い出す……? 意味がわからない。
「あなたの事、彼が色々調べてたって、知ってた? ……その、S大病院時代の事とか」
S大病院と聞いて思わず顔がこわばる。
いつまで父のスキャンダルはついて回るのだろう? S大を追われた時点でもうケリがついたんじゃないのか?
「彼の友人に製薬会社の営業マンがいるんだけどね、その人から色々と情報をもらってるようだった」
勇介は半分開き直って言った。
「父と秘書の女性の不倫についての事だったら、それは事実ですけど」
「そうじゃなくて……」
黒崎は一瞬口ごもったが、決心したように口を開いた。
「SK製薬から、S大病院第一外科の助教授数名に、お金が流れていたって……」
「はあ?」
「公開オペやなんかの時に、ある医師を執刀医に推薦して欲しいということで、数回にわたって、まとまった額の金銭のやりとりがあったとか、無かったとか」
寝耳に水とはこの事だ。
「それがいったいボクとどういう関係が……」
言いかけてハッと口をつぐんだ。
(まさか! 父から第一外科に金が流れていたのか?)
S大病院では、確かに人よりたくさん経験を積ませてもらった。それは、ひとえに香川教授のおかげだと思っていた。それと、心の奥底では、自分の腕が人より優秀だからだ、とも。
(それが、金の力だった……?)
確かに、S大病院に勤める際には、父のほうから便宜を図ってもらった経緯がある。
製薬会社と病院の関係。その間には、サービスに該当するやりとりがないわけじゃない。だが、今、黒崎が問題にしているのは、そんなレベルの話ではない。
黒崎は両手を伸ばし、労るように勇介の頬を包み込んだ。くっきりとアイラインを引いた目でじっと見つめられて、どうすればいいのかわからなくなる。
「あなたがそんなことに関与していたなんて、私はこれっぽっちも思ってないわ。根も葉もないでたらめだと思ってる。あなたはそんな人じゃない」
真っ白になった頭で、ぼんやりと目の前の女医を見つめていた。黒崎のしなやかな指先が、勇介の頬からアゴのラインをそっと辿る。
「だけど……あなたも、嫌というほどにわかってると思うけど、……世間って怖いよ」
ああ……だから黒崎は謝っていたのか。
一ツ木がこちらの過去を嗅ぎまわる原因を作ってしまったから。
仕方がないことだとわかっている。過去は変えられないと、何度も自身に言い聞かせた。
でもウワサが広まって、もしもそのとき、またS大病院と同じことが起きたら……
患者のために時間を割いて練習した皮膚の縫合術はムダになる。ぜひ勇介に執刀してもらいたいと望んでくれた患者の、その同じ口から拒否の言葉を聞くことになるだろう。ウワサとは、あっという間に広がるもの。これは、あの幼児だけのことではない。
痛いほどわかっている。
その先は下りを転げ落ちる石のごとくだ。
「ここを追い出されたら、ボクは行く所がないかもしれませんね……」
情けない声が出ないように目を伏せて、自嘲気味にそう言ったとき、唇に柔らかいものが触れた。
目を開けると、黒崎の顔がすっと離れていった。
「迷子の仔犬みたいな目、しないで」
そう言って黒崎はやわらかく微笑んだ。勇介と彼女の間を五月の風が吹き抜けた。
「あなた自身のためにも、今回のオペは失敗できないのよ。幸いにして、ここは市民病院。最後は実力がモノを言う。そう、私は信じてるわ」
勇介の唇に温もりを残して去ってゆく黒崎の背中を、午後の日差しが眩しく照らし出していた。




