「心の器があふれるとき―4」
夜中の見回りに出ていた宮下看護師が戻ってきたとき、勇介は不覚にも医局のソファで居眠りをこいていた。
「先生! 北詰先生、ちょっと起きてください!」
大きく体を揺すられてハッとした。
「急患か?」
眠たい目を擦って宮下を見ると、彼はひどく蒼ざめていて、勇介の腕にすがって喚いた。
「寝てる場合じゃありません! 出たんです!」
「なにが?」
しがみつく宮下を振り解きながら尋ねると、彼は涙目になって叫んだ。
「お化け!」
あほらしい。
再びソファに沈み込む勇介を、宮下は乱暴に引き起こすと早口でしゃべり出した。
「二階の院長室から物音がして、そっとのぞいたら、青白い光の中に女の『のっぺらぼう』が!」
「んなの、居るわけ無いだろ。いいかげんにしろよ」
言ってはみたものの、さっき亡くなった鳴沢杏子のことを考えていただけに、ちょっとばかし背筋が寒い。勇介はゴクリと唾を飲み込んだ。
宮下は「とにかく一緒に来て確認しろ」と、うるさい。仕方が無いので、欠伸を噛み殺しながら宮下看護師について二階の院長室へ向かった。
煌々と明かりの灯るナースステーションを過ぎ、階段を二階に上がると、途端に静かになった。深夜の病院内で、非常灯の薄青い灯りだけが周囲をぼんやりと照らす。シンとした廊下に、自分たちの足音がやけに響いた。
カタン……
「ひょえ!」
物音より、宮下の声にビクンとしてしまった。腹立ち紛れに彼の頭を一発殴る。
「い、痛いよぉ」
「静かにしないからだ」
宮下を叱りつけると、勇介は院長室のドアノブに手をかけ、ゆっくりと回して押し開けた。開いた隙間に懐中電灯を突っ込んで暗い室内を照らす。
「あれ?」
懐中電灯の明かりではない、ぼんやりとした光が目に入った。真正面に据えられたテレビが点いている。画面には、プルプルした肉色のものが映し出されていた。
「な、なんで……!」
その声が院長室に木霊した途端、高い背もたれの院長の椅子がクルリと回転した。
「―――!」
宮下が声にならない悲鳴を上げて背中にしがみつく。勇介は固まったまま声も出せなかった。心臓が壊れるかと思うほどにバクバクしている。そんな二人を見て、髪の長いその女性はニッと笑ったようだった。
「あああああ!」
ついに叫び声を上げて座り込んだ宮下の頭を、勇介は怒りを込めて思いっきり叩いた。宮下が呻き声を上げる。
女性が椅子から立ち上がった。
「やだ、何してるの二人とも」
黒崎の声が言った。勇介はハアと深く息を吐いた。
「電気ぐらい、点けたらどうですか?」
ドアそばの壁を手探りして電気を点けると、白色の光が院長室を満たす――
「うぎゃあ!」
ドサッ!
宮下は近付いてきた黒崎を見て、今度こそ本当に気を失ってしまった。
「おい! ……ったく、しょーがないヤツだ」
黒崎の顔は真っ白いパックが施されており、まるで仮面のようだった。黒崎は床に倒れた宮下を仮面の顔で見下ろした。
「のっぺらぼうが出たって、連れてこられたんだけど」
勇介の言葉に黒崎はようやく気付いて顔のパックをぺりぺりと剥がし始めた。
「どうして、暗闇でオペのビデオ見ながら顔面パックしてるんです?」
それにしても人騒がせ、且つ不可解な黒崎の行動に、イラついた声を出した。正直言って、さっきは本当に心臓が止まるかと思ったのだ。
ムッとする勇介に、黒崎はようやくパックを剥がし終えるとしれっとして言った。
「電気つけると画面が反射しちゃって、糸の痕跡が見づらいのよ。それとパックはこれから練習に使う皮膚の代わり」
黒崎は、桂院長の執刀したビデオを見ていたのだと言った。
「コレは患者のプライバシーの件があるから、院外への持ち出しは禁止されているのよ」
肉色の画面に目を向けて、勇介はハッとした。
「これって、幼児の皮膚移植のビデオじゃないですか!」
スッピンの黒崎は、少女のような笑みを湛えて頷いた。つられて思わず微笑んでしまい、勇介は表情を引き締めると言った。
「黒崎先生、ボクにも見せてください!」
「いいわよ。なんなら、ちょっと縫ってみる?」
そう言って黒崎は、院長室の冷蔵庫から銀色のトレイを出してきた。中には骨付きの鳥モモ肉が入っている。
「コレを見ながら、鳥モモの皮の部分に剥がしたパックを縫い付ける練習をするの」
「へえ、研修医のときは色々な素材の布とか縫ったけど、形成外科は本格的なんだな」
確かに(鳥だけど)本物の皮だし、ぺらぺらしたパックは切れやすいところが皮膚に良く似ている。勇介は差し出されたピンセットと針を受け取った。
「あなたの筋書きでは、ボクは一ツ木さんよりうまくやらないといけないんでしょう?」
彼の言葉に黒崎女医はニッと白い歯を見せて言った。
「あたしの為に頑張ってくれるのは嬉しいけど、基本はあくまでも患者の為よ」
鼻の頭を細い指先でチョンとつつかれて、ドキリとした。動揺を隠すようについついぶっきらぼうな言い方になってしまう。
「だ、だれがアンタの為だなんて! 自信過剰もいいかげんにして欲しいね」
またケンカ腰みたいな言葉が勝手に滑り出し、慌てて口をつぐんだ。
黒崎は一瞬こちらを見て固まったが、何も言わずに目を逸らせた。
少々気まずい空気になってしまったところに、倒れていた宮下が息を吹き返した。彼はふらふら立ち上がり、勇介から黒崎へと視線をさまよわせた。
「宮下くん、驚かせちゃってゴメンね」
ふふふと笑う黒崎をぼんやりと見ている宮下に「コールが来たら呼んでくれ」と言い含めて、その後一時間ほど鳥モモ肉を相手に縫合の練習をした。
気まずかった空気も、作業を始めた途端に全く気にならなくなっていた。少なくとも勇介は……
黒崎はなかなかの腕前だったが、やはりビデオの中の桂院長の比ではない。
(どうやったらあんなにキレイに縫えるんだろう?)
練習が終わっても、ずっとそんなことばかり考えていた。だから、一階の医局に降りる階段で、急に黒崎から声を掛けられた時、彼女が何の事を言っているのか、全くわからなかった。
「北詰先生、さっきの女の子が……?」
「え? 女の子?」
すっかり縫合の事で頭がいっぱいだったので、歩のことを言われているのだと気づくのに、しばらくかかった。
沈黙状態の勇介に、黒崎はスッピンの顔で寂しそうに微笑むと「なんでもないの」と言って階段を降りてゆく。
歩を嫁だとでも思ってくれたなら、それはそれでこちらにとっては好都合だった。黒崎だけでなく、しつこくアプローチしてくる女性スタッフを遠ざける、絶好のチャンスだ。
けれども……
暗い階段で、何故だか彼女の背中が小さく見えて、勇介は心がぐらぐらするのを感じた。
(本当の事を言おうか……?)
そんな事をふと思ったとき、救急車のサイレンを聞いた。
「北詰先生、急がないと!」
「あ、ああ……」
走り出した黒崎の後を追いかけて、勇介は救命の入口に急いだ。




