「心の器があふれるとき―1」
たいした重傷者も無く、本日の勤務は比較的落ち着いていた。勇介は仕事の合間をぬって黒崎から借りた本に何度も目を通した。
皮膚移植にも色々な方法がある。傷口近くの皮膚を引き伸ばして覆う方法を局所皮弁という。あまり大きな傷でなければこの方法は一番傷痕が目立たないし一般的だ。ただ、今回の場合は移植箇所が広範囲だし、患者も赤ん坊ということで体が小さい。健康な皮膚を引き伸ばすのは無理だ。かといって、どこかから採取するにしても、非常に難しい事がわかってきた。人工皮膚を移植する方法や、ごく一部の皮膚を採取して、それを人工的に培養してから使用する方法も検討するべきだろう。
「皮弁法だと健康な皮膚を採取する時そちらに傷が残る。でも、やはり自分の皮膚でないと定着が悪いし感染症の問題もある……か」
ブツブツと独り言を言っていると、ヒールの踵を鳴らして医局に黒崎が入ってきた。
「さっそく読んでくれているんですね。なんだかんだ言っても、やっぱり私が見込んだだけあるわね。ヤバイ、本気で好きになりそうよ」
上機嫌で「うふふ」と笑う黒崎に、冷たい流し目を送る。
「別にあなたに気に入られたいなんて、これっぽっちも思っていません。あくまで自分のスキルを上げる事と、患者の為です」
「冷たいのね」と言って、黒崎は隣の空き机に直接腰掛けて足を組んだ。スカートの裾からチラリと白い太腿が見えた。
いったい何を考えているのだろう。挑発しているつもりだろうか?
「机に座るなんて、行儀悪いですよ」
そう言って彼女の顔を見上げると、黒崎の目は廊下のほうへさまよっていた。ちょうど背の高い男性医師が通り過ぎたところだった。
(ふ~ん)
勇介は背の高い医師の後姿を目で追った。
外科主任の一ツ木は、廊下で医局長の佐竹を捕まえてなにやら話をしていた。
「ボクには好きとかセックスしたいとか言えるのに、あの人には言えないんですね。黒崎さんって意外とウブいんだな」
今朝の逆襲のつもりで、ここぞとばかりに一撃をお見舞いしてやったつもりだったが、敵は手ごわかった。
「あたしは相手を選んでモノを言ってるのよ。浅川くんあたりに言ったら、レイプされそうだしね」
さらりと攻撃をかわされてしまい、思わず笑ってしまった。見事にはぐらかされた。
丁度その時机の中で携帯が鳴ったので、黒崎に断りを入れて席を立った。切れた携帯の着信名義を見て驚いた。
(あーちゃん?)
彼からメールでなく電話が掛かってくるなど今まで一度も無い。病院では持ち歩いていないのを知っているからだ。
(何かあったのか?)
嫌な予感がする。
フロアの端っこで電話を掛ける。背中に黒崎の見ている気配を感じた。
電話に出た歩は、かなり気が動転している様子だった。
「落ち着いて話してごらん」
歩は何度もしゃくりあげながら言った。
『渚……熱……ママって呼んでで……。昼寝から起きなくてさ……ひっく……ぐったりして……それで……』
要は発熱して意識が無いのだろう。そう判断して、至急タクシーでこちらに連れてくるように言った。
「救命の入口で待ってるから。大丈夫だよ、あーちゃん。ボクが付いてる」
フウとため息を吐いて電話を切ったとき、背中に痛いほどの視線を感じてドキリとした。
「な、なんだよ」
黒崎と男性看護師の宮下がじっとこちらを見ていた。
「先生、あーちゃんって誰ですか?」
宮下が険しい顔で尋ねた。なんでそんな、おっかない顔するのか、意味がわからない。
「え……誰って……?」
言い澱むと、黒崎が目を細めるようにして言った。
「『大丈夫だよ、ボクが付いてる』……なんて、聞いた事も無いくらい優しい言い方ね」
「関係ないでしょう!」
荒っぽく言い捨てて救命の入口に向かった。五メートルほど離れて、興味津々の二人がついて来たが、勇介は無視した。
(歩と渚は家族だ。それを心配して何が悪い! なんならあいつらに自慢の家族を紹介してやってもいい)
ところが、救命の入口に現れた歩を見た勇介は、我が目を疑った。
「あ、あーちゃん? 何故に……?」
いったいどうした? 歩!!!




