「ぼくらのゆくえ―10」
数時間の仮眠の後、あたふたと病院へ戻った。あのオペは、いったいいつ頃の執刀なのかわからないが、桂本人に聞きたい事が山ほどもあった。
勤務時間前だったが、失礼を承知で院長室の扉を叩く。
なんとドアを開けたのは黒崎だった。今日は白衣姿だ。
「あ……」
気まずい思いでペコリと一礼して、小声で言った。
「あの……昨日は、すみませんでした」
彼女は口をへの字に引き結んで体をずらすと、中へ入るように手だけで合図した。院長室に足を踏み入れた勇介は、その場で固まった。
「一ツ木主任」
桂院長と差し向かいでソファに腰掛けているのは、外科の一ツ木主任だった。彼はチラリとこちらを見たが、すぐに桂の方に向き直った。
「し、失礼しました。また後で伺います」
勇介が慌てて退室しようとすると、桂が呼び止めた。
「待ってよ。北詰くんにも、ここに居て欲しいんだよね」
勇介は躊躇いがちに一歩踏み出した。室内には、木目のテーブルを挟んで二人掛けのソファが向かい合わせに置かれている。院長の隣に黒崎が座ってしまったので、勇介は必然的に一ツ木の隣に座る事となった。なんだか緊張する。
室内には、心なしか重苦しい空気が充満していた。
何の話をしているのかと、あれこれ思いを巡らせていると、一ツ木が言った。
「院長は北詰先生を特別扱いするつもりなんでしょうか?」
なんでいきなり、オレが……?
名前を出されて居心地が悪い。座った状態でもぞもぞしていると、桂がこちらを見ながら言った。
「特別扱いなんてしないよ。ただ、良い機会だからね。お互いのスキルを高めあうのも医師として必要な事だと考えている。軌道に載れば、この病院全体に広げてゆこうと思っているんだよ」
「少し、考えさせてください」
一ツ木は言うなりスッと席を立った。勇介もつられて立ち上がりかけたが、黒崎の白い手が伸びてきて腕を掴まれた。
一ツ木は、勇介の腕を掴む彼女の指先に目を走らせたが、そのまま何も言わず一礼して院長室を出て行った。
彼が出て行った後、桂は大きくため息をついてテーブルの上のタバコに手を伸ばした。黙って見ていると、桂はバツの悪そうな顔で言った。
「ちょっと、時期尚早だったかな。……申し訳ない」
「何のことですか?」
問いかけると、黒崎が言った。
「今回の愛ちゃんの皮膚移植に関して、救命と外科の正式なプロジェクトとしてやってみようって、提案だったの」
「プロジェクト?」
正式に企画として進める事で、この件に関する勇介の拘束時間帯には、別の医師を配置する事が出来るし、外科と救命の連携にもつながるのではと考えたらしい。
「これを機会に、お互いの専門分野を指導しあったり出来れば、さらに一石三鳥だったんだけどね」
そう言って、桂はペロリと舌を出した。
「一ツ木主任の専門って、何ですか?」
勇介の言葉に黒崎はアイラインをバッチリ引いた目を大きく見開いた。
「知らないの? 一ツ木先生は叔父さまの……桂院長の一番弟子なのよ」
桂が『叔父さま』というフレーズで咳払いをした。
「じゃあ、形成外科医なんですか?」
「そうなんだが、彼は器用な男だからね。もっと勉強してほしくて、数年前から通常の外科医としてやってもらっている」
(だからか……!)
ようやく納得した。皮膚移植は形成外科医の専門だ。そのプロフェッショナルの一ツ木を差し置いて、オペの指名がよりによって救命の自分に来たから、周りがあんなにピリピリしていたのだろう。
はあ……
ため息を吐くと、黒崎が労るような目を向けてきた。
「まあ、プロジェクト云々はココにいる偉い人に任せて、私たちは愛ちゃんのオペに全力で当たらないと。いい加減な執刀は許されないって事、これでわかったでしょう?」
重い足取りで院長室を後にすると、隣に並んだ黒崎に、グチともつかない言葉を投げつける。
「あなたは知ってて、ボクに「やれ」って言ったんですから。……本当に性格悪いですね」
いつもの彼女ならきっと目を吊り上げただろうが、今朝は違った。
「北詰先生には申し訳ないと思ってるわよ。でも、この大役をこなせるのは多分あなたしか居ない」
「え……?」
彼女は一階の救命フロアには降りずに、屋上への階段を上がってゆく。勇介も黙って彼女について行った。
屋上の鉄扉を開けると激しい雨が降っていた。
「あちゃー、雨か……」
黒崎は慌てて扉を閉めると、階段に腰掛けた。勇介も並んで座る。
「一ツ木先生ってね、あんな風じゃなかったのよ」
そういえば、二人は桂の下で一緒に勉強していた時期があったと浅川から聞いている。
「外科の責任者に抜擢されてからなの。彼、本当に腕が良いから無理も無いけど。天狗になっちゃって」
「そうは見えないけど?」
一応言ってみたが、頷ける事だと思った。ある程度まで極めると、そこで慢心して性格が変わってしまう人間は多い。楽な方へと流れるのは、決して悪い事じゃない。
「刺激が足りないのよ。あの人は、一ツ木先生はもっと出来る人なの。だけど、彼の興味を惹くような医師が今まで居なかったから」
一ツ木を擁護するような黒崎の発言に、何だかムカついてきた。
「……ボクは、当て馬ですか」
黒崎はハッとしたように顔を上げたが、聞こえなかったふりをして言った。
「とにかく、一度彼の長い鼻をへし折ってやる必要があると思うの。北詰先生が一目置かれるようになれば、救命の言い分だって皆、無視できなくなるわ」
「それで、もしボクが期待に添えなかったら、どうするんですか?」
黒崎はちょっと考え込むような顔になったが、にやっと笑って言った。
「その時は……S大病院時代に戻ったと思って、皆の嫌がらせに一人で耐えてください」
彼女の言い草に、開いた口が塞がらなかった。冗談もここまでブラックだと何も言えない。バカみたいに口を開けていると、黒崎は妖艶に微笑んで、子供をあやすように勇介の黒髪をくしゃっと撫でた。
「大丈夫よ、二人で頑張りましょう。救命と外科の風通しを良くするのが最終目的ではあるけれど、オペはあくまで愛ちゃんの為。そうでしょう?」
風通しが良くなりすぎて、全ての秩序がぶっ壊れるんじゃないかと、かなり心配になってきた。
(何考えてるんだよ、この女……)
「何だかワクワクしてきたわ。さ、仕事しましょ」
ふわっと甘い香りをふりまいて黒崎は立ち上がった。
(ひょっとしてオレ……いいように手玉に取られてんじゃねぇか?)
ノロノロと階段を降りてゆくと、先をゆく黒崎が振り返って手招きした。
「早くしないと申し送り始まっちゃうわよ」
急かす彼女を睨み付けて、心の中で誓う。
(この女、いつか絶対泣かしてやる!)




