等速直線運動の恋
今朝、母さんから電話があった。今朝、と言っても十時半なので朝と言っていいかどうか微妙なところだ。ともかく、僕は寝ていたのでそれをとり損ねた。取り損ねた家族からの電話に対して、折り返して掛けることは滅多にない。彼らはすぐさまその内容をメールにして送りつけてくるからだ。しかも、内容はたいして重要じゃないことのほうが多い。
目覚めた僕の携帯電話の待ち受け画面では封筒のアイコンが存在を主張していた。
――京子ちゃんが、結婚するんだって。
メールの内容はそれだけだった。まずはじめに、京子ちゃんって誰だよ、と思った。ひょっとしたら妹の友達かもしれない。だとしたら、妹に送れよと言ってやらないといけないだろう。僕はメールが嫌いだ。こうして意味不明の話が飛んできた時は特に。変化球を打ち損ねた気分になる。
ぼさぼさの頭をがしがしと掻いて、リダイヤルのボタンを押した。それに苦笑する。少し前に付き合っていた彼女と別れてからというもの、電話の相手はもっぱら母親か親しい友人だけだ。僕は大学二年生。そこそこには、この生活を楽しんでいるはずだった。
「なんなの、このメール。登子へ送るやつじゃないの」
挨拶も名乗りもなしに切り出した僕を、母親はいつもの調子で説教した。これじゃあ、詐欺師の方がまだ丁寧ね。とか言って。詐欺師と間違えなくていいじゃないかと言い訳したら、ようやく笑ってくれた。
「それにしてもいやだね、あんた。京子ちゃんのこと忘れちゃったの。小さい頃は毎日のように遊んでもらったのに、」
ほら、お隣の京子お姉ちゃんよ。
そうして僕は、「京子ちゃん」のことを思い出した。その「毎日」を思い返している間、母親は彼女の結婚に至るあれこれやら、新居のことやら、どうでも言い話を延々と喋っていた。
結構披露宴の招待状が僕にも来ているらしい。自分で出すから下宿先に転送するように頼んだのだが、金がかかる(と言っても、彼女が負担するのは八十円程度だ)という理由で断られた。今すぐじゃなくてもいいから返事をしなさい、と。自分で返事をすると申し出た僕を奇妙に思っている様がありありと目に浮かんだ。たしかにそうだ。ただ「行く」か「行かないか」を伝えて、あとの作業は任せればいいだけなのに。
「行くよ。バイトのシフトもまだ入れてないし。しばらくそっちにも帰ってないし」
「そう。せっかくだから金曜の夜には着くように調整したら。それから、月曜は授業が無いんでしょう? ゆっくりしていきなさいよ、」
「厭だよ。長くいれば居るだけ愚痴を聞かされる。愚痴は登子にしろよな」
妹の登子は高校三年生なので、まだ実家住まいだ。僕はといえば、実家から遠く離れた地方の国立大学へ進んだ。どこの大学にもある理系の学部学科を選んだので、なんでわざわざそんなところへ行くのかとみんなに不思議がられた。ただ単にここしか受からなかっただけの話なのに、人はそこにドラマを見出したくなるらしい。
「登子は受験生だからぴりぴりしてるのよ。オバサンの愚痴なんか聞いてる暇なんて無いのよ、ってね。正二は毎日暇なんでしょう。たまには電話を寄越しなさいよ。話を聞いてくれる相手がいなくて、ストレスが溜まりっぱなし」
僕はわざとらしくため息をついた。わかったよ、それじゃあ、また、近くなったら電話するよ。
「三ヵ月後だからね、披露宴。出席するって言ったからには忘れないでよ?」
そうして、会話は終了だ。思いやりがなかったかな、と数秒間だけ反省する。母親の愚痴に相槌を打ちながら優しく聞いてあげられるほど、僕は大人ではなかった。
今日は午後から学校だったけど、出席する気はうせた。今日の授業は実習科目なので休んでいる場合ではないのだけど、どうしようもなくセンチメンタルな気分に押しつぶされてしまった。京子ちゃんのことだ。どうして今まで、彼女のことを忘れていたのだろう。
◆
京子ちゃんは、隣の家の大学生のお姉さんだった。その頃の僕にとって、大学生とは未知の生き物で、なにやら頭よさげな生き物である、ぐらいの認識だった。自分がこの歳になって、大学生という存在の多くはたいして頭が良くないことも、馬鹿であることも、子どもであることもよくわかった。少なくとも僕はそうだった。いかにして可愛い女の子と出会ってベッドまでいくか、とか、テストやレポートを最小限の労力で切り抜けるにはどうしたらいいか、とか、そんな目先の・小手先のことであっぷあっぷしている。その点、京子ちゃんはたしかに一風変わった大学生だったのだろう。
小学生の僕と登子は、学校が終わるとまず京子ちゃんの家に行った。我々の両親は共働きなので、保育所的な意味も含めて預かってもらっていたんだと思う。京子ちゃんは帰っていないこともあったけど、奥さん(彼女の母親)はいつでもその家にいて僕ら兄弟を招きいれてくれた。
京子ちゃんは本の蒐集家だった。それも、驚くほどの量の。彼女の家は住宅街の家にしてはなかなか大きかったが、その一間を使っても入りきらず、別にもう一つのプレハブ小屋に蔵書を保管していた。(僕が知らなかっただけで、他にも保存場所があったかもしれない。)その内部というのも、本が本棚を形成している有様で、一度そこへ仕舞ってしまえば二度と取り出すことは叶わないようなカオスだった。それは本というコンテンツを愛する人にとっては邪道な保存方法なのかもしれないけど。それはどうでもいい。
彼女の部屋には本ではなく漫画がズラリと並んでいた。僕は、それを目当てに彼女の家に通っているフリをしていた。
僕が漫画を読んでいる一方、登子は京子ちゃんの妹である弘子さんに遊んでもらっていた。弘子さんは短大生で、京子ちゃんよりもたいてい帰りが早かった。
「おお、また来てるね、オチビさんたち」
弘子さんはそう言って、嬉しそうに登子を抱き上げた。
「正二はまた漫画読んでるの。あんまり読むと京子みたいに目ェ悪くなって、眼鏡かけるようになっちゃうからね」
「いいよ、別に」
彼女がそう忠告するのも京子ちゃんが、無粋としか言い様のないデザインの眼鏡をかけていたからだ。瓶底眼鏡、とでも言うのか。僕は漫画に目を落として弘子さんを見ないようにしていた。弘子さんは登子を抱いたまま、片手で僕の髪をなでた。
「飽きたら庭においで。登子ちゃんとバレーボールやってるから」
「行かない。ここで漫画読んでる」
登子は足をばたつかせて、お兄ちゃんのことはいいから早く遊ぼう、と弘子さんにせがんだ。彼女はまた、嬉しそうに笑って京子ちゃんの部屋を去っていく。なぜだか、いつにも増して彼女は幸せそうだった。その背中を彼女に悟られないようにじっと見つめた。
弘子さんは信じられないほど綺麗なひとだった。奇跡だと思うほど整った顔は、テレビドラマに出てくる女優のようだと思っていた。長い髪はまっすぐでさらさらとして、シャンプーのいい匂いがした。施された化粧は、小学生男子でも美しいと思うほど見事でため息が出そうだった。細い手足に不釣合いなほどの丸みをおびた、豊かな胸元。細く白い、艶かしい指先。僕は彼女をまともに見ることができなかった。引きずられるように、喋ることもままならなかった。おそらく、僕は弘子さんに憧れていた。彼女が見たいから、毎日この家に来ていたのだと思う。思う、というあやふやな言い方をするのだから、当時の僕はこの憧れを女性に対する憧れとして認めていなかったのだ。高校生になるまで歳の近い女の子を好きになれなかった理由も、ここに原因があるのかもしれない。
しばらくそうしていると、京子ちゃんも帰ってくる。京子ちゃんが帰ってくると、それを合図にするように登子は家へ帰った。
彼女の部屋で漫画を読む僕を見て、京子ちゃんはただいま、と低い声で言う。
「今日は何読んでるの、おチビ」
背表紙を見せた。
「ああ、それ。それ、表紙は可愛らしいけど中身は結構エロいでしょう。あんたまさか私の部屋で抜いてないでしょうね」
抜く、の意味がわからなかった。わからなかったので首を横に振った。彼女の前では、少々エロチックな漫画を読むこともちっとも恥じゃなかった。
彼女は楽しそうに笑って、僕の隣、ベッドにばふんと腰掛けた。
「そうか、あんたまだ種を作れないわけね」
種? それまたわからなくて眉をひそめた。彼女は(今思うと解読できるけど)暗号めいた単語ばかりをぽんぽんと飛び出させるので、難しく聞こえたものだった。
彼女が帰ってくれば、僕は漫画を読むのをやめた。別に楽しくて読んでいるんじゃないから、別に構わなかった。
「ねえ、今日は何を勉強してきたの」
「あんたにわかる話じゃないよ」
「じゃあ、いつもの話でいいや」
京子ちゃんは大学で物理学を専攻していた。物理学だなんて小学生の僕には遠い話だったけど、この話題に限っては面白く・わかりやすく話してくれた。楽しくて仕方がなかった。そんな具合で、京子ちゃんとは何の支障もなく話すことができた。
京子ちゃんはありとあらゆるところで弘子さんとは正反対だった。短い髪はぱさぱさで真っ黒、しかも母親に切ってもらっているとのこと。弘子さんの方は、何万円もかけて都会の美容室に通っているらしい。
化粧ッ気もなく地味な面立ちで、そばかすも隠そうとはしない。妹の方は百貨店の化粧品売り場の常連だと言うのに。そのうえ、不恰好な眼鏡をかけているせいで目は数段小さく見える。弘子さんのような女らしい体つきではなく、ガリガリに痩せていた。鞄は綿製のトートバック、角には赤ペンのインクの染みあり。無造作に教科書やらなにやらを突っ込んでいるせいだ。極めつけは、どうしようもなくセンスのない服装だった。僕でさえ、彼女の救いようのないダサさは見抜いていた。比較対象である弘子さんが洗練されすぎているのかもしれなかったが。二人の金の使い方さえも――美容か本かで――明確な違いがあったのだ。
「じゃあ、まずは問題からね、」
彼女の「授業」は、まず物語から始まった。
「今日は私と弘子が主役だよ。さあ、想像して」
僕は目を閉じた。瞼の裏で、京子ちゃんと弘子さんは仲良く手を繋いでいた。
「私と弘子は、NASAの見学をすることになりました。NASAをうろちょろしていると、なんと私は、金髪で青い目のステキな宇宙飛行士にプロポーズされてしまいましたとさ。彼は『宇宙で結婚式を挙げよう』と、空を見上げていうのです。彼があんまりステキだったから、私は弘子のことを忘れて彼と一緒に宇宙船に乗り込んでしまったのです。宇宙船は光の速さで――まあ、そんなに早くなくてもいいんだけど――地球から飛び立っていきます。やがて私と彼は、遠い宇宙の真ん中で愛を誓い合うと、宇宙船はUターンして帰ってきました」
特殊相対性理論の話だな、と察しをつけた。この後に続く問題とその答えも、容易に想像がついた。
「帰ってきてみると、弘子はなんと、NASAでずっと私の帰りを待っていたのです。彼女は言いました。『やっと帰ってきてくれた』。こうして、私と弘子は抱き合って再会を喜んだのでした。しかし、ある異変に気付きました。さて、ここで問題です」
京子ちゃんは頭の後ろで腕を組み、壁に寄りかかった。千円でも買えそうな安っぽいチノパンに包まれた足は、マットレスの上できゅっと交叉されている。
「わかってるよ。再会したとき、どっちが若いかって話でしょ?」
「ご名答」と、京子ちゃんはニマニマして言った。
「京子ちゃんの方が若かった。そうでしょう?」
「そうかな? 忘れたの、『動く時計はゆっくり進む』、でしょ」
はた、と僕は気が付いた。
「そうか、京子ちゃんからすれば、弘子さんの方こそが動いてるんだ。じゃあ、弘子さんのほうが若い。あれ、……でも、弘子さんから見れば京子ちゃんは動いてるし……?」
処理できない矛盾に混乱して、頭を抱えてしまった。そんな僕を面白そうに眺めているのだから、京子ちゃんは性格が悪い。
「双子のパラドックス、だよ」
京子ちゃんと弘子さんは二卵性双生児だった。先に述べたように、似ていないけど。それが京子ちゃんにとって、コンプレクスでなかったはずない。どんなに自分の外見に無頓着であろうと。僕はそんなデリケートな問題に考えは及ばなかったけれど。
「……というわけで、私のほうが若い、が正解でしたぁ」
なにやら複雑な(はずの)説明を簡単に済ませた京子ちゃんは、膨らんだ僕の頬をかさかさの指先でつついた。
「ずるいよ、引っ掛け問題じゃないか。変なつっこみ入れてさあ! 最初の答えで合ってたのに、」
「でももう間違えない。そうでしょ?」
僕は黙り込んだ。彼女はバフンと横向きにベッドに倒れこんだ。その弾みで、こちらの尻の辺りがゆあんゆあんと上下に揺れた。
「……なんてね。馬鹿みたいな例え話だよ。我ながらアホらしい」
急に塞ぎこんだ彼女に焦って、僕は不貞腐れるのをすぐにやめた。
「どうして。面白かったよ」
あのさあ、と京子ちゃんは目の辺りに手を当てて言った。
「弘子、春に結婚するんだよ」
そのとき僕は、どんな反応を返しただろうか。たぶん、へえ、とか、ふうん、とか、そんな感じだったと思う。覚えていないから、気がきいた言葉を言えなかったんだろう。
弘子さんは短大の二年生だった。その夏、姉妹でハワイに出かけたそうだ。弘子さんはハナウマ湾とやらでオーストラリア人モデルと恋に落ちたとか。その彼からのプロポーズのお電話が、二人の誕生日である昨日、あったそうな。なんてドラマチック。
「その男、ビックリするほど綺麗な金髪と青い目で……そう、その漫画の主人公みたいな感じ」と、僕がさっき読んでいた漫画の二巻を示した。「まさに、絵に描いたような王子様だよ。弘子にぴったり」
そうだね、とかなんとか言って頷いた。
「私はこれからどうなるんだろう。ずっと一人だったらどうしよう。大学もまだ二年もある。卒業したら働いて、それから、こんな私を誰が好きになってくれるんだろう。本当に、光の速さで宇宙へ飛んでいきたい。……等速直線運動で」
僕にとって、彼女のこの言葉の意味を解くのがいちばん難しかった。このとき、頭の中の大部分を占めていたのは、憧れの弘子さんの結婚のことではなくて、泣きそうな声で不安を表している京子ちゃんのことだった。
そんな僕から飛び出た咄嗟のでまかせを、彼女はひどく喜んでくれた。もちろん、本気でないことなんて見抜かれていただろう。そう、僕はあの時彼女に言った言葉を、今の今まで忘れてしまっていたんだ。
◆
そんな京子ちゃんが結婚するのは、とうとう明日に迫っている。僕は着慣れないスーツを抱えて新幹線に乗った。あのメールが届いた三ヵ月後の金曜の夕刻のことだ。
京子ちゃんは大学卒業後、専門学校へ進んだ。ブライダルプランナーになりたいんだ、と聞いたときは驚いた。垢抜けない格好で漫画を見て本を読み、物理学に目を輝かせていた彼女がどう転がってそんな結論を下したのかはようとして知れない。
彼女が大学を卒業したのと重なって、僕は(たいして優秀でもない、学費が高いだけの)私立の中学校に進学した。それからめっきり疎遠になって、彼女のことはすっかり忘れ去っていった。いや、中学受験勉強を始めた頃からすでに遊びに行かなくなっていたはずだ。ご近所さんだから、母親は時々姉妹の情報を入手してきては夕飯の席でべらべらと話していたが、無関係の過去の人となっていた。
専門学校を卒業した彼女の悲願は果たされず、ブライダル系ホテルの花屋でアルバイトとして生計を立てていたそうだ。そこに運命の男現る、ってか。あれから少しは綺麗になったのだろうか。身だしなみに気を遣うようになったのだろうか。その答えは、明日の披露宴でわかるだろう。背もたれを倒して、そっと瞼を閉じた。浮かんでくるのは、仲良く手を繋いでいる、あの日の京子ちゃんと――そして僕だった。
実家に着くと、胡散臭そうな表情の登子が僕の全身、上から下までに目を走らせた。チェックが済むと、失礼だと責めることができそうなほど明らかに顔を顰める。
「童貞くさっ」
帰省のたびに毎度発せられる妹の罵りを、軽く流す術は覚えた。身内からしたら、どんなに頑張っても「カッコいい・可愛い」にはならない。こっちだって、「自称モテ系」の登子を可愛いなんて思ったりしない。指でくるくると毛先を巻く仕草は、登子がするならば、不快以外のなにものでもない。
不穏な雰囲気を感じたのだろう、父さんがタイミングよく夕刊をめくる。そこに、サラダの大鉢を抱えた母さんが登場した。
「あら、正二。帰ってたの。連絡しなさいよ、言ってくれれば駅まで迎えに出たのに、」
いいよ、べつに。と言おうと思ったのに、登子の苛立った文句に飲み込まれてしまった。
「ああ、サラダにドレッシング入ってる! あれほど入れないでって言ってるのに。ダイエット中だって言ってるでしょ!」
母さんは台所(と言っても、ダイニングキッチンなのですぐそこだ)から怒鳴った。
「ドレッシングが気になるんなら、そのへんを走ってきなさい! 運動しないで何がダイエットよ。勉強の息抜きにもなって一石二鳥じゃない。それから、お米も食べなさい。お米は食べても太らないんだから」
「炭水化物は太るから厭だって言ってるでしょ! この前見た映画、炭水化物は太るって言ってたもん!」
女の戦争を目にするとげんなりしてきたので、自室へと引っ込むことにした。父さんもアレでは大変だろうな、と他人事だからこそ思う。
部屋に入るのは久しぶりだというのに、空気は妙に清清しかった。帰ってくるからといって、母さんが掃除をしたのだろう。時々気味が悪いほど息子に尽くすのが母親というものだ。少なくとも我が家の場合、娘である登子よりは息子である僕のほうが丁重に扱われている気がしないでもない。遠く離れている、というのもあるだろうが。
倒れこんだベッドのふとんは、ふかふかとして温かかった。干された布団の感触だ。
その格好のまま、本棚におさまっている一冊の本に手を伸ばす。『物理学への招待』、中学の合格祝いに京子ちゃんが贈ってくれた本だ。ズイブン古かった。そう、僕はあのとき、明らかにそこへ招待されたのだ。
翌日の披露宴は、僕と登子と母さんが出席した。登子は露出度の高いキャミソールのドレスを着てご機嫌麗しいが、それを快く思わない母さんはご機嫌斜めだ。登子がボレロを脱がないように、何度も言い聞かせている様には辟易した。こんな骨ばった小娘に欲情する男なんていない、断言する。
エントランスホールではご家族――つまり、弘子さんに会った。たしかにあの頃に比べて歳はとったけど、相変わらず美しかった。彼女を差し置いて妙なタレントを起用するテレビ局はなにしてるんだ、とも思った。彼女の旦那さんもそこにいて、余りの神々しさに息をのんだ。登子ときたらはしゃいで弘子さんに抱きつき、旦那さんにはめちゃくちゃな英語を披露する。(そういえば、登子は国際、特に英語系の学科を希望していた。)
我々はテーブルへと案内された。披露宴に参加するたびに、見事な装飾だと毎回思う。京子ちゃんはこの仕事がしたかったのか。そう思うにつけ、ことさら感慨深い。披露宴は初めてではなかったけど、いやに緊張する。野郎の、とくに馴染み深い友人の新郎姿なんて滑稽でしかないけど、あの京子ちゃんの花嫁姿だ。楽しみである反面、余計なお世話だろうけど、心配でもある。
そうこうしているうちに、会場のライトが落ちた。アナウンサーのような喋り方をするMCが、「それでは、新郎新婦のご入場です。」と宣言した。
戸はゆっくりと開かれる。青っぽい白の光が奥から差し込んでくる。逆光で二人の姿は見えない。ワーグナーが――なんという曲かは忘れた――流れる。割れるような拍手が会場を包んだ。登子なんて足をばたばたさせながら喜んでいる。
そして、ついに、彼女は可視の光のもとへ現れたのだ。
京子ちゃんは、真っ白なウェディングドレスに身を包んでいた。晴れやかで、正しい白に。
僕は下唇を噛まずにはいられなかった。ああ、どうして、京子ちゃんという女性の在り難さに気付かなかったんだろう、と。胸がいっぱいで、手さえ叩けなかった。涙を零さないようにするだけで精一杯だった。彼女はとても、いや、とてもどころか、「信じられないほどに」幸せそうだった。
これは、ちょっとした知人に対するありがちな感傷だろうか? 違うだろう。でも、ありがちであることには違いない。そう、初恋の人が結婚してしまうという、感傷だ。
宴が盛り上がって、というよりは、各々が好き勝手にし始めてしばらく経った頃。新郎の友人代表らが、ヘタクソな歌を陽気に歌っていた。踊りながら陽気に歌うものだから、客はみんな箸を止めて彼らに見入って手拍子を打っていた。もちろん、母さんと登子もそれに夢中だ。その隙に僕は席を立った。京子ちゃんに直接のおめでとうを言うためだ。
具合のいいことに、新郎は席を立って友人らのパフォーマンスを鑑賞していた。
「京子ちゃん、おめでとう」
「玉座」につく彼女は、真正面に立った僕を見上げた。
「へえ、正二、いい男になったね」
それを言うなら、貴女こそいい女になった。でも、それを言うのは野暮だ。
「ああ、せめて十年早く生まれていたらよかったな、」
子どもらしい、冗談だ。京子ちゃんは「かかか」とかすれた声で笑った。やっぱり、僕の好きなところは変わっていない。むしろ、あなたは別に、美しくなんかなっていない。何も変わっていないんだ。
「そうしたら、あんたは弘子にぞっこんだったね」
「あの頃の話じゃないよ。今の話、」
「へえ、面白いじゃないか」彼女はユーモラスに口角を上げた。
「もし、僕が十年早く生まれて、ここに立っているとしたら。京子ちゃんを奪うことができたのに」
彼女はひょっと首を突き出した。たぶん、驚いたのだろう。僕だって驚いている。
「……逆だよ、」
「え?」僕は間抜けにも聞き返していた。
「光の速さで進む宇宙船があれば――ここは光の速さじゃなきゃダメだね――、私はそれに迷わず乗るよ、一人でも。頃合を見計らって、Uターンして帰ってくる。そうしたら、アンタは私を抱きしめてくれる?」
「もちろん。何年でも待つよ、あなたがそうしたいなら」
もちろん、今でもいい。でも、ここはあなたの美学に従おう。冗談だとしても。
京子ちゃん、僕と結婚しよう。
その言葉は、盛大な拍手に消されてしまった。それでいい。
等速直線運動なんだ、初恋ってやつは。たぶん、互いに。だから、二度と交わらない。
◆
席に戻ると、登子がいきなり振り向いた。
「元気だしなよ、正二」
なんで今それを言うんだ、聞くまでもなかった。登子は知っていたに違いない。僕さえ意識しなかったあの頃のこころに。参ったな、女の勘には敵わない。
登子の慰めの手のひらがスーツ越しに背中に触れた時、僕は初めて、恋に涙したのだ。
memo
「双子のパラドックス」についての参考資料は『〔図解〕相対性理論と量子論』からです