第11話 信じられる隣を選ぶ
窓辺のマーガレットが、朝の光を受けて揺れていた。
母が毎朝替えてくれる白い花。名前を知ってから二週間ほど経つが、知ったからといって花の世話が上手くなるわけではなく、水を替えるのは相変わらず母の仕事だ。いつか自分で替えようと思いながら毎朝忘れるのは、単純に朝のほうが帳簿に向かいたい気持ちが強いからで、花に対して申し訳ないとは思っている。
その朝、身支度をしながら少しだけ緊張していた。
昨夜セバスティアンに「明日、お話ししたいことがある」と言われて「伺います」と返した。仕事の話ではないと彼は言い切った。仕事でないなら何か。答えの見当はついているが、見当がつくことと心の準備ができることは別の話だ。
髪を結い上げて皺のない袖を通した。ヴィクトルの書斎を訪ねた朝と同じ手順だが、あのときは事実を確認するために身なりを整え、今日は事実を受け止めるために身なりを整えている。同じ動作の意味がこんなに変わるとは思わなかった。
セバスティアンがデュヴァル侯爵家を訪ねてきたのは午前の早い時間で、まず母に挨拶をしたと使用人から聞いた。
ランベール侯爵家の当主がデュヴァル侯爵家の当主夫人に正式な挨拶をするというのは、商談の前触れにしてはずいぶん丁寧な手順だ。つまり商談ではない。母に先に通すということは、これから話す内容を母にも承知してもらうという意味であって、この律儀さがいかにもこの人らしかった。手順を踏む。確認を取る。それから話す。ヴィクトルが一度もやらなかったことを、この人は当然のようにやる。
応接間に通されたとき、セバスティアンはすでに席についていた。いつもの硬い表情がわずかに違うのは前日の食事の席で気づいていたが、今日はさらにもう少し違っていて、この人なりに緊張しているのだと分かった。ランベール侯爵が緊張するところを見るのは初めてかもしれない。
「おかけください」
「はい」
向かい合って座った。応接間のテーブルにはハンナの——いや、デュヴァル家のメイドが用意した茶器が並んでいる。紅茶の温度はハンナほど完璧ではなかったが、それでいい。完璧でないものに囲まれて生きていくのだと、最近は思えるようになった。
セバスティアンが口を開くまでに少し間があった。この人が言葉を選んでいるときの沈黙を、私はもう知っている。急かさずに待った。
「マルグリット嬢」
「はい」
「弟の離縁の件で、本家当主としてあなたに関わるようになったのが始まりでした。最初はそれだけのつもりでした」
「ええ」
「ですが、商会での仕事を見ているうちに、それだけではなくなりました」
セバスティアンは一度だけ視線を落としてから、まっすぐこちらを見た。
「あなたの隣にいたいと思っています。弟の元妻だからではありません。あなたという人の隣にいたい」
短かった。飾りがなかった。甘い言葉もなかった。この人は食べ物の比喩で言えばやっぱり干物であって、余分な水気を全部抜いた言葉しか出さない。でもだからこそ残った言葉の味が濃い。「あなたの隣にいたい」という一文にそれ以上の装飾は要らなかった。
紅茶のカップに手を伸ばして、止めた。手が少し震えていたからだ。離縁届を受け取ったときと同じ種類の震えで、頭より先に体が反応している。
「侯爵様」
「はい」
「正直に申し上げてもよろしいですか」
「どうぞ」
「怖いのです」
セバスティアンの表情が動かなかったので続けた。
「五年間信じていた人に裏切られました。信じることが上手だったのではなく、疑うことが下手だっただけかもしれません。また誰かを信じて同じことが起きたら、次は立ち直れるか分かりません」
口に出してしまうと怖さの輪郭がはっきりして、はっきりした分だけ楽になった。隠していたものを差し出す行為は、帳簿の不正を突きつけるのとは全然違う種類の勇気が要る。数字は客観的だが感情は主観で、主観を差し出すのは裸になるのに近い。
セバスティアンはしばらく黙っていた。この人の沈黙には種類がある。考えている沈黙と、言葉を選んでいる沈黙と、相手の言葉を受け止めている沈黙。今のは三番目だった。
「怖いなら、帳簿を見てください」
「帳簿?」
「私の行動を。言葉は信用できなくても、行動の記録は確認できます。私がこれまでに何をしたか、これから何をするか、あなたはそれを見て判断できる。帳簿管理者として」
可笑しかった。
求婚の返事を帳簿管理者として判断しろと言われたのは、たぶん人類の歴史の中で私が初めてだろう。でもこの人の言っていることは正しい。言葉は嘘をつけるが行動は嘘をつきにくい。セバスティアンが書類の受け渡しに毎回自分で来たこと、私が遅くまで仕事をしている日は帰らなかったこと、法務官の事務所にお茶を用意していたこと、取引先の前で私の功績を言葉にしたこと、焼き菓子の皿をこちらに寄せたこと。あの全部が帳簿の行だったのだとしたら、確かにそれは信用に足る記録だ。
「では」
紅茶のカップを持ち上げた。今度は震えていなかった。
「これからの帳簿を、一緒につけていただけますか」
セバスティアンの顔が一瞬だけ緩んだ。笑顔と呼ぶにはあまりにも短くて小さな変化だったが、この人がこれまでに見せた表情の中でいちばん柔らかかった。
「喜んで」
それだけだった。それだけで十分だった。
紅茶を一口飲んだ。温度はちょうどよかった。
応接間を出ると、廊下の向こうに母が立っていた。
偶然通りかかったという顔をしているが、この人が自分の家の廊下を偶然通りかかることはない。応接間の会話が聞こえていたかどうかは分からないが、娘とランベール侯爵が何を話すかくらいは察しがついているだろう。
「お母様」
「セバスティアン殿は」
「帰られました」
「そう。——あの方なら、帳簿を雑に扱うことはないでしょうね」
母なりの祝福だった。帳簿を雑に扱わない人間であることが、エリーズ・デュヴァル侯爵夫人にとっては最大の褒め言葉だ。この母にしてこの娘ありというのは、こういうときに使う言葉だろう。
「ええ、たぶん」
それだけ言って自室に戻った。
机の上に、新しい帳簿が一冊置いてあった。
母が用意してくれたものだ。革表紙の新品で、まだ一行も書かれていない。来季の商会の取引用だと思うが、今日という日にこれが置いてあるのは偶然ではないだろう。偶然ということにしておいてもいいが、この母娘のあいだに偶然は少ない。
表紙を開いた。白い紙が並んでいる。伯爵家の書斎で五年間書き続けた帳簿とは違う、何も書かれていないまっさらな頁だ。
ここに何を書くかは私が決める。誰のための数字を、誰と一緒に積み上げていくかを、今度は自分で選べる。
引き出しを開けた。ペルティエの礼状、ヴィクトルの手紙、離縁届の受理通知。三枚の紙が並んでいる。しばらく眺めてから引き出しを閉めた。捨てはしない。捨てるとなかったことになる。あったことはあったのだと認めた上で、引き出しの中に置いておく。開けなければ見えないし、見えなければ邪魔にならない。
新しい帳簿を机の真ん中に置いた。
窓辺のマーガレットが朝の光に揺れている。明日は自分で水を替えようと思った。今度こそ忘れなければいいのだが、たぶん忘れる。忘れたら母が替えてくれる。そういうものだ。
ペンを手に取って、新しい帳簿の最初の頁を開いた。
書くことはまだ何もないが、書く準備はできている。




