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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
最終章 森の娘
73/75

73.時を経ても残るもの

 二人は王城を後にした。

 王都の大通りを足早に抜けながら、エイは手帳にペンを走らせ続けている。メアはその半歩先を行き、雑踏の中でも周囲への警戒を片時も解かなかった。

 騎士団本部に着く頃には、正午をとっくに過ぎていた。

 ディートの執務室の扉を叩く間もなく、メアは中へ踏み込んだ。団長は椅子の背にもたれ、書類の山に埋もれていたが、二人の険しい面持ちを見るなり、わずかに眉を跳ね上げた。

「その顔は、厄介事の報告だな」

「王立書庫に二人、護衛を。理由は教養のためでも何でも構いません」

 メアは簡潔に事態を伝えた。ヴェルナーとの接触、グラムへの閲覧要請、そして地下遺構に刻まれた紋様。ディートは沈黙して聞いていたが、地下遺構の話に至ると、組んだ指に力がこもった。

「建国以前の遺構ときたか。随分と風呂敷が広がってきたな」

「団長。書庫の夜間警備は衛兵がたった一人です。石板と翻訳資料を守るにはあまりに心許ない」

「わかった。第一部隊から回そう。書庫長の許可は取れているな?」

「グラム先生は拒みません。邪魔さえしなければ」

 ディートが椅子から身を起こした。余裕の下に隠された鋭い武人の眼差しが覗く。

「お前たちは宿舎に戻れ。嬢ちゃんが一人で待ってる。若いの二人が付いているとはいえ、俺もどうにも落ち着かん」

 メアの足がわずかに速まった。扉へ向かうその黒い瞳が、一瞬だけ揺れる。脳裏をよぎったのは、朝の光の中で眠っていた横顔だった。

エイは団長に短く一礼し、風を巻いて歩く上官の背を追った。長い脚で追いつきながら、手帳を懐へしまい込む。

 本館から宿舎へ向かう渡り廊下を通り、食堂を過ぎ 

る。階段を登ると、廊下の先にビィの姿があった。メアの私室の前で、背筋を伸ばして立哨している。隊長の姿を認めると、その顔がぱっと明るくなった。

「お帰りなさい。異常ありません!」

「イーガは」

「交代で食堂へ。カナさんは、その……」

 ビィが少し困ったように頬を掻いた。

「ずっとお部屋にいらっしゃいます。朝食もお持ちしたんですが、あまり召し上がっていないようです」

 メアの足が止まった。一瞬、その瞳が沈む。だが、すぐに隊長の顔を取り戻し、ビィへ短く頷いた。

「交代だ。飯を食ってこい」

「はい!」

 ビィが敬礼して駆けていく。入れ替わるようにエイがメアの隣に立ち、声を落とした。

「隊長。今日の件をどこまで?」

「……必要なことだけ話す」

「アイベリアの件は」

 メアは扉の前で立ち止まった。

 アイベリア。彼女が親しんだ画師の故郷であり、森の傍らにあり続け、やがて歴史の砂に消えていった集落の名。それを告げることは、彼女が封印した真珠の木箱を、無理やり開けることなるのではないか。

 取っ手にかかったメアの手が、微かに躊躇うように止まった。

「……私から話しましょうか」

 エイの提案を、メアは短い否定で遮った。

「いや」

 それは、これが自分の役目であるという、静かだが動かしがたい決意の響きだった。エイはそれを聞き届けると、深く頷いて一歩身を引いた。

 メアは扉を叩いた。控えめに、二度。

 返事はなかった。

 もう一度叩こうとした瞬間、内側から微かな気配が動いた。足音というにはあまりに静かな、ただ空気の質が変わるような感覚。

 ゆっくりと扉が開いた。そこに、カナが立っていた。

 窓から差し込む午後の光を背負い、黒髪が柔らかな輪郭を描いている。卓の上の盆はほとんど手つかずのままで、窓辺の椅子だけが所在なげに引かれていた。ずっと、あそこに座っていたのだろう。

「戻った」

 短い一言だった。メアはそのまま部屋に入らず、入り口で立ち尽くしてカナの顔を見つめた。朝、寝顔を置いて出ていった負い目と、これから伝えねばならない現実の重みが、彼の足を縛っていた。

 メアはようやく言葉を絞り出した。

「……食事、まだだろう」

「一緒に食べる」

 カナのその一言で、メアの肩からわずかに力が抜けた。

 他人には判別できないほどの変化だったが、離れて控えていたエイには十分だった。副官は静かに踵を返し、食堂へと姿を消した。

 メアは部屋に入り、扉を閉めた。

 手つかずの盆を卓の中央に寄せ、向かいの椅子を引く。カナが静かに席に着いた。冷めたスープに、表面が乾き始めたパン。メアはそれを見て、自分の分がないことに今さら気づいたように視線を泳がせた。

「……俺のはいい。お前が食え」

 言いかけたその時、控えめなノックの音がした。

 扉を開けたエイの手には、湯気の立つスープと焼きたてのパン、それに彩り豊かな干し果物の盆があった。カナの冷めた食事も、手際よく新しいものへと替えられる。

「多めに用意しておきましたよ」

 エイはそれだけ言うと、影のように退室した。

 しばらくの間、部屋には食事の音だけが響いた。

 窓の外では王都の午後が緩やかに傾き、石畳の轍を転がる馬車の音が遠く響いている。メアのスープが半分ほど減った頃、彼は匙を置き、意を決して顔を上げた。

「石板のことで、わかったことがある」

 隣人に語りかけるような声だった。

「お前が言っていた、森の西の小さな集落。名前がわかった」

 メアは彼女の表情を一つも逃すまいと、じっと見つめる。

「アイベリア、という名だった」

 午後の光が、卓の上に長い影を引いた。

「アイベリア……久しぶりに聞いた」

 カナは、零れ落ちるような声で言った。その声に痛みはなかった。真珠が、彼女の悲しみを肩代わりしているからだろう。

「その集落の出身で、お前のところへ通っていた人間がいた。王宮に派遣された画師だと、記録にあった」

 メアはアイベルの名を出さなかった。彼女が自ら手繰り寄せるのを待つように、魔物の巣を歩く兵士のような慎重さで言葉を重ねる。

「石板のおかげで、お前の森と人間との繋がりが証明できる。千年以上前から、お前はあそこにいて、人間と関わっていた。それを公式な記録として残せれば、もう誰もお前の居場所を取り上げることはできない」

 メアはスープを一口啜り、説明を終えた。枢密院の陰謀や白梟師団の醜い争いには、一言も触れなかった。カナに聞かせる必要のない戦場の話は、すべて自分の胸の内に沈めた。

「アイベルにお礼を言わなくちゃ」

 唐突なカナの言葉に、メアの匙が止まった。

 千年前に世を去った画師へ、今さら感謝を伝えたいと、彼女は当たり前のことのように微笑んだ。忘れかけていた名を誰かが思い出させてくれたことへの、純真な喜びがそこにはあった。

 メアは黙っていた。

 アイベルはもういない。集落も、国も、千年の土の下だ。だが、それを指摘することに何の意味があるだろうか。

「……あの石板が、そいつの描いたものなら」

 メアは低い声で、自分なりの答えを探した。

「王に献上した時点で、国中の学者の目に触れる。あいつの仕事が、千年経ってもまだ価値を失わず、人を動かしていると記録に残る」

 不器用な、だが最大限の慰めだった。

 メアは思い出す。泉の底でカナが石板を手に取った時のことを。

 いい絵だと、そう言ったのだ。政治的な価値など何一つ考えず、自分の姿を美しいと言ってくれた人間の腕を、千年の時を経てなお誇りに思っていた。

 悲しみは箱の中にある。だが、嬉しいという光だけは消えずに残っていたのだ。

「……いい絵だったな」

 メアがぽつりと言った。それはカナへ向けたのか、あるいは千年前の画師への賞賛だったのか。

 窓の外の陽が二人の食卓を静かに包み込む。嵐を前にした、束の間の凪のような、穏やかな午後だった。

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