新たな守り人
メアの人生を賭した覚悟や、エイが感じ取った政治的な緊張感。それら全てを洗い流してしまうほど、カナの返事は軽やかで、純粋なものだった。
「そう?ありがとう」
まるで隣人が「留守の間、庭を見ておいてあげるよ」と言ってくれたかのような、気軽な感謝。彼女はにこりと微笑んだ。その笑顔には何の裏も計算もなく、ただ親切な申し出に対する素直な好意だけが浮かんでいた。
メアは片膝をついたまま、一瞬、言葉を失った。もっと重々しい反応や条件、あるいは試されるような問いを予想していたのかもしれない。だが、返ってきたのは無邪気な「ありがとう」の一言。拍子抜けするほど軽いその言葉に、彼の全身から張り詰めていた緊張がふっと抜けていく。
「……ご納得いただけた……のでしょうか……?」
エイはまだ状況が信じられないといった様子で、恐る恐る尋ねた。神にも等しい存在との最初の契約が、たった二言で成立してしまった。あまりに簡単すぎて、足元が浮き立つような感覚だった。
メアはエイの問いには答えず、ゆっくりと立ち上がった。そして改めてカナに向き直ると、短く、しかしはっきりと告げた。
「ここは、今日から我々の管轄区とする。定期的に巡回に来る」
黒狼騎士団の任務は治安維持。第三部隊は魔物討伐の特化部隊だ。森の警備を兼任することは、理に適っている。メアは自分の行動をそう正当化していた。この森を安全な場所に保つことは王国の利益であり、騎士の務めだ。彼は自分自身にそう言い聞かせていた。
「……また来てくれるってこと?お菓子もある?」
カナは顔を輝かせた。管轄区や巡回といった小難しい言葉には興味がなさそうに、また来てくれる、という部分だけを正確に理解したらしい。
「お、お菓子……でございますか……」
エイはもはや笑うべきか悩むべきか判断がつかなかった。王国の未来を左右する外交交渉のキーアイテムが菓子になるなど、誰が想像できただろうか。
メアは眉間に深い皺を刻んだまま固まっていた。彼のこれまでの経験や常識のどこを探しても、「神様にご機嫌伺いのお菓子を届ける方法」なんて項目は存在しなかったのだ。
カナは、メアの固まった表情と騎士たちの微妙な空気を感じ取り、しまったというように笑った。
「……お話をしに来てくれるだけでも、嬉しいな」
その健気な言葉は、騎士たちの胸に奇妙な罪悪感を呼び起こした。千年も独りだったのだ。話し相手が来てくれる、それだけでいいという彼女の寂しさを想像してしまい、エイは王都中の菓子を買い占めてきたい衝動を必死で堪えた。
だが、沈黙を破ったのは意外にもメアだった。
「……いや。持ってくる」
ぶっきらぼうで感情の読めない、いつもの声。しかし、そこには確かな約束の響きがあった。
「次に来る時まで、美味い菓子を探しておく。だから、大人しくしていろ。誰が来ても、泉から出るな。いいな」
まるで言うことを聞かない妹に言い聞かせるような口調。だがその裏には、彼女の身を案じる不器用な庇護の意思が透けて見えた。神への捧げ物という壮大な儀式は、こうして、不器格好な兄妹の約束のような形へと姿を変えた。
「わかった。待ってる」
カナの声は子供のように弾んでいた。そのリスクも意図も理解していないかのように。ただ、また来てくれる、心配してくれている、という嬉しい事実だけを受け取って、満面の笑みを浮かべた。その純粋な喜びはあまりにも眩しく、騎士たちの胸を温かく、そして少し切なくさせた。
「……よかったですね、隊長」
「……うるさい」
エイの囁きを吐き捨てるように返し、メアは顔を背けた。彼の耳がほんの少し赤くなっていることに、気づく者はいなかった。
「……長居は無用だ。我々は帰還する」
メアの号令で、騎士たちは速やかに撤収の準備を始めた。一度王都に戻り、体制を立て直す必要がある。メアの頭の中では、すでに報告書の骨子が組み立てられていた。
──魔物は消えた。原因不明だが、生態系の変化の可能性があるため第三部隊が継続観察を行う。
嘘は言っていない。だが、最も重要な真実である少女の存在を、彼は完全に削ぎ落とすつもりだった。だが、食えない騎士団長や、蛇の巣窟のような白梟師団を欺き通せるのか。メアは内心で重いため息をついた。
「もう、帰っちゃうの?」
泉の縁にちょこんと座ったカナが、名残惜しそうに彼らを見上げていた。
「はい。我々も持ち場に戻らねばなりません。ですが、必ずまた参ります」
エイが優雅に一礼したとき、カナは傍らにあった水晶の水差しを手に取った。
「これ、持って行って。さっきのお茶。疲れた時に飲むといいよ」
エイが恭しく受け取った器の中の液体は、生命力そのもののような輝きを放っていた。皆で飲み干した残りの、底に沈殿した最も濃密な琥珀色。それは図らずも、森の生命力を一滴に凝縮したような、贅沢な最後の一杯だった。
「今度来るときは、名前を教えてね」
カナはエイではなく、その後ろに立つメアに向かってはっきりと言った。その声にはもう寂しさはなく、再会を確信した明るい響きがあった。彼女はひらひらと手を振る。
メアは何も答えず、ただじっと彼女を見つめ返した。そして、誰にも気づかれないほど微かに、一度だけ頷いた。
騎士たちが地上に戻ると、森は打って変わって静まり返っていた。木々のざわめきも動物の視線もない。主人が客人を見送った後のような、穏やかで物憂げな静寂。
第三部隊の奇妙な任務は、こうして一旦の終わりを告げた。彼らの手には、王都のどんな賢者も作り出せない、神の泉の水、が握られていた。




