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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
最終章 森の娘
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66.笑い皺

 食堂は温かかった。

 メアはいつもの席に着いた。その隣には、当然のようにカナの席がある。いつからそうなったのか、誰も覚えてはいなかった。ただ、そこがカナの居場所だった。

「ビィ、肉回せ」

「はい!」

「取りすぎだろ団長」

「育ち盛りだ。黙ってろ」

 ディートが大皿から肉を掬い、エフィの皿に足し、多めの一掬いをメアの皿に盛った。

「食え。痩せたろ」

「……食っています」

「嘘つけ。嬢ちゃんの世話ばっかりで自分の飯抜いてたの、エイから聞いてんぞ」

 メアの眉が微かに動いた。副官への恨み言を飲み込んだ顔だった。当のエイはまだ戻っておらず、席にはいなかった。

「そうなの?」

「……抜いてはいない」

「減らしてただろ」

「…………」

 沈黙は肯定だった。メアが肉の皿に目を落とし、形状を確認するように手元のパンを回している。話題を変えたい時の癖だった。ディートはにやりと笑い、それ以上の追撃をやめた。追い込みすぎると黙り込んで貝になることを、長年の付き合いで心得ていた。

 代わりに、ビィが身を乗り出した。

「隊長、昨晩もほとんど寝てなかったですよね。カナさんが眠った後もずっと起きてて……」

「ビィ」

「え?」

 メアの据わった目にビィが口をつぐんだが、既に遅かった。ガルドは事情を掴めず、豪快にスープを啜りながら首を傾げている。

「なんだ、隊長が飯食わねえのはいつものことだろ」

「いつものこと、で済ませるなよ」

「そういうもんじゃねえの?」

「そういうもんじゃないのよ、ガルド」

 エフィの声は静かだったが、有無を言わせぬ重みがあった。ガルドが肩をすくめて黙り込む。この女には逆らわないのが賢明だと、兄弟揃って骨身に染みていた。

 メアが椀を持ち上げスープを一口飲み、フォークを手に取った。義務のような動作だったが、ディートはその様子を確認して、ようやく寛いだ姿勢に戻った。

 食器の触れ合う音が戻る。夕暮れの最後の光が窓から差し込み、長い影を木のテーブルに落としていた。メアは食べる速度こそ遅かったが、皿の上は確実に減っていった。

「沢山食べないと大きくなれないよ」

 テーブルが一瞬、静まり返った。

 メアの手が止まった。口に運びかけたパンが落ち、スープの中に静かに沈んでいく。隊長に向けられた言葉としてはあまりにも場違いで、それもあまりにもカナらしかった。

 最初に吹き出したのはディートだった。

「ははは!そりゃいい、まだ伸びるかもな!」

「か、カナさん、隊長もう充分大きいです……!」

「いや、隊長細えから。あながち間違いでもないかも」

 メアはスープの椀に手を添えたまま、石のように微動だにしなかった。ディートが涙を拭いながらテーブルを叩いた。

「いいぞ嬢ちゃん、もっと言ってやれ。こいつは昔から飯を疎かにしやがる」

 メアがゆっくりとパンを口に運び、咀嚼し、飲み込んだ。無言のまま、もう一口。それから肉も。機械的ではあったが、彼は確実に食べていた。

 カナに言われたから食べている。そのことが食堂の全員に丸わかりだった。ディートが腕を組み、満足げに頷く。

「嫁の言うことは聞くんだな」

「今のメアもカッコイイけど、筋肉モリモリなメアもカッコイイと思うよ」

 メアの咀嚼が止まった。フォークを持つ指が僅かに震えている。ガルドが己の逞しい腕を叩いた。

「おう、分かってるな!やっぱ男は筋肉だよな!」

「隊長はスピード型ですから、あんまり筋肉つけすぎると……」

「そういう問題じゃねえだろ今の」

 イーガの指摘は正しかった。カナの発言の本質は身体論ではなく、どんなメアでもカッコイイという純粋な宣言に他ならない。そしてそれを食堂の全員の前で、何の気負いもなく言ってのけたことが問題だった。

 ディートが頬杖をついて、実に愉快そうにメアを眺めていた。

「どうする隊長、鍛え直すか?」

「…………今の戦闘スタイルを変えるつもりはありません」

「そうじゃねえだろ。嫁が見たいって言ってんだぞ」

「言っていません」

「言ってた」

「……ニュアンスが違う」

 メアの声から、隊長としての威厳が音を立てて崩れていく。必死に論点をずらそうとするが、隣で微笑むカナが全てを台無しにしていた。メアは肉を口に押し込み、スープで流し込んだ。食べる速度が明らかに上がっている。照れを誤魔化すために食べるという、新しい現象が食堂で観測された。

「いいじゃねえか隊長、明日から俺と朝練しようぜ!腕立て百回から始めりゃすぐだ!」

「結構だ」

「あ、でも隊長、お姫様抱っこする機会も増えましたし、体力つけるのは……」

 椀も皿も空になっていた。メアが気づいて目を落とす。カナの隣で空の椀を前にしたメアの横顔は、どこか釈然としない。食べさせられた、という自覚があるのだろう。

 ディートがパンの最後の一切れをメアの皿に放り込んだ。

「もう一個いけるだろ」

「……もう腹は」

「嬢ちゃん」

 ディートがカナに目配せをした。団長としての権限を、最も不毛な方向に行使している顔だった。

「まんまるなメアも、それはそれで可愛いと思う」

 食堂が爆発した。

 ガルドがスープを噴き出し、ビィがテーブルに突っ伏して肩を震わせ、イーガが顔を背けたが間に合わず、引きつった笑いが漏れた。エフィですらフォークを持つ手を止め、口元を押さえている。

 ディートはもう耐えられなかった。椅子の背にのけぞり、腹を抱えて声を上げて笑った。

「まんまる……!まんまるか……!」

「……カナ」

 低い声だったが、そこに怒気はなかった。怒る余裕すらなかったのだ。彼はディートが投げ込んだパンを手に取り、黙って齧りついた。やけくそだった。

「隊長が丸くなったら剣振れねえだろ!」

「で、でもカナさんが可愛いって……っ」

「ビィお前もう喋んな、顔やべえから」

 メアがパンを飲み込み、立ち上がった。椀と皿を重ね、無言で流し場へ向かう。その背中は、戦場で魔物の群れに単身突っ込む時よりも硬直していた。

 ディートが笑いの余韻で目尻を拭いながら、カナを見た。

「嬢ちゃん、お前さんほんとに最高だな」

 証拠を隠滅するように自分で皿を洗い始めたメアの背中が、その言葉に一瞬だけびくりと震えた。桶の水音だけが、食堂の笑い声に抗うように響いていた。

「どんなメアも好きだからね」

 流し場の水音が止まった。

 メアの手が皿を握ったまま、石のように動かない。背中はカナに向けられたままだ。食堂の笑い声が、ひとつ、またひとつと消えていった。カナの声に含まれた想いが、冗談の延長ではないことに全員が気づいたからだった。

 メアは黙って皿を丁寧に伏せ、手を拭き、ゆっくりとカナの席まで戻ってきた。見下ろす黒い瞳は、もう赤くはなかった。耳も首筋も、嘘のように落ち着いている。

 だが、その目の奥に灯っているものを、カナは見ただろうか。

「……終わったか」

 短く、静かな声だった。カナに差し出された手は、王城からの帰り道と同じだった。指先が微かに湿っている。流し場の水か、それとも。

 ディートは何も言わなかった。黙って顎をしゃくり、二人を送り出した。食堂の扉が閉まり、二人の足音が廊下に遠ざかっていく。

「……隊長、顔すごかったですね」

「見んなよ、あれは」

「何ですか?」

「……いや、いい。まだ早い」

 入れ替わるように入ってきたエイが席についた。

「皆さん、隊長のご事情を詮索するのは控えましょう」

「お前が一番ニヤけてんだろうが」

 エイのカップを持つ手は、微塵も揺れなかった。そして、否定もしなかった。

「だめだ、あいつを見る度にニヤケちまう。このままだと我ら黒狼騎士団の威信に関わる。とっとと家を買わせよう」

 ディートが腕を組んで言った。精悍な顔つきが緩みきっている。団長としての威厳は、今夜に限っては完全に行方不明だった。

「奇遇ですね、団長。実は昨日のうちに幾つか物件の目星をつけておりまして」

 エイが懐から折り畳んだ紙を取り出した。手際が良すぎた。明らかにこの事態を予見していた男の仕事だった。

「仕事が早ぇな、お前は」

「隊長の性格を考えますと、ここからあまり離れた場所は嫌がるでしょう。騎士団の東門から歩いて程なくの場所に、手頃な一軒家が三件ほど」

「手頃ってのは?」

「カナさんの財宝の一部を換金すれば、どれも問題なく。ただ、枢密院の目に留まらぬよう、換金は数回に分けるべきかと」

 ディートが顎を撫でた。飄々とした表情の奥で、団長の目が光る。

「メアの野郎、今晩の話を蒸し返したら、また赤くなるんだろうな」

「確実に」

「見てぇ」

「……団長」

「分かってる分かってる、からかうのは程々にするさ。だがな、エイ」

 ディートが腕を組んだまま、食堂の扉の方を顎でしゃくった。メアがカナの手を引いて消えていった方向だ。

「あいつがあんなに食うのは初めて見た。あのメアがだぞ。偏食で、飯に興味がなくて、放っといたら干し肉だけで三日過ごすようなあいつがな」

 ディートの声は穏やかだった。揶揄いの色は消え、代わりに深い感慨が滲んでいた。

「早く家を見つけてやれ。あの二人に、帰る場所を作ってやれ」

「……はい」

 物件の見取り図を見比べていたエイの目が、柔らかく細められる。

「ビィ、イーガ。よく聞いてください」

 声は穏やかだったが、金色の瞳の奥には鉄のような光が宿っていた。

「さっき見た二人のことは、全て忘れてください。夢だったと思ってください。隊長に仄めかそうものなら、二人とも地面と大変親しくなることになります」

 笑顔だった。完璧な笑顔だったが、副官としての圧が乗っていた。ビィが直立不動になり、イーガの姿勢が正される。

「よろしい。では早く寝るように。明日の訓練はエフィさんが仕切るでしょうから、遅れないように」

 二人が駆け出していった。足音が遠ざかり、食堂が静まる。

 エイが椅子に座り直した。三件目の物件に目を落とす。

 肩が震えていた。

 声は出していなかったが、エイ・ランティスの肩は小刻みに揺れ、紙を持つ手が震え、金色の目の端に涙が滲んでいた。笑いを堪えていた。限界だったのだ。

 エイは机に突っ伏した。声を殺した笑いがテーブルに吸い込まれていく。書類の上で肩が震える。実直で、優しく、穏やかで、善意に満ちあふれたこの男であっても、これには耐えられなかった。

 暫くして顔を上げたエイの目は赤かった。笑いすぎたのだ。深呼吸を三度繰り返し、副官の顔を取り戻す。

「……三件目。庭付き。台所が広い。表通りに面している。ここが良さそうですね」

 何事もなかったかのように、紙をたたみ直した。ただし、その口元の笑みだけは暫く消えなかった。

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