空白の向こう側
新芽のエキスで薄緑色に染まった水から、清涼な香りがふわりと立ち上った。それは雨上がりの森の匂いにも似た、濡れた葉と、若葉のわずかな甘みが混ざり合う、不思議と心を落ち着かせる香りだった。
「……いい匂いがする」
ビィがぽつりと呟いた。武器を構え、命のやり取りを覚悟していた数分前が、遠い前世のことのように感じられる。
「気を抜くな。幻覚作用や弛緩薬の可能性も捨てきれん」
メアはただ一人、冷静さを保とうと鋭く警告した。だがその声には、自分自身に言い聞かせるような響きがある。抗おうとしても、清涼な香りは容赦なく彼の肺を満たし、強張っていた肩の力をじわじわと解いていった。
カナは鍋のそばにあった不揃いな水晶のカップを手に取った。透き通ってはいるが、形も厚みも一つとして同じものがない。客をもてなすための揃え物ではなく、彼女が長い年月の間に気まぐれに集めたものなのだろう。
カナはその一つに薄緑色の液体を湛えると、一番格上であるメアの前にこともなげに差し出し。
「……!」
メアは目の前のそれを、まるで毒でも見るかのような目で見つめた。騎士としての責任感と、状況を悪化させたくないという判断が激しくせめぎ合う。
「カナ殿、お待ちください。隊長より先に、まずは私が……」
エイが制止しようとした、その時だった。
「こういう時は、一番偉い人が、真っ先にくつろぐんだよ。じゃないと、他の人がくつろげないでしょ」
カナの言葉は、静かだが確信に満ちていた。それは騎士という立場上、忘れることを強いられていた、集団における当たり前の真理だった。
メアの黒い瞳が驚きに見開かれる。部下を休ませるには、まず自分が休む姿を見せねばならない。自分はいつから、警戒という鎧で自身を固め、部下たちにも同じ緊張を強いていなかったか。
エイは伸ばしかけた手をそっと引っ込め、上司の決断を待った。メアは長い沈黙の後、ゆっくりとカップに手を伸ばした。それは降伏のようでもあり、覚悟のようでもあった。
カナは満足そうに頷くと、他の騎士たちにも次々とカップを配り始めた。
「そうだ、副隊長さん。カナ殿って呼ばれるの、変な感じ。カナでいいよ」
「……え?しかし、それは……」
名門貴族出身のエイは言葉に詰まった。初対面の、それもこれほど底知れない存在を呼び捨てにするなど、彼の行動規範が許さない。困惑するエイをよそに、カナの視線は再びメアへと向けられた。
「隊長さんは、私を名前で呼ぶところからだね。私は「きさま」でも「アレ」でもないよ」
メアの肩が、見えない矢に射抜かれたかのように微かにねじれた。彼が内心で、あるいは部下への指示で彼女を指した言葉そのものだった。
心が読まれている……いや、彼女はただ、彼の視線や言葉の端々に滲む軽侮を、最初からすべて感じ取っていたのだ。騎士としての誇りが衆目の前で粉砕されるような思いだった。顔から血の気が引いていくメアを見て、エイもまた、自分たちの無礼を恥じた。
「ほら。飲んで。お話をたくさん聞かせてくれる?君たちはどこから来たの」
カナの明るい声が、重く張り詰めた空気を霧散させた。メアは弾かれたようにカップを口元へ運んだ。
薄緑色の液体が口の中に流れ込む。それは驚くほどに美味だった。爽やかな香りが鼻を抜け、体の中から清められるような感覚が広がる。
「……うまい」
思わず漏れた本音に、他の騎士たちも恐るおそる口をつけ、一様に安堵の表情を浮かべた。
「我々は……森の西側、王都へと続く街道筋から調査のために来ました」
「西……小さな集落があったのは覚えてるけど……」
エイの言葉に頷くカナだが、その記憶の中の西は、現在の賑やかな宿場町とはかけ離れているようだった。彼女の瞳が、どこか遠くを見るように懐かしむ光を宿す。
「東側、森の反対側にあった国は今どうなってるの?」
騎士たちは一瞬、顔を見合わせた。東に広がるのは険しい岩山と不毛の荒野だけだ。
「……カナさん。森の東側に、現在は国と呼べるものは存在しません。山脈の先は、人の住まぬ荒野が広がっています」
「……そっか。ずっと誰も来ないから、おかしいと思った……」
カナの声が、広間に寂しく響いた。ずっと誰も来ない。その言葉が、彼女がここで過ごしてきた途方もない時間の長さを物語る。
「東には国があって、そこの人たちがよく泉に物を沈めに来てたよ。このカップとか、キラキラしたのとか。なんか綺麗なの」
カナが愛おしそうに水晶のカップを撫でる。
泉に物を沈める、それは、祈りの捧げ物だ。かつて東の国の人々にとって、この泉は神聖な場所であり、カナはその祈りを受け取る存在だったのだろうか。祈りの対象、神、あるいはそれに近しい守護者として。
騎士たちが手にしているカップは、今や小さな城が買えるほどの価値を持つ聖遺物かもしれない。それを彼女はただの食器として使っている。
「あ、この鍋は違うよ。どこからか風で転がってきたやつ」
唐突な補足に、ガルドが気の抜けた相槌を打つ。
「は、はぁ……鍋は、風で……」
「どんな強風だよ……」とイーガがツッコむが、情報の落差に脳が追いつかない。聖なる杯で飲むお茶は、風で飛んできた薄汚れた鉄鍋で煮出したもの。この空間では、彼らの常識は塵に等しかった。
メアだけは、冷静さを取り戻そうと努めていた。
「……その東の国の者たちは、いつから来なくなった」
メアはカップを置き、全身を耳にして問いかけた。もし彼女の語る言葉が歴史の真実だとしたら。自分たちが今対峙しているのは、おとぎ話の向こう側から現れた、生きる神話そのものなのだ。
メアの胸の内で、恐怖と、武人としての震えるような興奮が、激しく火花を散らしていた。




