24.迷わない
泉が、怒っていた。
それ以外に表現のしようがなかった。乳白色の水面がゆっくりと渦を巻き始め、縁の岩を舐めるように、ねっとりと水位が上がっていく。異様な力が、そこに凝縮されていた。
シールは火傷した手を庇いながらも、後退するどころか腰を落として水面を凝視していた。
「下がれ」
短い一言。メアはシールの肩を掴んで強引に引き剥がした。シールが苔の上によろめいた、その刹那。
水面が割れた。
噴き出したのは一筋の乳白色。それが真珠色の鱗を持つ巨大な蛇の頭部へと凝固していく。泉から伸びた首が見上げるほどの高さまでもたげられ、真珠色の眼窩がメアを見下ろした。口腔から零れる水滴が地面に落ちるたび、草が焼け焦げたように黒ずみ、また芽吹いた。
メアは剣を抜いた。考えるより先に体が動いていた。この蛇とシールの間に立てるのは自分だけだった。
蛇が、迫る。
空気を切り裂く速度の突進を、メアは右に跳んでかわした。反転し、剣を横薙ぎに振るう。
手応えはあった。だが、斬れていない。激流に刃を突き立てたような感覚が腕を痺れさせ、体勢が崩れる。蛇の尾が地面を薙ぎ、メアは咄嗟に跳躍した。
胸元の真珠が脈打った。心臓に直接触れるような、強い熱。
蛇が二撃目を繰り出す。上方からの叩きつけ。メアは前方に転がり、距離を取った。二合で分かった。力で圧し切る相手ではない。
蛇が首をもたげ直す。泉から伸びた胴体は無限に泉を吸い上げ、再生している。
メアの黒い目が、蛇の体表に走る水流の紋様を見極めていた。一箇所だけ、流れが渦を巻いている場所。頭部の付け根。そこに何かがある。
真珠の熱がメアの剣を持つ手にまで伝わったかのように、刃が微かに白い燐光を帯びた。
蛇が、再び飛んだ。
メアも、踏み込んだ。
蛇の顎が開き、メアを呑み込もうとする。だがメアは、左に身を捻りながらその牙を紙一重でかわした。
その回避は、攻撃の起点。
頭部の付け根が露出する。メアは踏み込みの勢いを殺さず、燐光を帯びた刃を斜め上方に振り抜いた。
白い光が、弧を描く。
頭部が崩れるように形を失い、乳白色の飛沫となって弾け飛んだ。メアの頬を熱い水滴が掠め、皮膚を焼く。
だが、蛇は死んでいなかった。
胴体が泉に引き戻され、再び再生を始めようとしている。メアの剣の燐光は消えかけ、胸元の熱も弱まっていた。
「そのまま!」
背後からシールの声が飛んだ。左手で印を組み、絡めるように蛇に向けた。渦を巻くの動きが、一瞬だけ弱まった。
「長くは、保ちません。今!」
メアは考えなかった。明滅する刃を両手で握り締め、泉の縁から跳躍した。メアの足を受け止めるような硬い水面を走り、渦の中心へと迫る。
剣を、真下に突き立てた。
白い光が泉の底まで貫き、乳白色の水が左右に弾け飛ぶ。渦の核が砕け散る感触が掌に伝わった。
そして、静寂。
メアは泉の縁に片膝をついていた。全身がずぶ濡れで、革鎧は半分溶け、頬と右腕に火傷の痕が走っている。刃の燐光は消え、真珠も沈黙していた。
泉は、元の透明な水を取り戻していた。何事もなかったかのように、白い砂が見える。鳥の声すらない、空虚な静けさだけが残った。
シールが、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「……素晴らしい。実に、素晴らしい」
その目の奥に灯る光は、学者の好奇心と呼ぶにはあまりにも暗く、飢えていた。
その時、静かだった泉が沸騰するように泡立った。蒸気が視界を覆い、やがて音が収まった頃、そこにはもう、泉はなかった。
蒸気が晴れた場所には、窪みすらなかった。
乾いた土と、枯れ葉と、苔むした岩だけ。水の一滴すら残されていない。泉そのものが、この世界から消え去っていた。
メアは片膝をついたまま、動けなかった。
泉が消えた。その言葉だけが頭の中にあった。消えた。カナの家が。
胸元の真珠は冷たく、ただの石のように沈黙していた。
「……そんな」
シールの声から、初めて余裕が剥がれ落ちた。泉があった場所に膝をつき、土を掴んで凝視する。
「馬鹿な。……移動した? いや、消滅した?」
学者の仮面が罅割れ、剥き出しの執着が覗く。土の匂いを嗅ぎ、味すら確かめようとする姿は、もはや正気ではなかった。
メアは立ち上がった。全身が軋んだが、構わなかった。
泉は秘密を守り、消えた。
メアの濡れた髪から雫が一滴、乾いた土の上に落ちた。それを吸い込んだ地面は、何も返さなかった。




