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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
第一章 森の主
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差し出された手を取って

 翌朝、空が白み始めた頃、メアは再び一人で森へと向かっていた。作戦会議は深夜まで及んだが、その足取りに疲れの色はない。むしろ、研ぎ澄まされた気迫が、周囲の空気をぴりりと震わせていた。

 半日かけて泉のほとりに着くと、カナは初めて出会った時のように水面を眺めていた。彼女はメアの姿を認めると、ぱっと顔を輝かせる。

「どうしたの?この前イーガが来たばかりだよ。また、何か教えてくれるの?」

 その無邪気な問いかけに、メアの胸がちくりと痛んだ。

「カナ。お前に、話がある」

 メアは視線の高さを合わせるように彼女の前に膝をつき、まっすぐにその黒い瞳を見つめた。

「俺たちの住む世界に、お前の力を欲しがる男がいる。そいつは、お前を物としてしか見ないだろう。研究し、分析し、お前がどうなっても構わないと思っている男だ」

 メアは包み隠さず事実を告げた。それが、彼なりの誠意だった。

「そいつが、近々この森を調べに来る。だから、お前に頼みがある。調査が終わるまでの間、この森を離れ、俺たちのところで暮らしてはくれないか。お前の身は、俺たちが命に代えても守る」

 それは、最強の騎士が捧げる、祈りにも似た誓約だった。カナはしばらくの間、何かを考えるように視線を彷徨わせた後、不意に森の奥へ向かってぽつりと尋ねた。

「聞いてた?私、外を見てくる」

 メアは、あまりにもあっさりとしたその返事に言葉を失った。

 カナはくるりと森の方へ向き直ると、大きく息を吸い込み、木々やそこに住む名もなき生き物たちに語りかけるように、穏やかな声を響かせた。

「長くなるかもしれないけど、いい子にしてて」

 その瞬間、ざあっと、森の木々が一斉に揺れた。

 ただの風ではなかった。森全体が、一つの意思を持ってカナの言葉に応えているかのようだった。葉擦れの音は、千年以上の時を共にした主との別れを惜しむ、寂しげな溜息のように森中に広がっていく。

 メアはその神秘的な光景を息を飲んで見つめていた。彼女はこの森そのものなのだ。その絆を一時的に断ち切る重みを、森がざわめきと共に受け止めている。

 やがて森のざわめきが収まると、カナは満足そうに頷いた。だが、歩き出そうとするメアを、待って、と引き止める。

「これだけ、持っていきたい」

 彼女はそう言うと、静かに泉のほとりへと歩み寄った。

 透き通った水面にその白い指先を浸すと、波紋が幾重にも広がっていく。カナがそっと掬い上げた掌の上には、一粒の真珠が転がっていた。

 それは、月光を閉じ込めたかのように淡い光を宿した珠だった。かつての捧げ物の一部なのか、小さな穴があいている。

「それは……?」

 メアの問いに、カナは真珠を大事そうに胸元へ握り込み、ふわりと微笑んだ。

「大事なものだから。……これがあれば、大丈夫」

 メアは、それが森の魔力を宿した護符のようなものだろうと解釈し、深くは追求しなかった。だが彼女が真珠を見つめる一瞬の瞳に、いつもの天真爛漫さとは違う、凪いだ泉のような深い静寂が宿ったのを、彼は見逃さなかった。

 カナはその真珠を丁寧に胸元に忍ばせると、再びメアの方へと向き直った。その顔には、もう何の迷いもない。

「それで、私、何をすればいいの?この前教えてくれた、スープを作ったりするの?」

「……ああ。スープも作る。だが、それだけじゃない。これから、たくさん教えることがある」

 メアは立ち上がると、そっと手を差し出した。

「誓おう。俺、メア・グレンダンが、必ずお前を守る」

 カナは、迷うことなくその大きな手をぎゅっと握った。鍛え抜かれた無骨な手の中で、彼女の指先は驚くほど柔らかく、そしてひんやりとしていた。その微かな体温に、メアの心臓が、かすかに、しかし確かに大きく跳ねた。

 こうして、カナの初めての外界という名の偽装作戦が始まった。

 メアに連れられ、人目を避けて辿り着いた王都。初めて見る森の外に、カナは目を輝かせっぱなしだった。道端に咲く花、空を横切る鳥、遠くで働く人々の姿、そのすべてが、彼女にとっては驚きと発見に満ちていた。

 騎士団宿舎に着くと、ディート団長が直々に出迎えた。

「ようこそ、カナ嬢。いや、今日からお前は食堂の新入り、カナだ。仕事はきついが根性を見せてみろ。まずはジャガイモの皮むきからだ!」

 山のようなジャガイモを前にカナは目を丸くした。すると、隣にメアが無言でしゃがみこみ、自らもナイフを手に取り、手本を見せるように慣れた手つきで皮を剥き始めた。

 最強の隊長が雑用をこなすその光景はあまりにも奇妙で、通りかかる騎士たちは皆、二度見、三度見して絶句していく。

 カナの食堂の雑用係としての生活は、こうして始まった。

 皿を洗いながら泡で遊んだり、スープの味見だけで鍋を半分空にしてしまったりと失敗も多かったが、メアや第三部隊の面々にこっそり助けられながら、彼女は懸命に仕事をこなした。

 その天真爛漫な姿は、殺伐としがちな騎士団宿舎に、まるで日だまりのような明るい光をもたらし始めていた。

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