差し出された手を取って
翌朝、空が白み始めた頃、メアは再び一人で森へと向かっていた。作戦会議は深夜まで及んだが、その足取りに疲れの色はない。むしろ、研ぎ澄まされた気迫が、周囲の空気をぴりりと震わせていた。
半日かけて泉のほとりに着くと、カナは初めて出会った時のように水面を眺めていた。彼女はメアの姿を認めると、ぱっと顔を輝かせる。
「どうしたの?この前イーガが来たばかりだよ。また、何か教えてくれるの?」
その無邪気な問いかけに、メアの胸がちくりと痛んだ。
「カナ。お前に、話がある」
メアは視線の高さを合わせるように彼女の前に膝をつき、まっすぐにその黒い瞳を見つめた。
「俺たちの住む世界に、お前の力を欲しがる男がいる。そいつは、お前を物としてしか見ないだろう。研究し、分析し、お前がどうなっても構わないと思っている男だ」
メアは包み隠さず事実を告げた。それが、彼なりの誠意だった。
「そいつが、近々この森を調べに来る。だから、お前に頼みがある。調査が終わるまでの間、この森を離れ、俺たちのところで暮らしてはくれないか。お前の身は、俺たちが命に代えても守る」
それは、最強の騎士が捧げる、祈りにも似た誓約だった。カナはしばらくの間、何かを考えるように視線を彷徨わせた後、不意に森の奥へ向かってぽつりと尋ねた。
「聞いてた?私、外を見てくる」
メアは、あまりにもあっさりとしたその返事に言葉を失った。
カナはくるりと森の方へ向き直ると、大きく息を吸い込み、木々やそこに住む名もなき生き物たちに語りかけるように、穏やかな声を響かせた。
「長くなるかもしれないけど、いい子にしてて」
その瞬間、ざあっと、森の木々が一斉に揺れた。
ただの風ではなかった。森全体が、一つの意思を持ってカナの言葉に応えているかのようだった。葉擦れの音は、千年以上の時を共にした主との別れを惜しむ、寂しげな溜息のように森中に広がっていく。
メアはその神秘的な光景を息を飲んで見つめていた。彼女はこの森そのものなのだ。その絆を一時的に断ち切る重みを、森がざわめきと共に受け止めている。
やがて森のざわめきが収まると、カナは満足そうに頷いた。だが、歩き出そうとするメアを、待って、と引き止める。
「これだけ、持っていきたい」
彼女はそう言うと、静かに泉のほとりへと歩み寄った。
透き通った水面にその白い指先を浸すと、波紋が幾重にも広がっていく。カナがそっと掬い上げた掌の上には、一粒の真珠が転がっていた。
それは、月光を閉じ込めたかのように淡い光を宿した珠だった。かつての捧げ物の一部なのか、小さな穴があいている。
「それは……?」
メアの問いに、カナは真珠を大事そうに胸元へ握り込み、ふわりと微笑んだ。
「大事なものだから。……これがあれば、大丈夫」
メアは、それが森の魔力を宿した護符のようなものだろうと解釈し、深くは追求しなかった。だが彼女が真珠を見つめる一瞬の瞳に、いつもの天真爛漫さとは違う、凪いだ泉のような深い静寂が宿ったのを、彼は見逃さなかった。
カナはその真珠を丁寧に胸元に忍ばせると、再びメアの方へと向き直った。その顔には、もう何の迷いもない。
「それで、私、何をすればいいの?この前教えてくれた、スープを作ったりするの?」
「……ああ。スープも作る。だが、それだけじゃない。これから、たくさん教えることがある」
メアは立ち上がると、そっと手を差し出した。
「誓おう。俺、メア・グレンダンが、必ずお前を守る」
カナは、迷うことなくその大きな手をぎゅっと握った。鍛え抜かれた無骨な手の中で、彼女の指先は驚くほど柔らかく、そしてひんやりとしていた。その微かな体温に、メアの心臓が、かすかに、しかし確かに大きく跳ねた。
こうして、カナの初めての外界という名の偽装作戦が始まった。
メアに連れられ、人目を避けて辿り着いた王都。初めて見る森の外に、カナは目を輝かせっぱなしだった。道端に咲く花、空を横切る鳥、遠くで働く人々の姿、そのすべてが、彼女にとっては驚きと発見に満ちていた。
騎士団宿舎に着くと、ディート団長が直々に出迎えた。
「ようこそ、カナ嬢。いや、今日からお前は食堂の新入り、カナだ。仕事はきついが根性を見せてみろ。まずはジャガイモの皮むきからだ!」
山のようなジャガイモを前にカナは目を丸くした。すると、隣にメアが無言でしゃがみこみ、自らもナイフを手に取り、手本を見せるように慣れた手つきで皮を剥き始めた。
最強の隊長が雑用をこなすその光景はあまりにも奇妙で、通りかかる騎士たちは皆、二度見、三度見して絶句していく。
カナの食堂の雑用係としての生活は、こうして始まった。
皿を洗いながら泡で遊んだり、スープの味見だけで鍋を半分空にしてしまったりと失敗も多かったが、メアや第三部隊の面々にこっそり助けられながら、彼女は懸命に仕事をこなした。
その天真爛漫な姿は、殺伐としがちな騎士団宿舎に、まるで日だまりのような明るい光をもたらし始めていた。




