灯台下暗し
隊長室の重い扉を叩く音は、エイの焦燥を映していつもより鋭く響いた。
「入れ」
短い許可に応じ、滑り込むように入室したエイの顔色は、いつになく険しい。机に向かって報告書を読んでいたメアは、無言で視線を上げ、副官の言葉を待った。
「隊長。……先ほど、シールと遭遇いたしました」
その名が出た瞬間、メアの纏う空気が、氷が割れるような緊張を帯びた。彼は読んでいた書類を静かに机に置くと、エイに視線だけで続きを促す。
エイは、先ほどのやり取りを一言一句違わずに報告した。東の森の奇妙な魔力、王への調査許可申請。そして、獲物を追い詰めた蛇のような、シールの不気味な確信。
報告を聞き終えたメアは、しばらくの間、指で机をこつ、こつと叩きながら深い思索に沈んだ。やがて、彼は決断を下したように顔を上げた。
「……団長に報告する。お前は第三部隊の者たちを軍議室へ集めろ。緊急の作戦会議だ」
「承知いたしました」
エイが部屋を飛び出していくと、メアは窓の外、遠くに見える王宮を険しい目で見つめた。シールの狙いはカナか、それとも泉の力そのものか。
メアは腰に下げた剣の柄を、ぎしり、と音を立てて握りしめた。それは、守るべきものができた男の、静かで、しかし何よりも固い決意の表れだった。
その日の夕刻、軍議室は張り詰めた空気に満たされていた。集められたのは第三部隊の騎士たち。ガルド、エフィ、ビィ、イーガ。彼らは皆、硬い表情で上官の到着を待っていた。
やがてディート・オルグラム団長がメアとエイを伴って現れた。ディートの顔にはいつもの飄々とした笑みはなく、ただ厳しい戦士の表情だけが浮かんでいる。
「よく聞け。白梟師団のシールが、我々の聖域に気づいた。奴は近々、王の許可を得て、森の正式な調査に乗り出すつもりだ」
その言葉に、騎士たちの間にどよめきが走る。
「あのいけ好かねえ紫トカゲ……。こそこそと嗅ぎ回りやがって」
ディートは吐き捨てるように言った。
「団長、我々はどうすれば?奴の調査を、力尽くで止めることは……」
ビィが自信なさげに尋ねるが、ディートは首を振った。
「馬鹿を言え。王命だぞ。公然と逆らえば騎士団そのものが反逆罪に問われる。シールはそれを分かってやっているんだ。我々を法という名の鎖で縛り、合法的に遺物とやらを奪うつもりだろう」
「ですが、このままではカナさんが……。シールのことです、彼女を研究対象としか見ないでしょう。最悪の場合、彼の実験室へ……」
エイの言葉が、その場の全員の胸に重く突き刺さった。あの無垢な少女が、冷たい実験台の上に乗せられる光景。皆が下を向く中、これまで一言も発さなかったメアが、静かに口を開いた。
「……調査を、止める必要はない。シールが欲しいのは、魔力の残る遺物だ。ならば、調査をさせてやればいい。そして、納得のいく品を見つけさせて帰せばいいだけの話だ」
メアは、一筋の光を示すように続けた。
「調査の時期に、カナを一時的に森から連れ出す」
「連れ出すって、どこへだ? あの泉から離れて大丈夫なのか?」
「ただでさえ変わった娘って聞いているが、匿う宛は?」
ガルドやディートの懸念はもっともだった。ビィが自分の実家に匿う案を出すが、メアはそれを遮った。
「……いや。目の届く場所に置いておきたい。隠せば余計に怪しまれる。奴は傲慢だ。価値あるものは高い壇上に鎮座していると思い込んでいる。ならば、その逆を突く」
メアは全員を見回した。その瞳には、賭けに出る者の冷徹な光が宿っていた。
「カナを、騎士団宿舎の食堂で働く雑用係として、一時的に雇い入れる」
軍議室に、一瞬だけ時が止まったような静寂が訪れた。
最初に吹き出したのは、ディートだった。
「……はっ、正気か? ……まあ、灯台下暗し、ってやつか。 シールは血眼になって遺物を探すだろう。だが、まさかその本人が、自分の足元でジャガイモの皮を剥いているとは夢にも思うまい」
「以前から人手不足だった食堂の臨時雇い、という名目です。書類は団長にお任せします。あいつは人に思わせている以上に聡い。俺たちといるときは何の力も感じさせない。魔物と戦ってきた、この俺たちに、です。まるで普通の人間のように振る舞っている。紛れる術を知っているということだ」
メアの淡々とした言葉に、騎士たちの顔に悪戯っぽい笑みが広がっていく。
「いいんじゃないか?あのスカした魔術師の目の前で、神様が皿を洗っている。最高の皮肉だ」
ガルドが拳を打ち鳴らす。
だが、そこでディートがふと笑いを収め、低い声で付け加えた。
「……いいか。笑い話で済ませているが、これは王命に対する明白な欺瞞だ。万が一バレれば、俺の首だけじゃ済まねえぞ。黒狼騎士団そのものが潰れる。その覚悟はできているんだろうな、メア」
軍議室の空気が、一瞬でひりつくような緊張感に支配された。メアは視線を逸らさず、短く「……承知しています」とだけ答えた。
「ですが」とエイが釘を刺した。
「カナさん本人が、納得してくださるでしょうか。外界の騒がしい環境は、彼女にとって大きなストレスになるやもしれません」
最大の鍵は、カナ自身の同意だ。ディートはメアに視線を向けた。
「……それについては、俺たちがあれこれ考えても仕方ねえ。直接、本人に聞いてみるしかあるまい」
「明日、俺が森へ。詳細はそこで」
メアは短く、しかし力強く答えた。彼の胸の内には、カナをどう説得するかの算段が、すでに立ち始めていた。守り抜かなければならないものが、また一つ増えることへの、静かな覚悟と共に。




