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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
第一章 森の主
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生きるための魔法

 その日、メアは一人で森を訪れた。鞍の横に下げた袋には、彼が独りで選び抜いたものが収められている。他の騎士たちが賑やかに菓子を選んでいたのとは対照的に、彼が何を持ってきたのかは、副官のエイでさえ知らなかった。

 泉の底で、カナはいつものように誰かが来るのを待っていた。メアの姿を認めると、彼女はぱっと顔を輝かせ、駆け寄ってくる。

「今日はあなたの番なんだ。何を持ってきたの?」

 メアは、期待に満ちた瞳で自分を見上げるカナの前に静かに立つと、飾り気のない麻袋を降ろした。今まで誰かが持ってきたどの菓子箱よりも地味で、素っ気ないものだ。

 カナが重い袋の口を開けると、中にあったのは菓子ではなかった。

 色とりどりの野菜、塩漬けの肉、小麦粉、および一瓶の油。つまり、料理の材料だった。

 カナはきょとんとして、袋とメアの顔を交互に見比べた。

「菓子は、誰かが作ったものだ。だが、これは違う」

 メアは地面に膝をつくと、手早く火をおこし始めた。一切の無駄がない所作で野菜を刻み、鍋を火にかける。

「誰かに与えられるだけでは、いつかなくなる。だが、作り方を知っていれば、腹が減ることはない」

 じゅう、という音と共に、香ばしい匂いが立ち上る。メアが教えようとしているのは、菓子の甘さではない。もっと根源的な生きるための術だった。

 カナは言葉もなく、その光景を見つめていた。バラバラだったものが一つになり、温かい湯気を立てる別のものに変わっていく。それは彼女にとって、初めて見る魔法だった。

 やがて肉と野菜が溶け合った黄金色のスープが完成する。メアは真新しいスプーンをカナに差し出した。

「食え。熱いから気をつけろ」

 ぶっきらぼうな口調。だが、その声には不器用な優しさが滲んでいた。カナは恐る恐るスープを口に運ぶ。その瞬間、黒い瞳が驚きに見開かれた。

 塩気と肉の旨味、野菜の甘さが、体の芯までじんわりと染み渡る。今まで食べたどんな菓子よりも、ずっと深く心に響く、生命そのものの味がした。

「……おいしい……」

 カナの声は感動で少し震えていた。彼女は夢中でスープをすくうと、火の番をするメアを見つめた。

「これ、どうやって作るの?私にもできる?」

 その問いに、メアは初めて、誰にも気づかれないほど微かに口の端を持ち上げた。

「ああ。教えてやる」

 その日、泉の底では、王国最強と謳われる男が千年の時を生きてきた少女にスープの作り方を教えていた。誰にも知られることのない、二人だけの秘密の料理教室だった。

 それから、メアの番が来るたびに泉の底は小さな厨房になった。

 固いパンをスープで柔らかくする方法、保存のきく干し肉、粉で作る素朴な焼き菓子。カナは驚くべき速さでそれらを吸収していった。

 メアは淡々と手順を示すだけだが、カナが熱い鍋に手を伸ばせば無言でその手を掴んで制し、彼女が不格好ながらも料理を完成させた日には、「……悪くない」と一言だけ呟いた。その不器用な承認が、カナには何よりの褒め言葉だった。

 二人の間には、他の誰も入り込めない穏やかで特別な空気が流れていた。それは師弟のようでも、年の離れた兄妹のようでも、あるいは静かに寄り添う古くからの友人のようでもあった。

 そんなある日。エイは買い出しの帰り道、騎士団本部の廊下で思いがけない人物に呼び止められた。

「ごきげんよう、ランティス卿。少し、お耳に入れたいことが」

 白梟師団の魔術師、シールだった。美しい顔には穏やかな笑みが浮かんでいるが、紫色の瞳の奥は一切笑っていない。エイは背筋に冷たいものが走るのを感じた。

「……これはシール様。私に何かご用でしょうか」

「近頃、東の森で奇妙な魔力が観測されていましてね。極めて微弱ですが、非常に古い、神話の時代の遺物のような……。何かご存知ではありませんか?黒狼騎士団第三部隊の、優秀な副官殿」

 シールの言葉は穏やかな探りだった。気づかれた。エイは完璧なポーカーフェイスを保ちながら必死で思考を巡らせる。

「東の森, ですか。我々が管轄する区域ですが……魔術に関しては門外漢でして。ご存じの通り、最近は魔力を持つような魔物も全く姿を見せません。調査は続けておりますが……何の報告もできず、お恥ずかしい限りです」

 エイは貴族的な社交術を駆使して微笑んだ。だが、シールはくすりと喉で笑った。

「おや、ご謙遜を。メア隊長率いる第三部隊が何も見つけられないはずがないでしょう?……まあ、結構です。碌な報告が上がってこないのなら、私自身で調べるまでのこと」

 シールは優雅に身を翻し、去り際に言い放った。

「近々、森の調査許可を王に申請するつもりですので。その折は、協力をお願いしますよ。それに、そちらの騎士団長殿も最近は特にご機嫌が良いようで。おめでたいことがあったのなら、ともに喜びを分かち合いたいものです」

 エイはその背中に声もかけることができなかった。シールの調査が入れば、泉の存在が暴かれるのは時間の問題だ。

「……くそっ」

 静かな廊下にエイの低い呟きが響いた。いつも穏やかな彼の瞳には、焦燥と確かな敵意が宿っていた。一刻も早く、メアとディート団長に報告しなければならない。

 何としてでも、カナを守らなければ。エイは踵を返し、隊長室へと急いだ。

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