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騎士と泉の境界線  作者: 長島月海
第一章 森の主
1/13

静寂

 その森は、死の匂いがするはずだった。

 東部森林。人を拒み続ける魔物の巣窟。だが、今夜は違った。樹冠を抜けて降り注ぐ青白い月光の下、獣の咆哮も、獲物を咀嚼する生々しい音も、一切が絶たれている。

 静かすぎる。耳が痛いほどに。

 黒狼騎士団第三部隊隊長、メアは、愛剣の柄を指が白くなるほど握りしめた。漆黒の瞳が、凍りついた闇を鋭く射抜く。

 彼の背後では、副官エイを筆頭に、残る5人の団員が互いの死角を埋めるように扇状に展開し、足音一つ立てずに腐葉土を踏み締めていた。茂みを分ける手つきさえも、獲物を追い詰める狼のように執拗で、静かだ。

 白梟師団からの依頼は「魔物が消えた原因の究明」。だが、長年ここを死地としてきた彼らにとって、この無のような静寂こそが最大の脅威だった。

 部隊が森の最深部、底の見えない泉へと辿り着いたとき、彼らはその異変を目撃した。

 泉の縁、腰まで水に浸かり、ぼんやりと水面を見つめる一人の女。

 ただそこに、最初から風景の一部であったかのように佇んでいた。

「何者だ」

 メアが、隣に立つエイにだけ聞こえる密やかな声で問うた。

 魔物が消えた中心地に、これほど無防備な人間がいるはずがない。罠か、あるいは魔物が化けた何かか。

「……見たところ、人のようですが」

 エイは金色の瞳を細めた。その横で、赤髪の女騎士エフィが抜いた短剣の重さを確かめながら低く呟く。

「これだけの殺気に囲まれているのに、全く動かさない。……隊長、あれは餌かもしれない。私たちが近づくのを待っているのかも」

 その時だった。

 背後で、パキリ、と乾いた音が響いた。

 部隊の新米騎士ビィが、緊張に耐えかね、足元の枯れ枝を強く踏み抜いたのだ。

 真空の静寂を切り裂く、致命的な破裂音。

 ビィが顔を青ざめさせた瞬間、泉の女がゆっくりと顔を上げた。

 メアは即座に指で合図を送る。これ以上の潜伏は無意味だ。

「動くな!」

 メアの警告と同時に、騎士たちが一斉に散り、死角のない包囲網を敷いた。

「黒狼騎士団だ。指一本でも動かせば、その首を落とす」

 月明かりを反射する鋭利な鋼が、一斉に女の細い喉元を指し示す。逃げ場はどこにもない。

 それでも、女は動じなかった。彼女の視線は、水面を泳ぐ魚を追っている。

 パシャリ、と魚が跳ねた。

 銀色の鱗がきらめき、その口からこぼれた一粒の真珠が、女の手のひらに収まる。

「ありがと。まだ探すの?」

 女が魚に話しかけた。一触即発の殺気が渦巻く中に投げ込まれたその声は、あまりにも場違いで、あまりにも狂気に満ちていた。

「……おい、聞いてんのか?何者だって聞いてんだよ!」

 苛立ちを隠せないイーガが怒声を上げるが、女は一瞥もしない。

 メアの瞳が冷たく凍りついた。敵意にすら気づかないふりをするこの女の底知れなさに、最大限の警戒を向ける。

「エイ。捕らえろ。エフィ、ガルドは援護。少しでも怪しい動きを見せたら……腕の一本くらい落としても構わん。斬れ」

 エイが動き出す。一歩ごとに殺気を膨らませ、水辺へと近づき、女の細い肩へと鉄のような掌を伸ばした。

 その手が触れる直前、女が顔を上げた。

「ほしいの? どうぞ」

 差し出されたのは、濡れた小さな手のひら。虹色に輝く一粒の真珠。

 掴んだ手首から伝わる温度に、金色の瞳が大きく見開かれる。

「……冷たい」

 それは人の体温ではあったが、あまりにも冷え切っていた。まるで、生きた人間から「熱」だけを抜き去ったような温度。

 エイは困惑を押し殺し、女を手荒に岸へと引き上げた。濡れて張り付いた衣の間から見える白い肌を、エフィが射殺さんばかりの眼差しで監視する。

「ロープで縛れ。口も塞げ。妙な術を使わせるな。一人たりとも気を抜くな!」

 メアの怒号に近い命令に、ガルドが麻のロープを手に近づいた。女の腕を強引に背後に回そうと、その冷え切った肌に触れた、その瞬間。

 森の奥から、轟然たる地鳴りが巻き起こった。

 ただの風ではない。数千本の木々が一度に悲鳴を上げ、夜の静寂を暴力的に引き裂く。

 濃密な、そして明確な殺意を孕んだ黒い濁流が、逃げ場のない速度で騎士たちへと迫っていた。

全30エピです。

本日4/12でep12まで、以降は1日1エピ朝投稿です。

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