静寂
その森は、死の匂いがするはずだった。
東部森林。人を拒み続ける魔物の巣窟。だが、今夜は違った。樹冠を抜けて降り注ぐ青白い月光の下、獣の咆哮も、獲物を咀嚼する生々しい音も、一切が絶たれている。
静かすぎる。耳が痛いほどに。
黒狼騎士団第三部隊隊長、メアは、愛剣の柄を指が白くなるほど握りしめた。漆黒の瞳が、凍りついた闇を鋭く射抜く。
彼の背後では、副官エイを筆頭に、残る5人の団員が互いの死角を埋めるように扇状に展開し、足音一つ立てずに腐葉土を踏み締めていた。茂みを分ける手つきさえも、獲物を追い詰める狼のように執拗で、静かだ。
白梟師団からの依頼は「魔物が消えた原因の究明」。だが、長年ここを死地としてきた彼らにとって、この無のような静寂こそが最大の脅威だった。
部隊が森の最深部、底の見えない泉へと辿り着いたとき、彼らはその異変を目撃した。
泉の縁、腰まで水に浸かり、ぼんやりと水面を見つめる一人の女。
ただそこに、最初から風景の一部であったかのように佇んでいた。
「何者だ」
メアが、隣に立つエイにだけ聞こえる密やかな声で問うた。
魔物が消えた中心地に、これほど無防備な人間がいるはずがない。罠か、あるいは魔物が化けた何かか。
「……見たところ、人のようですが」
エイは金色の瞳を細めた。その横で、赤髪の女騎士エフィが抜いた短剣の重さを確かめながら低く呟く。
「これだけの殺気に囲まれているのに、全く動かさない。……隊長、あれは餌かもしれない。私たちが近づくのを待っているのかも」
その時だった。
背後で、パキリ、と乾いた音が響いた。
部隊の新米騎士ビィが、緊張に耐えかね、足元の枯れ枝を強く踏み抜いたのだ。
真空の静寂を切り裂く、致命的な破裂音。
ビィが顔を青ざめさせた瞬間、泉の女がゆっくりと顔を上げた。
メアは即座に指で合図を送る。これ以上の潜伏は無意味だ。
「動くな!」
メアの警告と同時に、騎士たちが一斉に散り、死角のない包囲網を敷いた。
「黒狼騎士団だ。指一本でも動かせば、その首を落とす」
月明かりを反射する鋭利な鋼が、一斉に女の細い喉元を指し示す。逃げ場はどこにもない。
それでも、女は動じなかった。彼女の視線は、水面を泳ぐ魚を追っている。
パシャリ、と魚が跳ねた。
銀色の鱗がきらめき、その口からこぼれた一粒の真珠が、女の手のひらに収まる。
「ありがと。まだ探すの?」
女が魚に話しかけた。一触即発の殺気が渦巻く中に投げ込まれたその声は、あまりにも場違いで、あまりにも狂気に満ちていた。
「……おい、聞いてんのか?何者だって聞いてんだよ!」
苛立ちを隠せないイーガが怒声を上げるが、女は一瞥もしない。
メアの瞳が冷たく凍りついた。敵意にすら気づかないふりをするこの女の底知れなさに、最大限の警戒を向ける。
「エイ。捕らえろ。エフィ、ガルドは援護。少しでも怪しい動きを見せたら……腕の一本くらい落としても構わん。斬れ」
エイが動き出す。一歩ごとに殺気を膨らませ、水辺へと近づき、女の細い肩へと鉄のような掌を伸ばした。
その手が触れる直前、女が顔を上げた。
「ほしいの? どうぞ」
差し出されたのは、濡れた小さな手のひら。虹色に輝く一粒の真珠。
掴んだ手首から伝わる温度に、金色の瞳が大きく見開かれる。
「……冷たい」
それは人の体温ではあったが、あまりにも冷え切っていた。まるで、生きた人間から「熱」だけを抜き去ったような温度。
エイは困惑を押し殺し、女を手荒に岸へと引き上げた。濡れて張り付いた衣の間から見える白い肌を、エフィが射殺さんばかりの眼差しで監視する。
「ロープで縛れ。口も塞げ。妙な術を使わせるな。一人たりとも気を抜くな!」
メアの怒号に近い命令に、ガルドが麻のロープを手に近づいた。女の腕を強引に背後に回そうと、その冷え切った肌に触れた、その瞬間。
森の奥から、轟然たる地鳴りが巻き起こった。
ただの風ではない。数千本の木々が一度に悲鳴を上げ、夜の静寂を暴力的に引き裂く。
濃密な、そして明確な殺意を孕んだ黒い濁流が、逃げ場のない速度で騎士たちへと迫っていた。
全30エピです。
本日4/12でep12まで、以降は1日1エピ朝投稿です。




