第9話 朝もやの濃い日、村から客が消える
監査前倒しの知らせが届いた翌朝、朝もやの村は、まるで谷そのものが口をつぐんだように静まり返っていた。
宿の表に吊るした鐘は鳴っていない。鶏も鳴かず、荷馬の鼻息すら遠い。戸を少しだけ開けたナイメは、白く濁った外気を見て、すぐに閉めた。見慣れた朝もやより色が重い。薄い乳色ではなく、湿った灰白だ。喉の奥がひやりとした。
「濃いですね」
帳場にいたドゥシャンが、すでに薬箱を開けていた。瓶の栓を抜く指に迷いがない。
「濃い。昨日の予報よりひと段階悪い」
「そんなこと、あるんですか」
「あるから困る」
言いながらも、彼は慌てない。慌てないからこそ、ナイメの背筋が伸びた。
次の瞬間、通話水晶が甲高く震えた。
「応答願います! 応答願います! 街道第三曲がり角、視界ほぼなし! 旅人二組が足止め中です!」
コニュの声だった。緊張すると一音ごとに肩へ力が入るらしく、今日の彼の声は少し上ずっていた。
「こちら出口の宿、受信しました」
ナイメは水晶へ身を寄せる。「避難誘導は可能ですか」
「護衛が一人足りません! それから、ええと、中和薬材の荷車がまだ来ません!」
ナイメとドゥシャンの視線が同時に合った。
来るはずの荷車が来ない。
それだけで嫌な匂いがした。
「予定では夜明け前に着いていたはずです」
ナイメは壁の予定板を見る。自分で引いた線が、今朝ばかりは皮肉のように見えた。「受領印の空欄もそのまま……」
「在庫を確認する」
ドゥシャンが立ち上がる。「ナイメ、薬材庫だ」
ふたりで奥へ走ると、棚の木札が頼りなく揺れた。乾燥葉、根茎、粉末、香油。いつもならきちんと並んで見える薬材が、その朝は残量の少なさばかりを主張していた。
ナイメは一段目から三段目まで視線を滑らせ、喉の奥で計算した。
「通常使用なら三日、濃霧対応を続けるなら一日半です」
「絞るしかないな」
「絞るだけでは危ないです」
ナイメは棚の横に掛けた使用記録板を外した。前夜まで書き込んでいた数字が、まだ新しい。
「高濃度用を重症者優先。軽症者は簡易包と薬湯でつなぎます。種類ごとにローテーションを組みます」
「ローテーション?」
「同じ棚の同じ薬だけ先に減ると、補充の遅れが命取りになります。使う順を回して、全体を一日でも長く保たせます」
口にした途端、頭の中で線がつながった。宿の布類も、台所の乾物も、診療所の薬材も同じだ。足りないときほど、場当たりではなく回す。
ナイメはすぐ板へ書き始めた。
朝一番の診療用、避難誘導後の休息用、子どもと老人優先、旅人向け簡易包。瓶の位置を動かし、札の色を替え、誰が見ても迷わない並びにしていく。
「シュクルティさん!」
台所に向かって声を張る。「薬湯は薄めず、量を小分けにしてください。空腹の人向けに粥を増やします。塩は控えめで!」
「はいはい、今日はやたら忙しい朝だね!」
返事と一緒に鍋の蓋が鳴る。宿が起き出す音だった。
そのころ表では、ヘルヴァルトがすでに霧の中へ踏み出しかけていた。肩に外套、腰に縄、顔だけは妙に勇ましい。
「待ってください!」
ナイメは玄関から叫んだ。「単独行動はなしです!」
「だが荷車を拾えりゃ早いだろ」
「早くても倒れたら意味がありません!」
「俺は倒れん!」
「そういう人から先に倒れるんです!」
ぴしゃりと言うと、ヘルヴァルトは一瞬だけ口をつぐんだ。だが次の瞬間には、子どもに叱られた大人みたいな顔で頭をかく。
「じゃあどうする」
「二手です」
ナイメは息を整えた。「ドゥシャンとシイレさんに、荷車の遅延原因を見てもらいます。ヘルヴァルトは村の外れまで。無茶はしないで、足跡と車輪の跡を確認してください。見つけても一人で突っ込まないこと」
「念押しが多いな」
「前科が多いからです」
後ろでコニュが吹き出しかけ、慌てて咳に変えた。
まもなくシイレが護衛団の外套を翻して現れた。霧で濡れた前髪を払う手つきが速い。
「聞いた。荷車が消えたんだって?」
「消えたというより、消された気がします」
ナイメは答えた。「街道の濃霧と同じ日に遅れるなんて、できすぎです」
「同感。行くよ、医官」
「行く」
ドゥシャンは手早く予備の簡易包を肩鞄へ詰めた。出ていく前、振り向いてナイメを見る。
「一人で背負うな」
「背負っていません」
「顔が背負ってる」
その言い方に、こんな朝だというのに少しだけ笑いそうになった。
「回します。宿を」
ナイメがそう言うと、ドゥシャンは短くうなずき、シイレと一緒に白い霧へ消えた。
そこから先は、時間が細切れになった。
第三曲がり角から救護した旅人二人。谷口から引き返してきた行商人一人。咳をする村の老人。霧が怖くて泣き出した子ども。ナイメは帳場と食堂と薬材庫と玄関を、何度も往復した。誰に何を渡したか、どの瓶をどこまで使ったか、避難した人数が今何人か。数字を頭に置いたまま動き続けると、不思議と足は止まらなかった。
「次、軽症二名です!」
「薬湯を先に。簡易包は青札の棚から二つ」
「青札ってどれ!?」
「左から二番目、札に丸が二つ!」
手伝いの村人たちも、最初は慌てたが、札の色と板書きのおかげで少しずつ迷わなくなった。ローテーション表の前では、普段なら大ざっぱなヘルヴァルトでさえ、帰ってくるなり律儀に印をつけた。
「外れの藪に妙な車輪跡があった」
彼は息を切らしながら言った。「街道本道じゃない。裏手の細道に荷車を逃がした形だ」
「一人で追いませんでしたね」
「今回はな!」
「えらいです」
「子ども扱いするな!」
怒鳴る声に食堂の空気が少し緩み、座っていた旅人までくすっと笑った。
昼近く、ようやくドゥシャンとシイレが戻った。ふたりの外套は霧と泥で重そうだったが、顔は険しい。
「わざとだ」
シイレが短く告げる。「荷車は街道脇で止められてた。車輪止めを外から打ち込んだ跡がある」
「荷馬まで怯えさせてあった」
ドゥシャンが続ける。「自然な足止めじゃない」
ナイメの背中に冷たいものが走る。
やはり、ただの不運ではなかった。
「荷は」
「取り戻した。ただし全部ではない。木箱を二つ抜かれていた」
「中身は?」
「高濃度用の中和粉末だ」
最悪に近い答えだった。けれどナイメは、そこで顔を伏せなかった。伏せたくなる気持ちはあったが、その暇がなかった。
「残量で回します」
自分でも驚くほど声が落ち着いていた。「通常対応を続けながら、監査用の記録も残します。今日の遅延も、抜かれた箱の数も、全部」
シイレがじっとナイメを見た。
「あんた、前よりずっと現場向きの顔になったね」
「うれしくない褒め言葉です」
「私は褒めてる」
そのとき、玄関のほうで小さな騒ぎが起きた。霧の向こうから、若い旅人の夫婦がふらつきながら入ってくる。女のほうが胸元を押さえ、男は青ざめていた。
「道標が消えていました……!」
男が叫ぶ。「宿へ向かう印板が、途中から外されていて……!」
まただ、とナイメは思った。
荷車だけではない。客そのものを宿へ近づけないつもりだったのだ。
ヘルヴァルトの眉が跳ね上がる。
「誰だ、そんな陰湿な真似を――」
「今は後です」
ナイメは遮った。「先に休ませましょう」
女を椅子へ座らせ、ドゥシャンが診る。男へ薬湯を渡しながら、ナイメは胸の中で、確かな怒りが形を持つのを感じていた。
以前の自分なら、ここで黙っていたかもしれない。
記録だけ残して、波風を立てない道を探したかもしれない。
けれどもう、それでは足りないとわかっている。
この村から客が消えれば、宿は潰れる。
宿が潰れれば、毒の谷を越える人たちの出口がなくなる。
そして何より、この場所で踏ん張ってきた人たちの手が、また数字の向こうで切り捨てられる。
それは嫌だった。
絶対に、嫌だった。
夕方、霧は少しだけ薄れた。窓の外に、ようやく柵の輪郭が浮かぶ。
帳場に戻ったナイメは、今日一日の記録板を机へ並べた。避難人数、薬材消費、荷車遅延、道標欠損、旅人証言。紙の上に並ぶ文字は多い。だが、以前のように文字へ埋もれる感覚はなかった。
文字は今、自分を守るためではなく、守りたいものを残すためにある。
ドゥシャンが隣へ立つ。
「無茶をしたな」
「しています。現在進行形で」
「そうだな」
彼は少しだけ口元を緩め、それから机上の記録を見る。
「よく回した」
「回さないと止まりましたから」
「それでも、よくやった」
まっすぐ言われると、まだ少し困る。
困るのに、胸の内側は静かに温かくなる。
ナイメは羽根筆を置き、窓の外の薄い霧を見た。
朝、あれほど重く見えた白さが、今は別のものに思えた。
晴れてはいない。先もまだ見通せない。監査も、不正の証拠集めも、これからが本番だ。
それでも自分は、もう宿の外で立ち尽くすだけの人間ではない。
「ドゥシャン」
「何だ」
「私、前ならたぶん……見ないふりをしていました」
彼は答えを急がなかった。
「でも今日は、それができませんでした」
「できなくなったんだろう」
「はい」
ナイメは小さく息を吐く。
「ここが困ると、嫌なんです」
言葉にした瞬間、妙に腑に落ちた。
守りたい、と大きく言うにはまだ照れがある。けれど、ここが困るのは嫌だ。その感情は、もうごまかせないところまで来ていた。
ドゥシャンは、いつものように余計な飾りをつけなかった。
「それで十分だ」
夕暮れの食堂では、シュクルティが鍋をかき混ぜ、コニュが水晶の点検をし、ヘルヴァルトが外された道標の本数をぶつぶつ数えていた。誰も楽ではない顔をしている。けれど、誰一人として諦めた顔はしていない。
ナイメは記録紙をまとめ、紐で結んだ。
明日はもっと忙しいかもしれない。
また別の妨害が来るかもしれない。
それでも、紙も、人も、ちゃんとつないでいく。
白い朝もやの向こうに何があるのか、まだ全部は見えない。
だが少なくとも、自分が立つ場所だけは、もうはっきりしていた。




