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追放された事務官は、朝もやの村の薬湯宿で恋と再建を拾い直す  作者: 乾為天女


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第8話 淡いマフラーと、言えなかったこと

 秋市の翌朝は、昨日の賑わいが嘘のように静かだった。


 広場に張られていた布天幕は半分ほど外され、木箱の隙間には、夜露を吸った紙片がひっそり貼りついている。宿の裏手では、使い終えた鍋が逆さに伏せられ、干した布巾が白い息のような朝の空気の中で揺れていた。初秋の終わりと思っていた空気は、いつの間にか一段深く冷えている。ナイメは戸口を開けた瞬間、指先へ触れた寒さに肩をすくめた。


 「……寒い」


 声に出すと、なおさら本物になる。


 帳場には昨夜まとめた売上帳がきちんと積んであり、その横に、今朝届いた仕入れ控えが三枚。秋市の翌日だからこそ、片づけることは多い。ナイメは両手をこすってから卓上の小さな火鉢に炭を足し、まずは在庫の確認へ向かった。


 冬支度の前に、宿の空き倉庫も整理しておきたい。薬草束、毛布、替えの木札、破れた衝立、祭り用の古い飾り紐。余計な物を減らしておかなければ、いざ毒霧が濃くなった日に人を泊めきれない。


 裏の倉庫は、朝の光が入りにくいぶん冷えが強い。扉を押し開けた瞬間、乾いた藁の匂いと、 오래く使われた木箱の甘い匂いが鼻をくすぐった。ナイメは腕まくりを一度やめ、結局また袖を下ろした。


 「今日は片づけ向きじゃありませんね……」


 ぼやきながらも、手は動く。


 棚の上段から空の瓶箱を下ろし、角の割れた盆をよけ、古布を仕分ける。使える物、補修すれば使える物、もう駄目な物。分類していくうち、倉庫の奥から細い木箱が出てきた。蓋には薄く埃が積もっているが、留め具は意外に新しい。


 持ち上げると軽い。


 何だろうと思って蓋を開くと、中には淡い灰青色の毛糸がふわりと収まっていた。


 マフラーだった。


 霧の薄い朝空みたいな、やわらかな色だった。端は少し毛羽立っているが、大事に巻かれていたらしく、ひどい傷みはない。ナイメはそっと取り上げ、指先で編み目をなぞった。粗いところと丁寧なところが混ざっている。慣れない人が、一目ずつ数えながら編んだのだろう。


 「……誰の」


 独り言は、冷えた倉庫の中へ吸い込まれた。


 そのとき、背後の扉がきしんだ。


 「こんなところにいたのか」


 振り返ると、シュクルティが湯気の立つ器を持って立っていた。朝の仕込み前らしく、髪を後ろで高くまとめ、肩に布を掛けている。


 「探したよ。食堂で温かいの飲ませようと思ったのに」

 「倉庫の片づけを先にしようかと」

 「こんな冷える日に? あんた、本当にたまに変な順番で動くね」


 言いながらも、シュクルティは器を差し出してくれた。薬草入りの薄い粥だった。受け取った手のひらへ、ようやく熱が戻る。


 「ありがとうございます」

 「で、何を見つけたの」


 ナイメがマフラーを持ち上げると、シュクルティは一瞬だけ目を細めた。


 「ああ、それ」

 「知っているんですか」

 「知ってるとも。前にここで働いてた見習いの子のだよ」

 「見習い?」


 シュクルティは倉庫の戸口に寄りかかり、少しだけ遠い目をした。


 「今よりもっと宿がしんどかったころ、王都からひとり流れてきた子がいてね。事務も接客も半端で、薬草の名前もよく間違えて、よく泣いてた。でも、客の靴を乾かすのだけは誰より先に気づく子だった」


 ナイメはマフラーを見下ろした。


 編み目の不揃いさが、急に人の手の温度を帯びて思えた。


 「その人は、今は」

 「いないよ。村に流れ着いた旅人のひとりと一緒に、次の町で店を持つって出ていった」

 「追い出されたわけではなく」

 「まさか。ここで立て直して、元気になって、出ていったのさ」


 シュクルティは言い切ってから笑った。


 「宿ってのは、ずっと閉じこめる場所じゃないんだよ。休んで、整えて、また歩けるようにする場所だ。だから“出口の宿”なんだろうね」


 その言葉が、ナイメの胸へ静かに落ちた。


 ここは残るための場所だと思っていた。消えないために守る場所だと。けれど本当は、それだけではない。誰かが次へ行けるようにする場所でもある。


 王都を追われてきた自分にも、その意味は無関係ではないのかもしれなかった。


 「置いていったんですか。このマフラー」

 「次の町で新しいのを買うからってね。だけど、捨てるに捨てられなくて箱にしまったままだった」

 「……きれいです」

 「そうだね。下手だけど、まっすぐだ」


 下手だけど、まっすぐ。

 その言い方が、なぜか誰かを思わせた。


 ナイメは器の粥をひと口すすり、マフラーをもう一度畳み直した。


 「少し借りてもいいでしょうか」

 「寒いんだろ。使いな」

 「持ち主に悪いような」

 「大丈夫。あの子なら、誰かが使ってくれるほうが喜ぶよ」


 倉庫を出るころには、マフラーはナイメの首に巻かれていた。肌触りは驚くほどやさしく、色の薄さのわりにきちんと暖かい。食堂へ戻る途中、通路の角でヘルヴァルトと鉢合わせた。


 「お、似合うじゃないか」

 「朝から声が大きいです」

 「褒めたのに!」

 「それはどうも」


 ヘルヴァルトは肩に板材を担ぎ、にやにやとこちらを見る。


 「昨日の名残りで機嫌がいいのかと思ったが、今日はなんだ、落ち着いてるな」

 「片づけが山ほどあるので」

 「いや、そういう落ち着きじゃなくて」


 言いかけたところへ、奥からコニュが走ってきた。


 「応答願います! 広場の片づけ班が縄の数で内輪揉めです!」

 「そんな大げさな言い方をするな」

 ヘルヴァルトが眉をひそめる。

 「縄は足りてるのか」

 「足りています!」

 「なら揉める理由がないだろ!」


 朝からいつもの調子だ。


 ナイメは一瞬だけ笑い、帳場へ戻った。だが笑ってから、首元の毛糸へそっと触れる。昨日の秋市の熱が引いたあとだからこそ、胸の奥に残るものが余計に鮮明だった。


 ドゥシャンの手。

 自分を見ていた、あの静かな目。

 そして、妙な顔をしていた、と言われたときの逃げ場のなさ。


 昨夜は忙しさに紛れた。けれど今日は、紛らわせるものが少ない。


 昼前、診療所から補充依頼の札が届いた。解毒茶葉、乾燥果皮、喉の炎症止め。ナイメは倉庫から必要数を揃え、木箱に収めて裏庭を横切った。


 診療所の窓は半分だけ開いており、中から薄い薬草の香りが流れてくる。今日は患者が少ないらしく、待合の椅子も静かだった。戸を叩くと、すぐにドゥシャンの低い声が返る。


 「入っていい」


 中へ入ると、ドゥシャンは机に向かって報告書を書いていた。白い袖を肘まで捲り、羽根ペンを持つ指先だけが淡く墨で汚れている。ナイメはその手を見ないようにしようとして、最初にそこを見てしまった。


 「補充です」

 「助かる」


 木箱を受け取るとき、彼の視線がナイメの首元で止まった。


 「寒かったのか」

 「今朝から急に」

 「その色、珍しいな」


 淡い灰青。

 自分では似合うかどうかもよくわからない。ただ、彼にそう言われるだけで、妙に落ち着かなくなる。


 「倉庫で見つけました。前に宿にいた見習いの方のものだそうです」

 「……ああ」

 ドゥシャンは少しだけ表情をやわらげた。「覚えている」

 「あなたも?」

 「何度か診た。冬の入口に咳をこじらせやすい人だった」


 彼は木箱を机へ置き、椅子をひとつ勧めた。


 「座れ。少し温まっていけ」

 「仕事の途中では」

 「今、患者はいない」

 「でも」

 「座れ」


 命令というほど強くないのに、逆らいにくい声音だった。ナイメは結局椅子へ腰を下ろした。診療所の奥では、煎じたばかりの薬湯が小さく泡を立てている。戸外の冷えと違い、ここには落ち着いた暖かさがあった。


 「その見習いの人は、この宿で元気になって出ていったそうです」

 「そう聞いた」

 「出口の宿、なのですね」


 ナイメが言うと、ドゥシャンは机の上で指を止めた。


 「何だと思っていた」

 「……正直に言うと、追いやられた人が流れ着く場所かと」

 「それは間違っていない」


 あっさり認められ、ナイメは目を瞬いた。


 「だが、それだけならただの行き止まりだ」

 ドゥシャンは静かに言った。「ここで整えて、また歩けるようになるなら、出口でいい」


 その言い方が、胸のどこかにひっかかった。


 「あなたも、そうですか」

 「何が」

 「ここへ来たこと」


 少しの間、部屋の中には薬湯の煮える音しかなかった。


 問いとして軽くはないと、口にしてからわかった。けれどドゥシャンは怒らなかった。報告書を伏せ、窓の外へ一度だけ視線をやる。


 「……出口だった、とはまだ言い切れない」


 その答えは、予想していたよりずっと正直だった。


 「王都を出るとき、患者をひとり置いてきた」


 ナイメは息を詰めた。


 彼が王都で不正な薬効報告への署名を拒んだ話は聞いていた。だが、その先に置いてきたものまでは知らない。


 「毒霧による慢性の傷みを抱えた女性だった。正式な治療継続が必要だと申請したが、上は費用対効果が低いと切った」

 ドゥシャンの声は静かだった。静かすぎて、かえって痛みが見えた。「俺は署名しなかった。報告を偽るくらいなら飛ばされるほうがましだと思った。だが、飛ばされたあとで彼女がどうなったか、最後まで確認できなかった」


 ナイメは手元の指をきつく組んだ。


 言葉が見つからない。軽い慰めは、ここでは失礼にしかならない。


 「救えなかったと、今も思う」

 ドゥシャンはそう言ってから、ほんの少しだけ苦く笑った。「医官のくせにな」


 「……そんなふうに言わないでください」


 ナイメは気づいたときには口を開いていた。


 「全部を背負っていい立場なんて、ないでしょう」

 「あると思っていた時期があった」

 「私は、それで壊れる人を見ました」


 今度は自分の番だった。


 言いたくない話ではある。けれど、今ここで黙ってしまったら、彼だけに重いものを言わせることになる。


 首元のマフラーに触れながら、ナイメはゆっくり息を吸った。


 「王都で予算流用があったとき、私は気づいていました」


 ドゥシャンの目がこちらを見る。


 「最初の一度だけなら、記入癖の違いかなと思えたんです。でも二度、三度と続いて、差し替えられた控えも見た。おかしいと、わかっていました」

 「それを言えなかった」

 「はい」


 認めると、喉の奥が少し熱くなる。


 「正しく言えば、言わなかったんです。見つけたところで、誰も守ってくれないと思っていたから。自分まで潰れるのが怖かったから。結果として、後で帳尻を合わせる役だけが私の机へ回ってきました」


 机の木目を見つめる。

 王都の白い応接室、押しつけられた札、整いすぎた廊下。忘れたわけではない。


 「だから私は、被害者みたいな顔をしてここへ来ましたけど……半分は自分のせいでもあります。見ないふりをして、黙っていたから」


 診療所の空気がしんと張った。


 だが次の瞬間、ドゥシャンの声は思っていたよりずっとやわらかかった。


 「半分ではない」

 「でも」

 「黙ったことを悔いるのはわかる。だが、仕組んだ側と同じ重さで背負う必要はない」


 その言葉は、慰めとしては不器用だった。きれいに傷を撫でる種類の言い方ではない。けれど、だからこそ嘘がなかった。


 「君は、今ここで見ないふりをしていない」

 ドゥシャンは言う。「宿の帳簿も、薬材の流れも、広告料も、全部見ている。逃げたくても見ている」


 ナイメは唇を噛んだ。


 「逃げたいですよ」

 「知っている」

 「できれば今でも、何もかも放り出して帰りたい日があります」

 「それも知っている」

 「だったら」


 そこで、声が少しだけ崩れた。


 「だったら、どうしてそんなふうに……平気そうに言うんですか」


 ドゥシャンは少し考えたあと、短く答えた。


 「平気ではないからだ」


 まっすぐすぎて、返す言葉がなかった。


 「平気ではない人間同士なら、せめて嘘は減らしたほうがいい」


 ナイメは俯いたまま笑った。泣きそうなのに、なぜか笑ってしまう。


 「それ、ずるい言い方です」

 「そうか」

 「そうです」


 沈黙が落ちる。


 けれど気まずくはなかった。誰かの前で、自分の後ろめたさを言葉にしたのは初めてだったかもしれない。王都では、言えば弱みになると思っていた。ここでは、言ったあと少しだけ呼吸がしやすい。


 ドゥシャンが薬湯を二つの小椀へ注いだ。一つを差し出され、ナイメは受け取る。湯気の向こうで、彼の顔が少しだけやわらいで見えた。


 「そのマフラー」

 彼が言う。

 「よく似合っている」


 湯気の熱とは別のものが、一気に耳まで上がった。


 「……今の話のあとに、それを言いますか」

 「今の話のあとだからだ」

 「理屈がわかりません」

 「俺にはわかる」


 ひどい。

 ひどいのに、心臓は素直に速くなる。


 ナイメは薬湯をひと口飲んだ。苦くて、少し甘い。喉を通るころには、さっきまでの冷えがだいぶほどけていた。


 その後、診療所を出るころには空が薄く曇り始めていた。夕方へ向かうにはまだ早い時間なのに、光の色が鈍い。風も、朝より湿っている。


 裏庭で薪を運んでいたヘルヴァルトが空を見上げた。


 「嫌な色だな」

 「霧が来ますか」

 ナイメが尋ねる。

 「夕方には少し濃くなるかもな。コニュに確認させる」


 その言葉の通り、昼すぎには通話水晶が短く鳴った。帳場へ戻ったナイメが受話台に触れると、向こうでコニュが妙に小声で言う。


 「応答願います……本日は、谷の下層部で湿り気を含んだ朝もや残りが観測されています」

 「どうして今日はそんな控えめなんですか」

 「さっきヘルヴァルトさんに、朝から声が大きいと言われまして」

 「その調整は今しなくていいです。要点を」

 「夕刻、濃度が一段上がる可能性あり。旅人への早めの宿泊誘導を推奨します!」

 「最後だけ元気ですね」


 だが必要な連絡だった。


 ナイメはすぐに食堂の火を増やし、客室の毛布を追加し、解毒茶の用意を頼んだ。秋市の翌日で村に残っていた旅人もいたから、対応は早いほうがいい。忙しさが戻ってくると、胸の奥の柔らかい痛みは少しだけ仕事の後ろへ隠れる。


 夕方、薄い霧がほんとうに谷から上がってきた。


 白い膜のような朝もやが地面をなめるように流れ、宿の階段の一段目をかすめる。強い濃度ではないが、喉の弱い人には十分つらい。ドゥシャンは診療所と宿を行き来し、シュクルティは湯を切らさず、ヘルヴァルトは旅人を急かして部屋へ押し込んだ。ナイメは帳場で名簿を整理しながら、足りない物を頭の中で順に並べていく。


 解毒茶葉、毛布、洗い桶、予備護符、通気布。まだ回せる。まだ大丈夫。


 そう思った矢先、扉が強く叩かれた。


 「街道組合の使いです!」


 嫌な予感は、こういうとき外れない。


 ナイメが戸口へ向かうと、霧除け布を被った使者が封筒を差し出した。封蝋には街道組合の紋。受け取っただけで、紙の重みが不愉快だった。


 「至急とのことです」

 使者はそれだけ言って去っていく。


 帳場へ戻り、ナイメは封を切った。


 文面を目で追った瞬間、背筋が冷えた。


 「……前倒し?」


 声が漏れる。


 そこへ戻ってきたドゥシャンが、彼女の顔色を見て足を止めた。


 「何だ」

 「監査日程です。次の合同確認……予定より七日早い」


 ドゥシャンが手を差し出し、文面を読む。読み終えた彼の目がすっと細くなった。


 「理由は」

 「街道混雑期に備えた暫定調整、だそうです」

 「嘘だな」

 「私もそう思います」


 秋市で売上が出た直後、しかも霧が出始めた日に、この通達。

 偶然で片づけるには都合がよすぎる。


 ナイメの指先が、知らず封書の端を強くつまんでいた。


 「まだまとめきれていない記録があります。事前予約の控えも清書途中ですし、薬材の納品遅れ一覧も整え直す必要が」

 「落ち着け」

 「落ち着いています」

 「嘘だ」


 即答された。


 ナイメは顔を上げる。


 「……嘘です」


 認めるしかない。心臓の音がうるさい。せっかく少しずつ積み上げてきたものを、また上から踏みにじられる気がした。


 「ですが、やります」


 自分で言った言葉が、驚くほどはっきりしていた。


 「やらないと、ここまでの数字も、人も、全部また勝手に消される」


 ドゥシャンは数秒だけ黙り、それからうなずいた。


 「なら、俺もやる」

 「あなたはいつもやっています」

 「今日はいつもより多くやる」


 その返しが、ひどく彼らしい。


 そこへヘルヴァルトが駆け込み、後ろからコニュ、さらにシュクルティまで顔を出した。霧対応の合間でも、空気の変化はすぐ伝わる。


 「何だ、また面倒か」

 ヘルヴァルトが言う。

 「また、です」

 ナイメは封書を掲げた。「監査が七日早まりました」

 「七日!?」

 コニュが裏返った声を出す。

 「応答願います! それは応答したくない情報です!」

 「今のはうまくないねえ」

 シュクルティが眉をしかめたが、次の瞬間には真顔になった。「で、何を片づければいい」


 その問いに、ナイメは一瞬だけ息を呑んだ。


 王都では、こんなふうに訊かれたことがなかった。

 責任を押しつける言葉ならいくらでもあった。けれど、何をやればいい、と同じ側へ立つ前提で問われることは少なかった。


 胸の奥で、何かが静かに定まる。


 「まず、今夜のうちに秋市収益の清書を終えます」

 ナイメは言った。「コニュ、事前予約の伝達記録を全部持ってきてください。比喩は抜きで」

 「了解です!」

 「ヘルヴァルトは、街道側の案内板と宿の玄関まわりを明朝までに整備してください。見た目の雑さを減らします」

 「任せろ」

 「シュクルティは食事と薬湯の提供数を三日分まとめて。監査時に改善実績として見せます」

 「すぐやるよ」

 「ドゥシャンは」


 そこで一度、彼を見る。


 「診療記録のうち、宿泊と救護が連動した事例を抜き出してください。出口の宿が機能している証明に使います」

 「わかった」


 指示を口にするたび、頭の中の散らばった紙片が整っていく。


 七日早まったなら、七日分の無駄を削ればいい。

 怖い。焦る。逃げたい。

 それでも、もう見ないふりだけはしない。


 外では白い霧が、宿の明かりの下で淡く揺れていた。

 首元のマフラーは変わらず温かい。


 前にここで働いていた見習いは、この宿から次の町へ出ていった。

 自分はどうするのか、まだわからない。

 けれど少なくとも今夜は、ここでやるべきことがある。


 ナイメは封書を畳み、帳場の中央へ置いた。


 「始めましょう」


 誰に聞かせるでもなく言ったその一言に、部屋の空気がはっきり動いた。


 出口の宿は、また忙しい夜になる。

 だが今度は、ただ追い立てられるだけの夜ではない。

 言えなかったことを胸に抱えたままでも、人は前へ手を伸ばせる。


 そのことを、ナイメは淡い毛糸のぬくもりと一緒に、たしかに知り始めていた。



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