第7話 恋のオークションは、資金集めのためです
イルミジェの監査から十二日後、朝もやの村は朝から落ち着きがなかった。
初秋の終わりが見え始め、谷を渡る風には冷えが混じる。けれど村の広場だけは、鍋の湯気と人の声と、荷車の軋む音で妙に温かかった。年に一度の秋市の日である。谷の向こうから薬草商、街道を渡る行商、冬前に毛織物を売りたい織師、湯治目当ての旅人まで、思ったより多くの人が村へ入ってきていた。
出口の宿の表にも、昨夜のうちに磨いた木札が掛かっている。
谷越え前の薬湯あり。
解毒包あります。
体を温める軽食あります。
宿泊、休憩、診療所連携。
最後の一行だけ、ダグフィンがどうしても「命拾いの入口はこちら」にしたがったのを、ナイメが全力で止めた。結果、看板は比較的まともな形に収まったが、その代わり今度は広場の中央で別の無茶を始めている。
「はい注目、注目。みなさま、本日の目玉はこちら」
仮設の台の上へひらりと飛び乗ったダグフィンが、赤い布を大げさに翻した。そこには炭で大書きされた札が立っている。
恋のオークション。
朝から何度見ても、字面がだめだった。
「やっぱり名前を変えませんか」
ナイメは台の下から言った。
「親睦一日同行競り市とか」
「誰も寄りつかないね」
「少なくとも誤解は減ります」
「誤解で足を止めた人に、健全さで安心して金を出してもらうんだよ。商売の基本だ」
「その基本、私はあまり好きではありません」
ダグフィンは笑って、広場を見渡した。
すでに通りすがりの旅人が何人も足を止めている。村人たちも半分あきれ、半分だけ面白がる顔をしていた。
結局この催しは、宿の改修費と広告料の足しを集めるために必要だと押し切られた。中身はたしかに健全である。案内役、星見役、薬草散歩同行役、荷物持ち手伝い役、食事席の相伴役。そうした「一日だけ一緒に動く権利」に値をつけてもらい、その収益を宿と村の運営へ回す。危ういのは名前だけ、というのがダグフィンの説明だった。
ナイメとしては、危ういのが名前だけでも十分に危うい。
「管理人さん、顔が硬いですよ」
シュクルティが鍋をかき混ぜながら笑った。大鍋の中では、根菜と刻んだ薬草を煮込んだ湯気が立ちのぼり、空腹をまっすぐ刺激する匂いが広がっている。秋市に合わせ、今日は椀物と薄焼き麦餅をいつもより多く出す段取りだ。
「硬くもなります」
ナイメは言った。
「村の広場の真ん中で、恋の、と書いた札を掲げているんですよ」
「でも朝から客が増えたでしょう。宿の軽食券も結構売れてる」
「それは、はい」
「だったらひとまず眉間を休ませなさい。寄り道した皺って、戻るのが遅いんだから」
皺と言われて思わず眉間を押さえると、シュクルティが声を立てて笑った。からかわれたとわかっても、忙しさの中では言い返す余裕がない。
帳場ではコニュが通信水晶へ向かって息を吸い込み、張り切った声を飛ばしていた。
「応答願います! 朝もやの村、本日秋市開催中! 出口の宿、軽食よし、薬湯よし、同行競りは健全そのもの、誤解だけ置いてお越しください!」
「最後が余計です!」
ナイメは反射で言った。
コニュはびくりと肩を揺らしたが、水晶の向こうへは最後まで流れてしまったらしい。頭を抱えたくなったそのとき、広場の端でどっと笑いが起きた。ヘルヴァルトが客寄せのつもりで剣帯もないのに胸を張り、「護衛役なら任せろ、谷風より先に危険を見つける」と言い出したところへ、子どもが「この前は穴に先に落ちてた」と暴露したのだ。
「違う、あれは地面の確認だ」
「落ちてましたよ」
ナイメが言う。
「両足で」
「言い方!」
けれど、そのやりとりに旅人たちの肩がほぐれたのも事実だった。堅すぎる村より、多少騒がしくても笑い声がある場所のほうが、人は足を止める。
午前のうち、宿の軽食は想定よりよく出た。薬湯だけのつもりで立ち寄った旅人が、椀物の匂いにつられて席につき、そのまま解毒包や護符も買っていく。ナイメは売上札を書き込みながら、数字が少しずつ積み上がる感覚を何度も確かめた。ひとつずつは小さい。けれど小さいものが揃えば、帳簿の上ではきちんと重くなる。
昼を少し回ったころ、いよいよ競りの一番札が上がった。
「最初はこちら。朝もやの村、元護衛騎士ヘルヴァルトによる、谷道半日案内と荷運び一式」
ダグフィンが声を張ると、思った以上に手が挙がった。
旅の若い商人が面白半分に口火を切り、薬草商の女主人がすぐに上乗せする。さらに、冬物の布を積んだ老夫婦まで値を重ねた。
「なぜこんなに」
ナイメが思わずつぶやくと、シュクルティが小声で言った。
「力仕事ができて、話し相手にもなるからじゃない?」
「話し相手は疲れませんか」
「そこは当たり外れね」
結局、ヘルヴァルトの札は予想の二倍近い額で落ちた。
本人は台の上で胸を張り、落札した老夫婦に向かってやたら低い声で礼を言っている。すでに格好をつけていた。
「いいか、管理人さん」
台から降りてきたヘルヴァルトが得意げに言う。
「人望というのは日頃の積み重ねなんだ」
「日頃の騒がしさの間違いでは」
「君、もう少し祝ってくれてもいいだろ」
「収益には感謝しています」
「感謝が硬い」
次に出たのは、コニュの「夕刻の通信朗読見学権」だった。
彼は出番の前から背筋を伸ばし、なぜか胸元に小さな花まで挿していた。だが、札が上がらない。広場に静寂が落ちる。
「応答願います!」
本人が勢いで言ったが、なお上がらない。
沈黙があまりに痛々しく、ナイメが財布へ手を伸ばしかけたところで、通りがかりの少女が母親の袖を引いた。
「おかあさん、あのおにいさん、ちょっとかわいそう」
その一言で場が崩れ、笑いながら何人かが小銭を積んだ。結果として落札はされたものの、金額は本日の最低額である。コニュは「落札そのものに意味があります」と言っていたが、耳だけ少し赤かった。
そして、広場の空気が変わったのは三番札だった。
「続きまして、出口の宿と診療所より」
ダグフィンがわざと間を取る。
「解毒医官ドゥシャンによる、薬草散歩同行権。谷沿いの採取道を歩きながら、効能の見分け方と煎じの基礎を聞けます。必要であれば、体質相談も多少」
その説明が終わるより先に、三つ、四つと手が挙がった。
ナイメは思わず顔を上げた。
台の脇に立つドゥシャンは、いつもの無表情に近い顔をしている。ただ、少しだけ困っているときにだけ現れる、眉間のごく浅い線があった。
「え」
ナイメの口から、声にならない音が漏れた。
若い旅装の女性二人組、薬草商、街道を越えてきた宿屋の女将、なぜか遠くの村の診療補佐まで加わり、額がするすると上がっていく。薬草散歩である。半日、草を見て歩く権利にしては、どう考えても高い。
「人気ですねえ」
ダグフィンがわざとらしく言った。
「実益と静かな顔立ちの両立が評価されたか」
ナイメは帳場の控え札を握ったまま、変なところへ力が入った。
もちろん収益が出るのは良い。良いに決まっている。広告料の足しにもなるし、村の名物として話題にもなる。頭では理解している。理解しているのに、胸の真ん中に、針先ほどの何かがひっかかった。
「管理人さん」
シュクルティが含み笑いで言う。
「湯がこぼれる」
見れば、持っていた椀が少し傾いていた。慌てて持ち直す。
「別に、何でもありません」
「そういう顔をしてない」
「どういう顔ですか」
「うーん。今すぐ自分でも意味を知りたくない顔」
返事ができなかった。
競りはさらに続いた。ドゥシャンの札は、結局、街道沿いの大きな宿を切り盛りしている女将が落とした。彼女は真剣な顔で「冬前に解毒包の扱いを見直したかったの」と言っていたので、少なくとも表向きは実務のためらしい。らしいのだが、らしい以上の何かを勝手に考えたくなる自分がいて、ナイメはますます面倒だった。
その次に出された「星見役」は、ゲルマナが静かな説明つきで請け負い、落ち着いた額で決まった。村の夜空は濃く、谷の上にひらけた場所からは街道沿いでも珍しいほど星が近い。案内役としては申し分ない。
残る札を整理していたダグフィンが、ふといたずらっぽく口端を上げた。
「ではここで、追加札を一枚」
嫌な予感しかしなかった。
「出口の宿管理人ナイメによる、宿の裏側見学と、帳場仕事ちょっと体験」
「聞いていません!」
ナイメは叫んだ。
広場が笑いに包まれる。
ダグフィンは肩をすくめた。
「管理人さんの仕事ぶりは、すでに村の見せ場だよ。帳簿を見て喜ぶ人間も、この世にはいる」
「少数派です!」
「少数派ほど単価が上がる」
意味不明の理屈だったが、こちらも意外に手が挙がった。宿を営む若い夫婦、商隊の会計係、そしてなぜかイルミジェまで、いつの間にか広場の端に立っていた。彼女は挙げてはいない。ただ見ているだけだ。見られているだけで、余計に落ち着かない。
結局、ナイメの札は会計係の男が落とした。理由は「記録の揃え方を見たいから」。これまた実務目的である。実務目的ばかりのはずなのに、どうしてこうも胸が騒がしいのか、自分でもよくわからなかった。
競りが一段落すると、広場の中央へ置かれた寄付箱は思った以上の重さになっていた。ナイメは人目を避けるように宿の帳場へ戻り、裏でそっと中身を数えた。硬貨、紙札、約束手形の控え。秋市の通常売上と、同行競りの収益。まだ広告料の全額には遠い。それでも、最初に王都で請求額を見た日には想像もできなかった数字が、確かにそこにあった。
「顔が戻った」
声がして振り向くと、帳場口にドゥシャンが立っていた。広場のざわめきを背にしているせいで、少し影が濃く見える。
「戻った、とは」
「数字を見る顔だ」
「さっきまで違いましたか」
「違った」
彼は短く言って、帳場へ入ってきた。
「薬草散歩、人気でしたね」
ナイメはできるだけ平らな声で言った。
「よかったです。収益になりますし」
「そうだな」
「宿にも診療所にも、良い宣伝です」
「そうだな」
二度同じ返しをされると、余計に腹が立つ。
「他に感想はないんですか」
「何の」
「何のって」
そこで詰まった。何に対して、どんな感想を期待しているのか、自分でも整理がついていない。
ドゥシャンは少しだけ首を傾けたあと、帳場の上へ小さな紙袋を置いた。
「午前のうちに採れた乾燥葉だ。夕方の椀物に少し混ぜると、喉のいがらっぽさが和らぐ」
「ありがとうございます」
「あと」
彼は一度だけ言葉を切った。
「同行を落としたのは、谷向こうの宿屋の女将だ。冬場の解毒包の扱いを本気で知りたがっていた。終わったら、診療所向けの仕入れ相談もある」
そこまで聞いて、ナイメはようやく自分の顔がどうなっていたのか理解した。
たぶん、わかりやすいくらい不機嫌だったのだ。
「別に、確認していません」
「している顔だった」
「顔で読まないでください」
「無理だ」
即答だった。
ナイメは帳場の縁を指先で押さえた。心臓のあたりが、少しだけ忙しい。
「私はただ、収益の内訳を」
「うん」
「確認していただけです」
「うん」
「それ以上の意味は」
「ないのか」
そこで問い返されると、急に息が詰まる。
帳場の外では、コニュがまた「応答願います!」と叫び、子どもたちがそれを真似してはしゃいでいた。ヘルヴァルトはどこかでまた妙な大声を出している。世界はいつも通り騒がしいのに、この狭い帳場の中だけ、変に静かだった。
「……わかりません」
ナイメは小さく言った。
それが一番正直だった。
収益が増えてうれしい。村が少し前へ進んでいるのも、たしかにうれしい。でも、薬草散歩同行権へ札が重なっていくたび、胸の奥が勝手にざわついた。守りたい気持ちとは少し違う。焦りとも違う。もっと個人的で、もっと説明のつかないものだ。
ドゥシャンは何も急がせなかった。
ただ帳場へ手をつき、ナイメと同じ目線の高さまで少しだけ身を屈める。
「わからないなら、そのままでいい」
低い声だった。
慰めるようでも、試すようでもない。ただ事実を置く声。
「君は、わからないものを無理に帳簿へ入れようとする」
「帳簿へ入らないと困るので」
「気持ちはそうじゃない」
「……困ります」
「知ってる」
知ってる、と言われるたび、自分の輪郭が少し見えてしまう気がする。
彼の指先が、帳場の上に置いた寄付箱の縁へ触れた。
「でも、今日の売上は本物だ」
「はい」
「君が整えたからだ」
「みんなで整えました」
「最初の線を引いたのは君だ」
まっすぐ言われると、逃げ場がない。
ナイメは視線を落とした。寄付箱の横に、競りの札が一枚だけ残っている。片づけ損ねたらしい。それには乱れた字でこう書かれていた。
恋のオークション。
まったく、名前が悪い。
悪いのに、胸の奥では、その悪さのせいで初めて気づいたものもある。
触れたいと心が叫ぶ。
そんな大げさな言い方を、自分は好まないと思っていた。だが今、帳場越しに立つドゥシャンの手へ目が吸い寄せられるたび、笑ってしまうほどその通りだった。袖の内側に隠れた手首、薬草の匂いが染みついた指、こちらが困るほど丁寧に物を置く仕草。触れたところで何が変わるわけでもないのに、触れたら戻れない何かがある気もした。
「ナイメ」
名を呼ばれて、はっとする。
「鍋、吹きこぼれる」
帳場の奥、台所側から、しゅうっと慌てた音が立っていた。
「……っ」
ナイメは飛び上がるように立ち、鍋へ駆けた。後ろでごく小さく笑う気配がして、振り返る余裕もない。
夕方まで秋市は続いた。
落札した権利の引き換え札を渡し、軽食券をさばき、宿泊希望者の部屋割りを組み、約束手形の控えを整理する。忙しさは途切れなかったが、広場に夕陽が差し込むころ、寄付箱の中身はさらに重くなっていた。
最後の客を見送ったあと、ナイメは食堂の長机へ硬貨を並べた。ゲルマナ、シュクルティ、ドゥシャン、ヘルヴァルト、コニュ、ダグフィン。皆がぐるりと机を囲む。
「秋市通常売上、軽食、薬湯、解毒包、護符」
ナイメは一つずつ読み上げた。
「同行競りの収益を合わせて、今日一日でここまでです」
机の上には、これまで見たことのない厚みの紙札が並んでいる。
誰かが息を呑んだ。
「すげえ」
最初に言ったのはヘルヴァルトだった。
「いや、本当にすげえな」
コニュが両手を上げる。
「応答願います! 本日、村は大変よく売れました!」
「売れたって言い方はどうなんだい」
ゲルマナが苦笑する。
「でも、よくやったのは本当だね」
シュクルティが疲れた肩を回しながら笑った。
「これで少しは冬支度の見通しも立つ」
ダグフィンは机の端に腰を掛け、硬貨の山を満足そうに眺めた。
「ほらね、語りたくなる売り方は強い」
「名前は次回変えてください」
ナイメは即答した。
「次もやる前提なんだ」
ヘルヴァルトが言う。
「収益が出たなら検討はします」
「管理人さん、そういうところだけ切り替えが早いよな」
笑いが起きた。
その輪の中で、ナイメは机の上の数字を見た。まだ足りない。広告料の正規額までには、まだいくつも積み上げるべき日がある。それでも、今日は確かに前へ進んだ。
逃げ切るためではなく、守るために積んだ数字だ。
みんなが片づけへ散ったあと、ナイメは一人だけ少し遅れて帳場へ戻った。窓の外には、秋市の名残りの灯りがいくつか揺れている。広場では、落札した星見役の案内で旅人たちが高台へ向かう影も見えた。
帳簿を開き、今日の収益を清書する。
手が止まらない。疲れているのに、書き落としたくない一日だった。
そこへ、背後から淡い草の匂いが近づいた。
ドゥシャンだと、振り向かなくてもわかる。
「終わったか」
「あと少しです」
「無理はするな」
「今日は無理ではありません」
ナイメは最後の数字を書き入れ、乾くのを待ってから帳簿を閉じた。
「薬草散歩は、どうでしたか」
自分でも、なぜまた聞くのかわからない。
ドゥシャンは少し考え、正直に答えた。
「役に立った」
「そうですか」
「でも」
「でも?」
「競り札に値がついたとき、君が妙な顔をしていたので、そっちが気になった」
まっすぐすぎる。
「忘れてください」
「無理だ」
「あなた、無理が多すぎませんか」
「君もだろ」
その言い方がおかしくて、ナイメはとうとう吹き出した。笑うつもりなんてなかったのに、口元から勝手に音がこぼれた。今日一日の緊張と忙しさが、そこでようやくほどけた気がする。
ドゥシャンはそれを見て、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
大きく笑う人ではない。けれど、そのわずかな変化を見つけるたび、胸のどこかが静かに熱を持つ。
帳場の窓の外で、秋の夜風が木札を小さく鳴らした。
出口の宿、と彫られたその札は、昼の喧騒を終えた今も、闇の中でちゃんとそこにある。
ナイメは胸の奥のざわつきを、まだ言葉にできなかった。
けれど少なくとも、それはもう無視していい類のものではなかった。
今日の売上と同じだ。
最初は小さく見えても、積み重なれば見過ごせない重さになる。
彼女は帳簿を抱え直し、灯りを少しだけ高くした。
数字も、気持ちも、まだ途中だ。
途中だけれど、だからこそ、明日へ続けられる。




