表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放された事務官は、朝もやの村の薬湯宿で恋と再建を拾い直す  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/9

第6話 監査官イルミジェは、笑わない

 翌朝、宿の空気はいつもより先に張っていた。


 まだ日が高くなる前だというのに、ナイメは帳場に帳簿を三冊並べ、薬材納品表、宿泊控え、軽食の売上札まで一列にそろえていた。昨夜のうちに書き足した在庫表は乾ききっておらず、触れると炭の粉が指先に移る。それでも引っ込める気にはなれなかった。


 「何度見ても、昨日の数字は増えませんよ」

 薬湯用の桶を運んでいたシュクルティが言う。

 「見ているのは昨日の数字じゃありません。どこを見られても困らない並べ方です」

 「困るものがあるのかい」

 「困るものがないように夜更かししました」

 「そういう答え方をする日は、だいたい何か来るね」


 その予感は、的中した。


 表で馬のいななきが短く響き、続いて扉を叩く音が二回。ためらいのない、乾いた叩き方だった。ヘルヴァルトが反射的に外へ向かったが、ドアノブに手をかけたところで、すでに扉の向こうから声が落ちてきた。


 「街道組合および南谷領監査部の合同監査です。開けてください」


 宿の空気が、ぴたりと止まる。


 ナイメは立ち上がり、手の炭を布で拭ってから扉を開けた。


 立っていたのは、痩せた灰青色の馬を従えた女性だった。

 肩から膝まで無駄のない濃紺の外套、曇りのない銀縁眼鏡、革手袋は一分の隙もなく指先まで整っている。背筋がまっすぐすぎて、そこへ朝の光が薄く乗っていた。年は三十前後だろうか。美しいというより、線が正確だという印象のほうが先に来る顔立ちだった。


 「監査官イルミジェです」

 女性は言った。

 「管理責任者は」

 「私です。出口の宿管理人、ナイメ」

 「事前通達では、本日午前より施設監査、帳票確認、薬材管理状況の照合を行います」

 そこで彼女は宿の軒、入口脇の新しい看板、ヘルヴァルトの立ち位置、食堂へつながる導線を一度で見た。

 「改善は入っていますね」


 褒められたのかと思う間もなく、次の一言が来る。


 「ですが、感情では判定しません」


 冷水みたいな声だった。

 ナイメは胸のあたりで小さく反発が跳ねるのを感じたが、顔には出さなかった。たぶん出したところで、この人は一度も拾わない。


 「こちらも、感情で見てほしいとは思っていません」

 「それは結構」

 「ただ、見ていただければ、今の宿が以前と同じではないことはわかるはずです」

 「見ればわかることと、記録で認められることは別です」


 言葉が紙の端みたいに乾いている。

 ヘルヴァルトが後ろで小さく舌を打ったのが聞こえたが、イルミジェは視線ひとつ動かさなかった。


 「案内を」

 彼女が言う。

 「先に施設から」


 案内のあいだじゅう、イルミジェは必要なことしか尋ねなかった。

 浴場では湯樽の交換間隔、薬湯の濃度、清掃の頻度。食堂では軽食の提供数、仕込み量、廃棄の基準。診療所では解毒包の重量、携行日数、処方記録の保管方法。問いは短く、答えはもっと短く区切られる。曖昧な表現をひとつでも混ぜると、眼鏡の奥の目がこちらを待った。


 「だいたい、では記録になりません」

 「はい」

 「多め、少なめ、最近、以前、かなり。この種の言葉は監査では使わないでください」

 「……はい」


 返事をするたび、ナイメの背中が少しずつ固くなる。


 浴場前で、シュクルティが温め途中の薬粥の鍋を見せたときだけ、イルミジェはほんのわずかに立ち止まった。


 「客に出しているのはこれだけですか」

 「朝は粥、昼は根菜の薄煮、夜は具を足しますよ」

 シュクルティが腕を組む。

 「病人に無理をさせない腹の温め方をしてる」

 「味見を」

 「監査官が?」

 「提供物の確認です」


 差し出された匙で一口だけすくい、イルミジェは黙って飲み込んだ。

 表情はほとんど動かなかったが、ほんの半拍だけ、視線が鍋へ戻った。


 「塩分量は記録していますか」

 「そこまで細かくは」

 ナイメが答えると、イルミジェは即座に言った。

 「今後は記録してください。再現性のある提供物は評価対象になります」


 褒めているのか命じているのか判然としない。

 シュクルティは怪訝な顔をしたが、ナイメはその一言だけを先に拾った。


 「評価対象、ですか」

 「聞こえなかったのなら、もう一度言いますか」

 「聞こえました」


 食堂へ戻ると、ダグフィンがいつの間にか柱の陰から様子を見ていた。こういうときだけ存在感を薄くするのが腹立たしい。イルミジェはその姿を認めても特に追及せず、帳場の机へまっすぐ向かった。


 「帳票を」


 ナイメは並べておいた帳簿を差し出した。

 宿泊帳、売上帳、薬材納品控え、通信控え。昨夜遅くまで指先を黒くした資料たちだ。イルミジェは椅子に座る前に手袋を外し、順番に紙をめくり始めた。


 その指先の動きには無駄がない。角をそろえ、綴じ糸のゆるみを見て、余白の筆跡まで拾っていく。紙を読むというより、紙の癖まで数えているような目だった。


 「この売上欄の追記はあなたですね」

 「はい」

 「数字の揃え方は悪くない。ですが、品目の表記ゆれがあります。薬湯のみ、薬湯、湯のみ。どれか一つに統一を」

 「……はい」

 「こちらの軽食の提供数は、厨房側控えと一致」

 イルミジェは別紙を重ねる。

 「診療所側の解毒包の搬出数も、現時点では一致」


 現時点では。

 その言い方に、ナイメは思わず口を開いた。


 「それなら」

 「それなら、何ですか」

 「少なくとも、今の宿がずさんだという見方は」

 「私は最初からそうは言っていません」


 切り返しに熱がないせいで、逆に頬が熱くなる。


 「では、何を見に来たんですか」

 ナイメは聞いた。

 「村を切るための理屈を探しに来たんじゃないんですか」


 帳場の向こうで、ヘルヴァルトが小さく息を呑んだ。ダグフィンは面白そうに目を細めている。ドゥシャンだけが黙ったままだった。


 イルミジェはようやく顔を上げた。


 「あなたは、ずいぶん急いで結論を欲しがる」

 「急がないと、九十日しかありません」

 「知っています」

 「だったら」

 「だからこそ、です」


 彼女は一枚の請求書を引き抜いた。

 街道組合から届いた広告料の請求書。ナイメが何度見ても胃の底が冷える紙だ。それを机へ置き、さらに古い控えを二枚並べる。


 「この三通」

 イルミジェは紙の端を指で揃えた。

 「同じ担当者名で処理されていますが、筆圧が違う」


 ナイメは瞬きをした。

 「筆圧」

 「ええ」

 「名前は同じです」

 「名前は書けます」


 それだけ言って、イルミジェは請求書の末尾を示した。

 言われて見れば、確かに妙だった。古い控えは払いの線が長く、やや右上がりだ。最近届いたものだけ、文字の重心が低く、横線が押しつぶされている。今まで桁と内訳しか見ていなかったナイメには、そこまで目が届いていなかった。


 「こちらの受領印も」

 イルミジェは納品控えをめくる。

 「月ごとに印影の欠け方が違います。摩耗の範囲としては不自然です」

 「偽造、ということですか」

 「断定はしません。ですが、不自然さは記録します」


 ドゥシャンが初めて口を開いた。

 「……それを、最初から見ていたのか」

 「見るために来ました」

 イルミジェは彼へだけ一瞬視線を向ける。

 「改善の有無だけなら、入口から三歩で足ります」


 ナイメは喉の奥が少し詰まるのを感じた。

 この人は冷たいだけではない。たぶん、冷たく見える形でしか仕事をしないだけだ。


 「なぜ、それを先に言わないんですか」

 思わず言うと、イルミジェは少しだけ眉を寄せた。


 「監査官が先に期待を与えるのは不適切です」

 「期待じゃなくて、事情の共有です」

 「共有した途端、人は見たいものを見せます」

 「見せるべきものを見せます」

 「同じではありません」


 ぴしゃりと言われ、ナイメは言い返せなかった。

 その代わり、腹の底のどこかで、悔しさと納得が同時に居座る。


 イルミジェは再び紙へ目を落とした。


 「広告料の算定根拠を示す明細が足りません」

 「こちらから請求しても、“規約に基づく”の一点張りでした」

 「その返答記録は」

 「あります」


 ナイメはすぐに通信控えの束を差し出した。イルミジェがそこへ初めて、ごくわずかに視線の温度を変えた気がした。


 「整理が早いですね」

 「……必要だと思ったので」

 「その判断は正しい」


 それだけで、妙に胸の奥がざわついた。

 大きく褒められたわけでもない。ただ正しいと言われただけなのに、この数日、自分のやってきたことへ細い杭が打たれたような気がする。


 ところが次の瞬間、帳場の横でがたんと大きな音がした。

 振り向くと、ヘルヴァルトが立てかけてあった木箱に腰をぶつけていた。監査の沈黙に耐えきれず位置を変えたらしい。


 「動くなって顔で言われてる気がして」

 「実際、言われています」

 ナイメが言う。

 「じゃあ先に言ってくれ」

 「顔でわかってください」


 ダグフィンが吹き出し、コニュまで肩を震わせた。

 その場でただ一人、イルミジェだけが本当に一切笑わなかった。

 けれど、木箱の中身が空の薬瓶だと確認すると、彼女はすぐに視線を戻しただけで、余計な叱責はしなかった。


 午前の確認が終わる頃、机の上には付箋代わりの細紙が何枚も並んでいた。問題なし、照合要、再提出、確認継続。淡々と分けられたその紙片を見ていると、宿という生き物がばらばらの器官にほどかれていくようだった。


 「本日の時点での所見を伝えます」

 イルミジェは細紙を整えた。

 「施設改善は確認できる。提供物、導線、在庫管理は、短期間の立て直しとしては妥当。ですが、広告料請求と薬材納入記録には不自然点がある。追加照会を行います」


 ヘルヴァルトが身を乗り出した。

 「それって、村に不利じゃないってことか」

 「まだ結論ではありません」

 「でも、少しはましなんだろ」

 「質問が雑です」

 「雑って言われた」

 「雑です」


 容赦がない。

 ヘルヴァルトはしゅんとした顔をしたが、なぜか村人たちの空気は少しだけ軽くなった。否定しきられなかった、それだけで十分だったのだ。


 イルミジェは立ち上がり、外套を整えた。


 「午後は診療所裏の搬入口と、倉庫の保管状態を確認します」

 「まだ見るんですか」

 ナイメが思わず言うと、彼女は淡々と返した。

 「監査ですから」

 「……失礼しました」

 「いいえ。あなたが疲れているのは見ればわかります」


 見ればわかる。

 その言葉だけが少し意外で、ナイメは顔を上げた。


 「わかるんですね」

 「だからといって判定は変えません」

 「そこは徹底してるんですね」

 「仕事なので」


 そう言って、彼女は帳場から出ていった。

 濃紺の背が廊下の曲がり角で消えるまで、宿の誰も声を出さなかった。


 最初に息を吐いたのはダグフィンだった。


 「いやあ、見事に笑わない」

 「感心するところですか」

 ナイメが言う。

 「でも嫌いじゃないね。曖昧な慰めをくれる人より、よほど商売がしやすい顔だ」

 「商売の話にしないでください」

 「管理人さん、顔」

 「何ですか」

 「さっきから、悔しいのと助かったので忙しい顔をしてる」


 図星すぎて、返す言葉が出なかった。


 昼の短い休憩で、ナイメは帳場の隅に腰を下ろした。売上帳の横には、イルミジェが残していった細紙が一枚だけある。品目表記を統一、塩分量記録、算定根拠の照会継続。どれも冷たい字だ。だが、その冷たさのおかげで見えるものがある。


 ドゥシャンが水差しを持ってきて、机へ置いた。


 「飲め」

 「ありがとうございます」


 木杯を持つ手に、わずかに力が戻る。


 「腹が立ったか」

 ドゥシャンが聞いた。

 「立ちました」

 「だろうな」

 「でも」

 「でも?」

 「私、悔しい方向を少し間違えていたかもしれません」


 ナイメは請求書へ目を落とした。


 「今までは、ちゃんとやっているのにどうしてわかってもらえないのか、ばかり考えていました」

 「うん」

 「でも、わかってもらう以前に、見せる形へ直しきれていなかった」

 「うん」

 「宿のことも、不正のことも」


 ドゥシャンはしばらく黙っていたが、やがて帳簿の端を軽く叩いた。


 「君は見せる形にするのが得意だ」

 「そうでしょうか」

 「少なくとも、俺よりは」

 「それは比較対象が悪いです」

 「否定しないんだな」

 「あなた、必要な薬は全部頭に入っているくせに、棚札を一度も揃えようとしなかったじゃないですか」

 「使えればいいと思っていた」

 「私はそういうのが気になります」

 「知ってる」


 少しだけ、笑ってしまった。

 さっきまで張っていた肩が、そのぶんだけ下がる。


 「数字で戦います」

 ナイメは木杯を置いた。

 「感情で見てほしいなんて、もう言いません」

 「最初から言ってないだろ」

 「心の中では言っていました」

 「それは読めない」

 「読まないでください」


 帳場の外では、午後の準備で足音が行き交っている。シュクルティが鍋を動かし、コニュが通信文の控えを抱えて走り、ヘルヴァルトはまた何か運ぶついでに余計な音を立てていた。騒がしい。けれど、その騒がしさも今は数字に変えられる気がした。


 ナイメは請求書、納品控え、通信控えを新しい順に重ね直した。

 筆跡の違い。印影の欠け方。返答を避け続ける文面。感覚だけで抱えていた不自然さが、ようやく記録として並び始める。


 感情では判定しません。

 あの言葉は冷たい。冷たいが、逃げ道をふさぐにはちょうどいい。


 泣きたいとか、悔しいとか、守りたいとか、そういうものが消えたわけではない。

 ただ、それだけでは勝てないと、はっきりした。

 ここを守るなら、胸の中身を帳簿の上に翻訳しなければならない。


 ナイメは新しい紙を引き寄せ、表題を書いた。


 広告料請求照合表。


 その文字は、昨日より少しだけ迷いが少なかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ