第6話 監査官イルミジェは、笑わない
翌朝、宿の空気はいつもより先に張っていた。
まだ日が高くなる前だというのに、ナイメは帳場に帳簿を三冊並べ、薬材納品表、宿泊控え、軽食の売上札まで一列にそろえていた。昨夜のうちに書き足した在庫表は乾ききっておらず、触れると炭の粉が指先に移る。それでも引っ込める気にはなれなかった。
「何度見ても、昨日の数字は増えませんよ」
薬湯用の桶を運んでいたシュクルティが言う。
「見ているのは昨日の数字じゃありません。どこを見られても困らない並べ方です」
「困るものがあるのかい」
「困るものがないように夜更かししました」
「そういう答え方をする日は、だいたい何か来るね」
その予感は、的中した。
表で馬のいななきが短く響き、続いて扉を叩く音が二回。ためらいのない、乾いた叩き方だった。ヘルヴァルトが反射的に外へ向かったが、ドアノブに手をかけたところで、すでに扉の向こうから声が落ちてきた。
「街道組合および南谷領監査部の合同監査です。開けてください」
宿の空気が、ぴたりと止まる。
ナイメは立ち上がり、手の炭を布で拭ってから扉を開けた。
立っていたのは、痩せた灰青色の馬を従えた女性だった。
肩から膝まで無駄のない濃紺の外套、曇りのない銀縁眼鏡、革手袋は一分の隙もなく指先まで整っている。背筋がまっすぐすぎて、そこへ朝の光が薄く乗っていた。年は三十前後だろうか。美しいというより、線が正確だという印象のほうが先に来る顔立ちだった。
「監査官イルミジェです」
女性は言った。
「管理責任者は」
「私です。出口の宿管理人、ナイメ」
「事前通達では、本日午前より施設監査、帳票確認、薬材管理状況の照合を行います」
そこで彼女は宿の軒、入口脇の新しい看板、ヘルヴァルトの立ち位置、食堂へつながる導線を一度で見た。
「改善は入っていますね」
褒められたのかと思う間もなく、次の一言が来る。
「ですが、感情では判定しません」
冷水みたいな声だった。
ナイメは胸のあたりで小さく反発が跳ねるのを感じたが、顔には出さなかった。たぶん出したところで、この人は一度も拾わない。
「こちらも、感情で見てほしいとは思っていません」
「それは結構」
「ただ、見ていただければ、今の宿が以前と同じではないことはわかるはずです」
「見ればわかることと、記録で認められることは別です」
言葉が紙の端みたいに乾いている。
ヘルヴァルトが後ろで小さく舌を打ったのが聞こえたが、イルミジェは視線ひとつ動かさなかった。
「案内を」
彼女が言う。
「先に施設から」
案内のあいだじゅう、イルミジェは必要なことしか尋ねなかった。
浴場では湯樽の交換間隔、薬湯の濃度、清掃の頻度。食堂では軽食の提供数、仕込み量、廃棄の基準。診療所では解毒包の重量、携行日数、処方記録の保管方法。問いは短く、答えはもっと短く区切られる。曖昧な表現をひとつでも混ぜると、眼鏡の奥の目がこちらを待った。
「だいたい、では記録になりません」
「はい」
「多め、少なめ、最近、以前、かなり。この種の言葉は監査では使わないでください」
「……はい」
返事をするたび、ナイメの背中が少しずつ固くなる。
浴場前で、シュクルティが温め途中の薬粥の鍋を見せたときだけ、イルミジェはほんのわずかに立ち止まった。
「客に出しているのはこれだけですか」
「朝は粥、昼は根菜の薄煮、夜は具を足しますよ」
シュクルティが腕を組む。
「病人に無理をさせない腹の温め方をしてる」
「味見を」
「監査官が?」
「提供物の確認です」
差し出された匙で一口だけすくい、イルミジェは黙って飲み込んだ。
表情はほとんど動かなかったが、ほんの半拍だけ、視線が鍋へ戻った。
「塩分量は記録していますか」
「そこまで細かくは」
ナイメが答えると、イルミジェは即座に言った。
「今後は記録してください。再現性のある提供物は評価対象になります」
褒めているのか命じているのか判然としない。
シュクルティは怪訝な顔をしたが、ナイメはその一言だけを先に拾った。
「評価対象、ですか」
「聞こえなかったのなら、もう一度言いますか」
「聞こえました」
食堂へ戻ると、ダグフィンがいつの間にか柱の陰から様子を見ていた。こういうときだけ存在感を薄くするのが腹立たしい。イルミジェはその姿を認めても特に追及せず、帳場の机へまっすぐ向かった。
「帳票を」
ナイメは並べておいた帳簿を差し出した。
宿泊帳、売上帳、薬材納品控え、通信控え。昨夜遅くまで指先を黒くした資料たちだ。イルミジェは椅子に座る前に手袋を外し、順番に紙をめくり始めた。
その指先の動きには無駄がない。角をそろえ、綴じ糸のゆるみを見て、余白の筆跡まで拾っていく。紙を読むというより、紙の癖まで数えているような目だった。
「この売上欄の追記はあなたですね」
「はい」
「数字の揃え方は悪くない。ですが、品目の表記ゆれがあります。薬湯のみ、薬湯、湯のみ。どれか一つに統一を」
「……はい」
「こちらの軽食の提供数は、厨房側控えと一致」
イルミジェは別紙を重ねる。
「診療所側の解毒包の搬出数も、現時点では一致」
現時点では。
その言い方に、ナイメは思わず口を開いた。
「それなら」
「それなら、何ですか」
「少なくとも、今の宿がずさんだという見方は」
「私は最初からそうは言っていません」
切り返しに熱がないせいで、逆に頬が熱くなる。
「では、何を見に来たんですか」
ナイメは聞いた。
「村を切るための理屈を探しに来たんじゃないんですか」
帳場の向こうで、ヘルヴァルトが小さく息を呑んだ。ダグフィンは面白そうに目を細めている。ドゥシャンだけが黙ったままだった。
イルミジェはようやく顔を上げた。
「あなたは、ずいぶん急いで結論を欲しがる」
「急がないと、九十日しかありません」
「知っています」
「だったら」
「だからこそ、です」
彼女は一枚の請求書を引き抜いた。
街道組合から届いた広告料の請求書。ナイメが何度見ても胃の底が冷える紙だ。それを机へ置き、さらに古い控えを二枚並べる。
「この三通」
イルミジェは紙の端を指で揃えた。
「同じ担当者名で処理されていますが、筆圧が違う」
ナイメは瞬きをした。
「筆圧」
「ええ」
「名前は同じです」
「名前は書けます」
それだけ言って、イルミジェは請求書の末尾を示した。
言われて見れば、確かに妙だった。古い控えは払いの線が長く、やや右上がりだ。最近届いたものだけ、文字の重心が低く、横線が押しつぶされている。今まで桁と内訳しか見ていなかったナイメには、そこまで目が届いていなかった。
「こちらの受領印も」
イルミジェは納品控えをめくる。
「月ごとに印影の欠け方が違います。摩耗の範囲としては不自然です」
「偽造、ということですか」
「断定はしません。ですが、不自然さは記録します」
ドゥシャンが初めて口を開いた。
「……それを、最初から見ていたのか」
「見るために来ました」
イルミジェは彼へだけ一瞬視線を向ける。
「改善の有無だけなら、入口から三歩で足ります」
ナイメは喉の奥が少し詰まるのを感じた。
この人は冷たいだけではない。たぶん、冷たく見える形でしか仕事をしないだけだ。
「なぜ、それを先に言わないんですか」
思わず言うと、イルミジェは少しだけ眉を寄せた。
「監査官が先に期待を与えるのは不適切です」
「期待じゃなくて、事情の共有です」
「共有した途端、人は見たいものを見せます」
「見せるべきものを見せます」
「同じではありません」
ぴしゃりと言われ、ナイメは言い返せなかった。
その代わり、腹の底のどこかで、悔しさと納得が同時に居座る。
イルミジェは再び紙へ目を落とした。
「広告料の算定根拠を示す明細が足りません」
「こちらから請求しても、“規約に基づく”の一点張りでした」
「その返答記録は」
「あります」
ナイメはすぐに通信控えの束を差し出した。イルミジェがそこへ初めて、ごくわずかに視線の温度を変えた気がした。
「整理が早いですね」
「……必要だと思ったので」
「その判断は正しい」
それだけで、妙に胸の奥がざわついた。
大きく褒められたわけでもない。ただ正しいと言われただけなのに、この数日、自分のやってきたことへ細い杭が打たれたような気がする。
ところが次の瞬間、帳場の横でがたんと大きな音がした。
振り向くと、ヘルヴァルトが立てかけてあった木箱に腰をぶつけていた。監査の沈黙に耐えきれず位置を変えたらしい。
「動くなって顔で言われてる気がして」
「実際、言われています」
ナイメが言う。
「じゃあ先に言ってくれ」
「顔でわかってください」
ダグフィンが吹き出し、コニュまで肩を震わせた。
その場でただ一人、イルミジェだけが本当に一切笑わなかった。
けれど、木箱の中身が空の薬瓶だと確認すると、彼女はすぐに視線を戻しただけで、余計な叱責はしなかった。
午前の確認が終わる頃、机の上には付箋代わりの細紙が何枚も並んでいた。問題なし、照合要、再提出、確認継続。淡々と分けられたその紙片を見ていると、宿という生き物がばらばらの器官にほどかれていくようだった。
「本日の時点での所見を伝えます」
イルミジェは細紙を整えた。
「施設改善は確認できる。提供物、導線、在庫管理は、短期間の立て直しとしては妥当。ですが、広告料請求と薬材納入記録には不自然点がある。追加照会を行います」
ヘルヴァルトが身を乗り出した。
「それって、村に不利じゃないってことか」
「まだ結論ではありません」
「でも、少しはましなんだろ」
「質問が雑です」
「雑って言われた」
「雑です」
容赦がない。
ヘルヴァルトはしゅんとした顔をしたが、なぜか村人たちの空気は少しだけ軽くなった。否定しきられなかった、それだけで十分だったのだ。
イルミジェは立ち上がり、外套を整えた。
「午後は診療所裏の搬入口と、倉庫の保管状態を確認します」
「まだ見るんですか」
ナイメが思わず言うと、彼女は淡々と返した。
「監査ですから」
「……失礼しました」
「いいえ。あなたが疲れているのは見ればわかります」
見ればわかる。
その言葉だけが少し意外で、ナイメは顔を上げた。
「わかるんですね」
「だからといって判定は変えません」
「そこは徹底してるんですね」
「仕事なので」
そう言って、彼女は帳場から出ていった。
濃紺の背が廊下の曲がり角で消えるまで、宿の誰も声を出さなかった。
最初に息を吐いたのはダグフィンだった。
「いやあ、見事に笑わない」
「感心するところですか」
ナイメが言う。
「でも嫌いじゃないね。曖昧な慰めをくれる人より、よほど商売がしやすい顔だ」
「商売の話にしないでください」
「管理人さん、顔」
「何ですか」
「さっきから、悔しいのと助かったので忙しい顔をしてる」
図星すぎて、返す言葉が出なかった。
昼の短い休憩で、ナイメは帳場の隅に腰を下ろした。売上帳の横には、イルミジェが残していった細紙が一枚だけある。品目表記を統一、塩分量記録、算定根拠の照会継続。どれも冷たい字だ。だが、その冷たさのおかげで見えるものがある。
ドゥシャンが水差しを持ってきて、机へ置いた。
「飲め」
「ありがとうございます」
木杯を持つ手に、わずかに力が戻る。
「腹が立ったか」
ドゥシャンが聞いた。
「立ちました」
「だろうな」
「でも」
「でも?」
「私、悔しい方向を少し間違えていたかもしれません」
ナイメは請求書へ目を落とした。
「今までは、ちゃんとやっているのにどうしてわかってもらえないのか、ばかり考えていました」
「うん」
「でも、わかってもらう以前に、見せる形へ直しきれていなかった」
「うん」
「宿のことも、不正のことも」
ドゥシャンはしばらく黙っていたが、やがて帳簿の端を軽く叩いた。
「君は見せる形にするのが得意だ」
「そうでしょうか」
「少なくとも、俺よりは」
「それは比較対象が悪いです」
「否定しないんだな」
「あなた、必要な薬は全部頭に入っているくせに、棚札を一度も揃えようとしなかったじゃないですか」
「使えればいいと思っていた」
「私はそういうのが気になります」
「知ってる」
少しだけ、笑ってしまった。
さっきまで張っていた肩が、そのぶんだけ下がる。
「数字で戦います」
ナイメは木杯を置いた。
「感情で見てほしいなんて、もう言いません」
「最初から言ってないだろ」
「心の中では言っていました」
「それは読めない」
「読まないでください」
帳場の外では、午後の準備で足音が行き交っている。シュクルティが鍋を動かし、コニュが通信文の控えを抱えて走り、ヘルヴァルトはまた何か運ぶついでに余計な音を立てていた。騒がしい。けれど、その騒がしさも今は数字に変えられる気がした。
ナイメは請求書、納品控え、通信控えを新しい順に重ね直した。
筆跡の違い。印影の欠け方。返答を避け続ける文面。感覚だけで抱えていた不自然さが、ようやく記録として並び始める。
感情では判定しません。
あの言葉は冷たい。冷たいが、逃げ道をふさぐにはちょうどいい。
泣きたいとか、悔しいとか、守りたいとか、そういうものが消えたわけではない。
ただ、それだけでは勝てないと、はっきりした。
ここを守るなら、胸の中身を帳簿の上に翻訳しなければならない。
ナイメは新しい紙を引き寄せ、表題を書いた。
広告料請求照合表。
その文字は、昨日より少しだけ迷いが少なかった。




