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追放された事務官は、朝もやの村の薬湯宿で恋と再建を拾い直す  作者: 乾為天女


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第5話 広告料を払うため、宿を名物にします

 ダグフィンに「三分ください」と言われたとき、ナイメは三十息も与えるつもりはなかった。


 ところが、その男は宿へ入るなり、帳場の椅子にも座らず、食堂の入口から台所、廊下、浴場前の札、診療所へ続く通路、そして表の看板まで、風のような速さで見て回った。勝手に戸を開け、勝手に床板を踏み、勝手に窓の位置まで確かめていく。追い出そうとするたび、すでに次の場所へ移っているので手が足りない。


 「ちょっと、無断で歩き回らないでください」

 「見なきゃ売り方が浮かばない」

 「売る前に礼儀を覚えてください」

 「礼儀で客は呼べないが、客が来れば礼を言われる」

 「嫌な理屈ですね」

 「褒め言葉として受け取ろう」


 飄々と返しながら、ダグフィンは浴場前で立ち止まった。薬湯の匂いがうっすら漂っている。朝の避難で使ったあと、樽の湯は入れ替えてあったが、まだ薬草の苦みと木のぬくもりが残っていた。


 「ここは悪くない」

 「そこは知っています」

 「悪くないだけじゃ足りないんだよ、管理人さん。旅人は悪くない場所のことは忘れる。口に出すのは、少し嬉しい場所だけだ」


 ナイメは言い返しかけて、やめた。

 その言い方は気に食わないのに、言っていること自体は妙に腑に落ちる。帳簿に残るのは金額でも、金額を運んでくるのは人の気分だ。王都の事務局でも、同じ内容の催しでも、名のつけ方ひとつで申請数が変わることがあった。


 ダグフィンは食堂の長机を指で叩いた。


 「この宿は、ただ毒を抜くだけの場所としては弱い」

 「解毒宿ですから」

 「だからこそだ。街道沿いに“体調を崩したら寄る場所”としてしか知られていないなら、みんな本当に具合が悪くなるまで寄らない」

 「それは困ります」

 ドゥシャンが即答した。

 「だろう?」

 ダグフィンは頷く。

 「なら、“悪くなる前に整える場所”へ見せ方を変える。越える前に一度体を休める、霧の谷に入る前に軽くしていく、そういう宿だ」


 シュクルティが台所の戸口で腕を組んだ。

 「つまり、薬湯宿ってことかい」

 「そう。しかも、ただ苦い薬を飲まされる宿じゃない。温かい食事があって、朝もや対策の包みが買えて、帰り際に“寄ってよかった”と誰かに言いたくなる宿」


 ヘルヴァルトが鼻で笑った。

 「言うのは簡単だ」

 「やるのもそこまで難しくない」

 「難しいから困ってるんだろ」

 「だから呼ばれた」

 「呼んでません」

 ナイメが切り返す。


 ダグフィンは悪びれずに帳場へ戻り、ナイメが出しっぱなしにしていた宿帳をのぞいた。手を伸ばしかけたので、ナイメは素早く引き寄せる。


 「勝手に見ないでください」

 「見なくてもわかるよ。客は少ない。少ないうえに、一度泊まった人の顔が次の月にない」

 「……」

 「再訪がない宿は、景色がよほど強いか、誰かがよほど上手に喋ってくれないと伸びない」


 ナイメは宿帳を胸元へ寄せたまま、相手の目を見た。

 胡散臭い。胡散臭いが、痛いところだけは正確に突いてくる。


 「三分で入口を見せる、と言いましたね」

 「言った」

 「では、言葉だけでなく手順も出してください。何を誰が、どの順でやるのか」

 「おや」

 ダグフィンが口角を上げる。

 「追い返す顔から、仕事の顔に変わった」

 「追い返すか働かせるか、判断するためです」

 「いいね。そういう顔は客より金を呼ぶ」


 彼は荷台から折り畳みの薄板と炭筆を持ち込み、勝手に長机へ広げた。表面には以前別の宣伝に使ったらしい色の跡が残っている。そこへ迷いなく大きな字を書きつける。


  朝もやの谷の手前で整える

  薬湯と軽食の宿

  出口の宿


 大きく三行。

 妙に単純で、妙に目に残る。


 「なんですか、これ」

 「看板の骨」

 「骨」

 「肉は後でつける。まず一目で意味が伝わる形が要る。解毒所、避難所、診療所、宿。肩書きが多すぎると人は覚えない」

 「でも実際には全部必要です」

 「必要なことと、最初に見せることは別」


 ナイメは言葉を失った。

 別。たしかにそうだ。帳簿の分類でも、全部を表紙に書く者はいない。中身がどれほど複雑でも、入口は一行のほうがいい。


 ダグフィンはさらに炭筆を走らせる。


 「表の看板はこれ。街道通信に流す文は別。長くしすぎるとコニュ君が張り切って詩になるだろうから、先に定型を作る」

 「なぜ僕が名指しで危険扱いなんですか」

 「目がもう比喩を探してる」

 「否定できません……」

 「しないでください」

 ナイメが言う。


 その日のうちに、宿の食堂は即席の作戦会議場になった。


 ダグフィンが仕切るのは腹立たしかったが、彼の頭の回転は速かった。話を大きくしそうなヘルヴァルトには街道での声かけを任せる。ただし「怖がらせない」「腕を掴まない」「勝手に荷を持たない」の三つを先に紙へ書いて貼る。コニュには通信文の送信役を任せる。ただし、原稿は必ずナイメが通す。シュクルティには薬草を使った温かい軽食と、宿でしか飲めない薬湯の組み合わせを考えてもらう。ドゥシャンには旅人向けに持ち歩ける簡易解毒包の試作。ゲルマナには村の女性たちへ、急な来客が増えたときの手伝い体制の打診。


 「人を増やす前に導線を直します」

 ナイメは食堂の床へ簡単な見取り図を書いた。

 「入口から帳場、食堂、浴場、診療所への案内札がばらばらです。旅人が迷うと、それだけで疲れます」

 「案内札は私が直すよ」

 シュクルティが言う。

 「字はあんたが書きな。私の字だと怒ってるみたいになる」

 「怒ってるんじゃなく、強いんです」

 「同じだよ」


 結局その夜、みんなで札を作り直した。

 ナイメが字を書き、ヘルヴァルトが板を削り、シュクルティが布を裂いて紐にし、コニュがなぜか飾り線を加えようとして却下される。ダグフィンはその横で、見栄えのする配置と人目につく角度をうるさいほど指定した。


 「この矢印、もう少し斜め」

 「同じに見えます」

 「違う。人は歩きながら見るんだよ。真正面より、視線の流れ先に置く」

 「視線の流れ」

 「管理人さんは数字の流れを見るだろ。俺は目の流れを見る」


 癪だが、言い返せなかった。

 宿の入口に立って実際に歩いてみると、彼の言う角度のほうがたしかに見やすい。


 翌朝、まだ朝もやが薄く道を這っている時間から、宿は妙に慌ただしかった。


 台所ではシュクルティが鍋を二つかけ、乾かした薬草と根菜を刻んでいる。いつもの賄いより香りが柔らかい。苦みの強い葉は量を減らし、代わりに喉を温める甘い根と、腹にたまる粟を加えるらしい。


 「苦いだけの薬湯なんて、一度飲めば十分だからね」

 鍋を混ぜながら、彼女が言う。

 「湯気を吸っただけで、もう一口いけるくらいがちょうどいい」

 「そんな調整までできるんですか」

 「できなきゃ、この村で長く台所なんて預かれないよ」


 診療所ではドゥシャンが小さな布袋をいくつも並べていた。

 乾燥させた解毒草の細片、喉を守る樹皮粉、霧に当たったあとに飲む薄い丸薬。旅の途中でも扱いやすいよう、袋ごとに用途を変える。


 「持ち歩けるようにするんですか」

 ナイメが問う。

 「全部ここで治せればいいが、旅人は先へ進む」

 「売り物に?」

 「説明付きならな」

 「値段は」

 「まだ決めてない」

 「決めてください」

 「即答だな」

 「そこが曖昧だと帳簿が死にます」

 「わかった」


 そう言いながら、ドゥシャンは袋へ結ぶ紐の長さまで揃えていた。無愛想なくせに、そういうところだけ丁寧だ。


 ナイメは袋を一つ手に取った。紙札には簡潔な文字で、朝もや対策包・軽、とある。効き目の強いものと弱いものを分け、子どもや年寄り向けも作るつもりらしい。


 「見やすいですね」

 「読めないと困る」

 「いえ、そうじゃなくて」

 ナイメは紙札を指で撫でた。

 「あなた、こういう細かいことを、面倒くさがらないんですね」

 「必要だからな」

 「必要でも嫌がる人はいます」

 「君が嫌がらずに帳簿を揃えるのと同じだ」


 不意にそう言われ、ナイメは返事を詰まらせた。

 同じだと、そんなふうに自然に並べられると困る。自分の仕事を当然のように理解されるのは、嬉しいより先に落ち着かない。


 そこへ、外から大きな声が飛び込んできた。


 「寄っていけ! いや寄ってください! 谷を越える前に体を整えるなら今だ!」


 ヘルヴァルトである。


 ナイメは額を押さえたまま、診療所の窓から外を見た。街道脇に立った彼は、どこか号令をかける騎士時代の癖が抜けていない。声量がありすぎるし、姿勢がよすぎて、客引きというより徴発だ。


 そのうえ旅人の荷を見つけると、善意で持ちたがる。


 「止めてきます」

 ナイメが言う。

 「行け」

 ドゥシャンが即答した。


 宿の前まで走ると、案の定、旅人の一団が半歩引いていた。ヘルヴァルトはにこやかなつもりらしいが、体格の良さが圧になっている。


 「ヘルヴァルトさん」

 「おう、来たか管理人! 今ちょうど話しててな」

 「その距離を一歩下がってください」

 「え」

 「今です」

 「はい」


 一歩下がらせると、旅人たちの肩のこわばりが少しだけ解けた。


 「申し訳ありません」

 ナイメは一団へ頭を下げた。

 「こちらは朝もやの谷へ入る前に休める薬湯宿です。温かい軽食と、旅の途中で使える解毒包もございます。必要があれば診療所も併設しています」

 「……さっきの人に腕を取られかけたんですが」

 旅人の一人が言う。

 「取りません!」

 「取ろうとしました」

 「善意で!」

 「善意でも駄目です」

 ナイメが切る。


 後ろでダグフィンが吹き出していた。

 「いいねえ、管理人さん。君が表に立つほうが客は安心する」

 「褒めている暇があったら、この人の使い方を考えてください」

 「考えてる。彼は近くにいると圧があるが、遠くから見ると頼もしい。護衛役の見た目だ」

 「役?」

 「そう。声をかけるんじゃなく、立ってればいい」

 「俺、立ってるだけか?」

 「たまに荷物運び」

 「それは得意だ」


 役割を変えると、確かに少しましになった。

 ヘルヴァルトが宿の入口脇に立つだけで、谷へ入るのが不安な旅人には護衛がいるように見える。口を開かなければ、の条件付きではあるが。


 通信所ではコニュが原稿を前に、唇を噛みしめていた。

 彼の机には、ナイメが赤を入れた紙が三枚も積まれている。


 「どうして毎回、“疲れた旅人の背を朝もやが優しく撫でる宿”とか書きたくなるんですか」

 「情景が浮かぶからです」

 「浮かんでも削ります」

 「“谷前休息所・出口の宿、薬湯と軽食あります”だけでは味気ないです」

 「味は現地で感じてもらってください」

 「ひどい」

 「事実です」


 だが、削られながらもコニュはよく働いた。

 定型に沿った短い通信文を、方角ごとに時刻をずらして何度も流す。誰が相手でも声色だけは妙に澄んでいて、最後に必ず「応答願います!」と入るせいで、聞いた側の記憶に残りやすいらしい。


 昼前には、街道を通る荷馬車が二台、宿の前で速度を落とした。

 一台はそのまま通り過ぎたが、もう一台は少し迷った末、宿の前で止まった。夫婦らしい二人連れと、荷台に座る年配の女性。谷を越える前に休ませたいが、時間も惜しいらしい。


 「長居はできないんですが」

 夫婦の男が言う。

 「薬湯だけでも使えますか」

 「使えます」

 ナイメは即座に答えた。

 「短時間用の料金もございます。軽い食事ならすぐお出しできます」


 まだその料金表は朝のうちに書き直したばかりだった。宿泊しか前面に出していなかった以前の札をやめ、薬湯のみ、軽食付き、簡易解毒包付きの三段に分けた。旅人が選びやすいようにしただけなのに、たったそれだけで相手の顔つきが変わる。


 「選べるんですね」

 女性が言う。

 「はい。必要なものだけで構いません」

 「じゃあ、母だけ休ませたい」

 「浴場前が静かです。こちらへ」


 宿へ案内しながら、ナイメは少しだけ息を呑んだ。

 初めてではない。だが、以前と違う。以前は“困ったから仕方なく寄る”顔だった客が、今は“ここなら使えそうだ”という目をしている。


 その日は、昼までに三組が薬湯だけを利用し、二組が軽食を取り、一組がそのまま宿泊を決めた。

 たったそれだけ。たったそれだけなのに、帳場の売上欄に数字が並ぶたび、紙の白さまで違って見えた。


 ナイメは昼下がり、誰もいない隙に帳場で売上帳を開いた。

 炭筆の先が少し震える。金額は大きくない。王都の催しの予算書に比べれば笑ってしまうほど小さい。けれど、自分たちが考えて動いて、その結果として入った数字は、押しつけられた請求書の黒い文字よりずっと重かった。


 「そんな顔もするんだな」

 声がして振り向くと、ドゥシャンが帳場の柱にもたれていた。


 「どんな顔ですか」

 「笑いそうなのを我慢してる顔」

 「笑ってません」

 「今、少しした」

 「していません」

 「した」


 言い切られて、ナイメは売上帳を閉じた。

 熱が上がるような嬉しさではない。もっと静かで、足元へじんわり広がる感じだ。自分が書き入れた数字のせいで、守りたいと思ってしまう。その自覚が、嬉しさより先に怖かった。


 「少し、増えただけです」

 ナイメは言う。

 「うん」

 「これでどうにかなる額じゃありません」

 「うん」

 「でも」

 「でも?」

 「でも、増える形はあるんだと思いました」


 ドゥシャンは答えず、帳場の上に置かれた簡易解毒包を一つ指で転がした。


 「形が見えると、人は動ける」

 「あなたまでダグフィンみたいなことを」

 「似てるか?」

 「少しだけ」

 「嫌だな」

 「そこは同意するんですね」


 そのやり取りの軽さに、自分でも少し驚く。

 王都では、こんなふうに誰かと言葉を往復させる前に、だいたい先回りして黙っていた。何を言っても無駄だと思うと、人は早く黙る癖がつく。


 だがここでは、黙るとそのぶん誰かがずけずけ踏み込んでくる。

 悪いことばかりではなかった。


 午後遅くになると、ヘルヴァルトがようやく客引きの距離感を覚えた。立つ場所を宿から少し離し、声をかけるときは進路を塞がない。荷を持つ前に必ず聞く。その三つだけで別人のようだ。別人でも困るが、今のほうが助かる。


 「管理人、見たか。今日は逃げられてない」

 「逃げられていない、が基準なんですね」

 「昨日までの俺なら二人は逃げてる」

 「誇らしげに言うことではありません」

 「でも一人、子どもに手を振られた」

 「それはよかったですね」

 「だろう?」


 笑ってしまいそうになり、ナイメは咳払いでごまかした。

 村の大人たちは皆どこか極端だ。けれど、その極端さをうまく置けば、ちゃんと働く。


 日が傾く頃、ダグフィンは宿の前へ新しい仮看板を立てた。

 派手な絵も飾りもない。朝もや色の布を細く巻き、文字だけを目立たせた簡素なものだ。それなのに、夕方の薄光の中では妙に目に入った。


  谷を越える前に整える

  薬湯と軽食

  出口の宿


 通りがかった商人風の男が、それを二度見した。


 「前と違うな」

 「変えました」

 ナイメが答える。

 「何がある宿か、前よりわかりやすい」

 「それならよかったです」

 「明日の帰り、寄れるなら寄る」


 何気ない一言だった。

 けれど、それを聞いた瞬間、ナイメの胸が少しだけ鳴った。誰かの予定の中に、ここが入る。それがこんなにも大きいことだとは思わなかった。


 夜、最後の客へ湯を案内し終えたあと、食堂では遅い賄いが始まった。

 鍋の底には、薬草粥が少しだけ残っている。皆、疲れているのに顔が明るかった。働いた結果が見えた日の食事は、少ない量でも不思議と湯気が立つ。


 「見たかい、あのご婦人」

 シュクルティが椀を持ちながら言う。

 「帰り際に、“またこの道を通るなら寄りたい”って」

 「言っていましたね」

 ナイメが頷く。

 「軽食も、おかわりされましたし」

 「塩をほんの少し変えたんだよ」

 「そこなんですね」

 「そこだよ。人は気づかなくても、舌は覚える」


 ダグフィンが得意げに足を組む。

 「だから言ったろう。整える宿として見せれば伸びる」

 「まだ初日です」

 ナイメが釘を刺す。

 「初日の数字は癖になる」

 「怖い言い方をしないでください」

 「本当のことだ。管理人さん、もう次の手を考えてる顔だ」

 「……」

 「否定しないあたり、筋がいい」


 図星だった。

 売上帳の行を見た瞬間から、次に足りないものが勝手に浮かんでしまう。宿泊用の布団干しの順番、軽食に使う根菜の仕入れ、簡易解毒包の補充数、薬湯樽の回転、案内札の追加。頭の中で勝手にローテーションが組まれていく。


 「明日は朝のうちに在庫を書きます」

 ナイメは椀を置いた。

 「軽食の材料、解毒包、薪、浴場用の湯桶、全部です。増え方がわからないままでは、せっかくの客足を止めます」

 「うわあ、もう始まった」

 ヘルヴァルトが言う。

 「何がですか」

 「管理人の止まらないやつ」

 「止める理由がありません」

 「そういうところ、嫌いじゃない」

 「聞いていません」


 笑いが起きる。

 その輪の端で、ドゥシャンだけが静かにナイメを見ていた。視線に気づくと、彼は遅れて口を開いた。


 「売上帳、あとで見せてくれ」

 「診療所の分も合わせますか」

 「いや」

 少し間を置いてから、彼は言った。

 「君が今日書き入れた最初の数字を見たい」


 椀の中の湯気が、急に近くなった気がした。

 たかが数字だ。そう思うのに、その言い方は反則だ。誰かにとってその数字が意味を持つような言い方を、平然とする。


 「……変なことを言いますね」

 ナイメは視線を落とした。

 「変か」

 「変です」

 「そうか」


 そう言いながらも、彼は取り消さなかった。


 食事のあと、ナイメは一人で帳場へ戻った。

 油灯を少しだけ高くし、売上帳を開く。今日の行には、薬湯のみ、軽食付き、宿泊一件、解毒包三つ。数字としては小さい。けれど、その一つひとつの後ろに顔が浮かぶ。母を休ませた夫婦、谷を越える前に喉を整えた商人、足を温めてから眠りについた旅人。


 前までは、請求書の数字がただ怖かった。

 今は違う。増やせる数字もある。守るために積める数字もある。


 ナイメは帳面の端へ、明日の補充予定と新しい案内札の位置を小さく書き添えた。

 その筆先が止まったとき、ふと気づく。


 守りたい。

 村を。宿を。ここで湯気を立てて笑っていた人たちを。

 その気持ちは、まだ大声で言えるほど育ってはいない。けれど、たしかに芽を出していた。


 王都では、目立たないように、余計なことをしないようにと自分へ言い聞かせてきた。

 ここでは逆だ。何もしないと、宿がひとつ、村がひとつ、静かに消えていく。


 帳場の外で、夜風が新しい看板を小さく揺らした。

 薬草と木の匂いの混じる宿の空気は、相変わらず古びている。それでも今夜は、ほんの少しだけ、未来の匂いがした。


 ナイメは売上帳を閉じ、そっと両手で押さえた。

 数字が入った。たったそれだけのことが、こんなにも胸に重い。


 明日もやることは多い。

 広告料の不正も消えてはいない。ルーベンスの顔を思い出せば、腹の底はまだ冷える。

 それでも、今日初めて、自分たちの手で宿の息を少しだけ深くできた。


 その事実だけは、誰にも奪わせたくなかった。



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