第4話 赤字の理由は、客が少ないだけじゃない
請求書と納品表を見比べたまま、ナイメはしばらく瞬きも忘れていた。
夜の帳場には、小さな油灯が一つだけ灯っている。火は穏やかなのに、紙の上の数字だけが落ち着かなかった。昼の避難対応で疲れきっているはずなのに、頭の奥だけが妙に冷えている。こういう感覚は久しぶりだった。誰かがきれいに整えた顔で嘘をついているとき、数字はたいてい、その端っこだけ隠し忘れる。
ドゥシャンは帳場の向かいへ立ったまま、ナイメの手元をのぞき込んだ。
「どこだ」
「ここです」
ナイメは広告料の内訳欄を指で押さえた。
「街道掲示更新料、案内冊子掲載料、霧害注意報の特別掲示料。ここまでは、名目としてまだわかります」
「まだ、か」
「ええ。納得はしませんけど」
「その先は」
「これです。“緊急注意喚起掲示補助費”」
ドゥシャンが眉を寄せる。
「似た名目だな」
「ほぼ同じです。注意喚起のための掲示費が、言い換えだけで二重に入っています」
炭筆で書き写したメモを脇へ置き、今度は納品表をひらく。乾燥解毒草、喉薬用の樹皮、護符に使う銀糸、薬湯用の苦根。月ごとの数が並んでいるが、帳尻の合い方が不自然だった。
「こっちは診療所のほうです。使った記録と現物が合わない月が何度もあります」
「足りないんじゃなく、多い」
「はい。そこが気になります。届いていないのに使ったことにするなら不足が出ます。でも今回は逆です。帳面の上では届いたことになっているのに、現物が残っている月と、逆に、届いた数そのものが怪しい月が混ざっている」
ドゥシャンは一枚ずつ紙を追いながら、低く息を吐いた。
「配送印もおかしい」
「わかりますか」
「この月の印は、街道組合の現地窓口のものじゃない。少し前まで使っていた古い型だ」
ナイメは顔を上げた。
ドゥシャンは診療の記録しか見ていない男ではないらしい。必要に迫られて覚えたのだろう。そういう人の目は、机の上だけで働いていた人間とは違う。
「知っているんですか」
「王都の医官局にいたころ、こういう印は何度も見た」
「それで飛ばされたんですよね」
「そうだ」
声は乾いていたが、投げやりではなかった。自分のこととして語るのに、妙に飾りがない。
「不正な薬効報告への署名を断った」
と、彼は続けた。
「薬が効いたことにしたかった連中は、数字と印を揃えていた。紙だけ見れば整っていたが、現場の使用量と合わなかった。匂いが似ている」
似ている。
その一言で、ナイメの背筋を冷たいものが走った。彼の声には、勘に頼る軽さがなかった。実際に踏み抜いた泥の重さがある。
「では、宿だけじゃなく診療所も」
「ああ。巻き込まれてる可能性が高い」
宿の赤字は、客が少ないからだけではない。
そう気づいた瞬間から、請求書の紙質まで違って見えた。上等な紙は、人を黙らせるためにも使える。
「明日、ルーベンスに会います」
ナイメは言った。
ドゥシャンがすぐ頷く。
「俺も行く」
「現地担当官が、まともに答えるでしょうか」
「答えないなら、答えない顔を見ればいい」
「顔を見てどうするんですか」
「記憶する」
「地味に嫌なやり方ですね」
「役に立つ」
それはたしかにそうだった。正しいことを言う人間は、問い返されても声の置き場が変わらない。誤魔化す人間は、たいていどこかに余計な滑りが出る。
夜の終わりに、ナイメは古い帳簿をさらに二冊掘り出した。宿の前任管理人が残した収支帳と、もっと前の簡易宿帳。紙は日焼けし、端が丸まっていたが、数字は案外まっすぐ残っていた。広告料は数年前までは今の半分以下。霧害注意の掲示費も一度しか計上されていない。増額の始まった時期と、薬材の納品印が乱れはじめた時期が、きれいに重なっていた。
つまり、誰かが途中から村の首に縄をかけ直したのだ。
翌朝、ナイメは寝不足のまま通信所へ向かった。
朝もやが薄く流れる坂道を上ると、丸屋根の小屋の窓から青白い光が漏れている。扉を開ける前から、中で誰かがぶつぶつ練習している声が聞こえた。
「応答願います、は語尾を上げすぎない。いやしかし緊迫感が。いやでも詩情が」
「詩情はいりません」
扉を押しながらナイメが言う。
中で青年が飛び上がった。細身で、髪は寝癖のまま、手には紙束。水晶台の前で一人芝居でもしていたのか、妙に姿勢だけがいい。
「わっ、管理人殿! 応答願います、驚かせないでください!」
「今、私が応答しました」
「そうでした!」
この村では、落ち着きのない人ほど声が明るいらしい。
「コニュさん、通信記録を見せてください」
「いきなり本題ですね」
「朝だからです」
「朝は叙情の時間では」
「違います」
きっぱり言うと、コニュはしゅんとした顔で棚をあさりはじめた。だが動きそのものは早い。必要な箱を選ぶ手に迷いがない。
「どの期間です?」
「広告料が上がり始めたころから、できれば全部」
「全部」
「無理ですか」
「いいえ、できます。僕はできる男なので」
「そこは疑っていません」
「珍しいですね。村ではよく疑われます」
「比喩のせいです」
やがて机の上に、紐で綴じた通信控えがいくつも積まれた。街道組合への連絡、薬材不足の申請、霧害注意の受領確認、旅人滞留の報告。形式はばらばらだが、控えの末尾には送信先と返答の有無が書き込まれている。
ナイメがひとつめくると、横からコニュが胸を張った。
「送ったものは全部記録しています。返答が来なかったものも、返答が詩情に欠けていたものも」
「後者は区別しなくていいです」
「でも心が」
「心ではなく日時をください」
通信控えを三十通ほど見たところで、ナイメは眉を寄せた。
「これ、返答の欠落が多すぎませんか」
「多いです」
コニュが急に真面目な顔になった。
「去年の冬前から、街道組合の返答がやたら遅くなりました。届いているはずの確認文が、なぜか再送扱いになることも増えています」
「再送扱い」
「はい。僕はちゃんと送っているのに、“受領記録なし”って」
「そのときの相手は」
「ほとんどルーベンスさんの窓口です」
ドゥシャンが横で控えをめくりながら言う。
「薬材不足を知らせた文もあるな」
「あります。なのに補充が遅い月が続いた」
「しかも納品表の上では、届いている月がある」
ナイメが続けた。
紙と紙が、同じ事実を違う顔で書いている。
こうなると、ただの手違いでは済まない。
通信所を出るころには、ナイメの腕の中に帳簿と控えが山になっていた。紙だけなら軽いはずなのに、持つほどに重い。
「本当に行くのか」
坂を下りながらドゥシャンが言う。
「行きます」
「嫌な気分になるぞ」
「もう半分くらいなっています」
そう答えると、彼がほんの少しだけ口元を和らげた。
笑った、というほどではない。けれど、曇り空がわずかに薄くなるくらいの変化はあった。
ルーベンスの窓口は、街道詰所の隣にある石造りの事務室だった。
扉の取っ手だけが妙に磨かれていて、入る前からいやらしい。中へ通されると、棚には規約集がきっちり並び、机の端には花も置いてある。整っているのに息苦しい部屋というのはある。ナイメは久しぶりに王都の空気を思い出した。
ルーベンスは机の向こうで書類を整えながら、わざとらしいほど穏やかな声を出した。
「これは珍しい。朝もやの村の皆さんが揃ってこちらへ」
「お忙しいところ失礼します」
ナイメは言った。
「失礼と思うなら短くお願いします。今週は監査前で立て込んでいますので」
立て込んでいる人間は、普通そこで手を止めない。ルーベンスはわざわざ羽根ペンを置いて両手を組んだ。話を聞く姿勢の演出だけは丁寧だ。
「広告料の内訳を確認したくて来ました」
ナイメは請求書を机へ置いた。
「こちらの“緊急注意喚起掲示補助費”ですが、既存の掲示更新料と内容が重複しています」
「重複ではありません」
ルーベンスは即答した。
「どのように違うのでしょう」
「前者は通常掲示、後者は霧害地域における補助対応費です」
「それなら、霧害注意報の特別掲示料と区別がつきません」
「細目が違います」
「細目表を見せていただけますか」
一拍だけ、ルーベンスの指が止まった。
その止まり方はほんのわずかだったが、ナイメは見逃さなかった。
「現地管理人の閲覧権限では、概要までです」
「請求される側に、詳細を確認する権限がないんですか」
「規約上は」
規約上。
やはりその二文字が出る。
「では薬材納品についても伺います」
今度はドゥシャンが口を開いた。
「受領確認を出していない月まで、納品完了として処理されています。なぜです」
「運搬記録上、荷は到着しています」
「診療所には入っていない」
「保管所止まりだったのでは」
「保管所の記録も見た」
「なら、どこかで見落とされたのでしょう」
見落とし。
言葉ひとつで人の冬支度を消していいと思っている顔だった。
ナイメは机上の規約集に目をやった。背表紙は新しく、擦れが少ない。読むためではなく、積むために置かれた本に見える。
「こちらから送った通信についても」
ナイメは通信控えを差し出す。
「受領記録なしとされたものが複数あります。送信時刻も控えも残っています」
「通信水晶は天候の影響を受けますからね」
「受けていない日の分もあります」
「では記録の転写ミスでしょう」
あまりにも滑らかで、逆に感心しそうになる。何を出されても、曖昧な一言でこちらの足場を崩すつもりなのだろう。
「つまり」
ナイメは声の高さを変えないようにして言った。
「広告料の詳細は開示できず、薬材の受領ズレは見落としで、通信不達は天候か転写ミス、ということですか」
「現時点では、その理解で問題ありません」
現時点では。
逃げ道の作り方だけが上手い。
ルーベンスは少し身を引き、いかにも親切そうな口調に変えた。
「正直に申し上げますと、朝もやの村は近年ずっと採算が悪い。皆さんが努力されていることは承知していますが、地理的条件には限界があります。無理をして滞納を膨らませるより、もっと現実的な着地点を考えるほうが」
「現実的な着地点?」
ナイメが聞き返す。
「ちょうど村一帯に興味を示している方もいます。谷の景観は素晴らしい。高級保養向けに整えれば、地元の方にも雇用が」
「宿を潰して、ですか」
ドゥシャンの声が低くなる。
ルーベンスは肩をすくめた。
「潰す、という表現は穏やかではありませんね。時代に合わせるだけです」
「旅人の解毒所を消して」
「新街道が主流ですから」
その瞬間、ナイメの中で何かがぴたりと収まった。
腹が立つとき、人は逆に静かになることがある。王都で、もう何度も覚えた感覚だった。
「わかりました」
ナイメは請求書と通信控えを順に取り戻した。
「では、正式な説明文を文書でいただけますか」
「説明文?」
「はい。広告料の細目が開示できない理由、薬材納品ズレの見解、通信不達の扱い。こちらで保管します」
「その必要は」
「あります。村の収支と審査対応に必要ですから」
ルーベンスは初めて、少しだけ笑みを薄くした。
「ずいぶん熱心ですね」
「管理人ですので」
「三か月だけの任地でしょう」
その言葉に、ナイメは瞬き一つしなかった。
ルーベンスは知っている。神殿式の押しつけ人事で来た人間が、だいたいどこで諦めるかを。
「ええ」
ナイメは答えた。
「だからこそ、引き継げる形にしておきます」
先に立ち上がったのはドゥシャンだった。
彼は机に手もつかず、ルーベンスをまっすぐ見た。
「文書は受け取りに来る」
「ご自由に」
「それと」
ドゥシャンが続ける。
「次に診療所の薬材が遅れたら、患者名は伏せたうえで症状と不足内容を全部記録して送る」
「脅しですか」
「予告だ」
言い切って外へ出る背中は、無愛想なくせに妙に頼もしかった。
事務室を出た瞬間、外の空気が少しだけましに思えた。冷えているのに、あの部屋より息がしやすい。
坂道を宿へ戻りながら、ナイメは抱えた紙束を見下ろした。
「答えませんでしたね」
「答えていた」
ドゥシャンが言う。
「え」
「都合の悪いところだけ、きれいに逃げた。あれで十分だ」
「十分、ですか」
「少なくとも、偶然のミスだと思う必要はなくなった」
たしかにそうだった。
証拠はまだ足りない。けれど、疑う理由だけは揃ってきた。
「売上を増やすだけじゃ足りませんね」
ナイメが言う。
「うん」
「宿を立て直しても、不正請求をそのまま飲めばまた首が締まります」
「だから両方やる」
「宿の再建と、不正の証拠集めを同時に?」
「無理か」
「無理です」
「だろうな」
「認めるのは早いですね」
「でもやるしかない」
足を止めずにそう言える人は、ずるい。こちらが尻込みする隙を与えない。
宿に戻ると、ゲルマナが帳場で待っていた。ナイメが要点だけ伝えると、彼女は深くうなずいた。
「やはり、という顔ですね」
ナイメが言う。
「ええ。長く住んでいると、理不尽が自然に見える時期があります。でも、自然に見えるからといって正しいわけではありません」
「村の人には、まだ」
「今は売上の話を先にしましょう。不安だけ増やしても働けません」
その判断は正しかった。宿はようやく数組の旅人を迎えたばかりだ。ここで敵の顔だけを見せれば、手元が止まる。
だが、売上を増やす話をしようにも、現状の出口の宿には、正直なところ魅力の看板が足りなかった。湯はある。食事も改良の余地がある。診療所の安心もある。けれど「わざわざここへ寄りたい」と旅人に思わせる何かが、まだ見えない。
食堂でシュクルティが薬草を刻み、ヘルヴァルトが壊れた窓枠と格闘し、コニュが隅で通信文の下書きに余計な形容を足してはナイメに消されている。見慣れはじめた騒がしさの中で、ナイメは帳面を前に頭を抱えた。
「何が足りないんでしょう」
「金」
ヘルヴァルトが即答した。
「身も蓋もありません」
「あと扉」
「それは見ればわかります」
「夢もいるねえ」
シュクルティが言う。
「夢」
「この宿に寄ったら、体が楽になるだけじゃなくて、ちょっと気持ちまでほどける、みたいな」
「そんな曖昧なもの、帳簿に書けません」
「書けなくても、人はそれで財布を開くんだよ」
もっともらしいのに、どう形にすればいいのかわからない。
ナイメが唸った、そのときだった。
外で、聞き慣れない派手な音がした。
馬車の車輪に鈴でもつけているのか、からんからんと間の抜けた音が近づいてくる。しかも止まる場所を迷っているらしく、宿の前で一度行き過ぎ、戻り、最後にがたんと大きく揺れた。
「何ですか今の」
ナイメが顔を上げる。
ヘルヴァルトが窓からのぞき、吹き出した。
「なんだあれ」
「知り合いですか」
「いや、知り合いになりたくない類いだ」
言いながらも面白がって外へ出ていくので、結局みんなついていくことになった。
宿の前には、やたらと布の色だけ華やかな小型馬車が止まっていた。側面には半分剥げた金文字で、何か一座の名らしきものが書いてある。荷台には折り畳み看板、旗、木箱、なぜか紙吹雪の残骸まで積まれていた。
その上から男がひょいと飛び降りる。
細身の長衣に、襟元だけ妙に派手な刺繍。旅芸人めいた身軽さで着地し、帽子を取る動作だけは芝居がかっている。目尻には笑い皺があるのに、胡散臭さが先に立つ顔だった。
「お待たせしました、朝もやの村の皆さん!」
男は胸に手を当て、大仰に一礼した。
「待っていません」
ナイメが即答する。
男は少しも怯まず、ぱっと顔を上げた。
「そう言われるところから始まる仕事ほど、後で拍手が増えるんですよ」
「誰ですか」
「ダグフィン。旅回り一座あがりの広告請負人です」
「帰ってください」
「早い早い。名乗って三息しか経ってません」
ヘルヴァルトが肩を揺らして笑い、シュクルティは呆れたように腕を組む。コニュだけが目を輝かせた。
「広告請負人! それはつまり言葉で人を集める仕事人!」
「そうとも。君、わかるね」
「僕もときどき比喩で怒られます!」
「怒られる才能は伸ばせる」
「いりません!」
ナイメが遮った。
ダグフィンはそんなやり取りさえ面白そうに眺め、宿の傾いた看板、外れた扉、しけた鉢植え、そしてナイメの抱えた帳簿まで、ひと目で見回した。
「なるほどねえ」
と、彼は言う。
「客が少ないうえに、金まで吸われてる顔だ」
ナイメの眉がぴくりと動いた。
「……何を知っているんですか」
「街道筋じゃ、噂は荷車より速い。まして通信水晶がある」
ダグフィンはそこでコニュのほうを見た。
「昨夜、“宿の再建に知恵と客足が足りません”って文が広く流れたろう?」
「そんな直球送りましたっけ」
「途中まで詩にしてたので私が削りました」
ナイメが言う。
ダグフィンは愉快そうに笑い、荷台の上の折り畳み看板をぽんと叩いた。
「客が来ないなら、客が来たくなる見せ方を作ればいい。宿ってのは寝床と湯だけじゃない。人が口に出して誰かに話したくなる形を持った瞬間、ようやく金を呼ぶ」
風が吹き、朝もやの残り香が看板の端を揺らした。
村人たちの顔に、ほんの少しだけ別の色が差す。期待と警戒が、同じだけ。
ナイメは腕の中の帳簿を抱え直した。
胡散臭い。胡散臭いが、今の村に足りないのが「話したくなる形」なのは事実だった。
それでも簡単に頷く気にはなれない。
「うさんくさいです」
ナイメが言う。
「最高の褒め言葉だ」
ダグフィンは笑った。
「さあ管理人さん、追い返す前に三分だけください。三分で、この宿をただの赤字宿から“寄り道したくなる宿”に変える入口を見せてみせましょう」
そう言って彼は、ずけずけと宿の敷居をまたいだ。
追い返すべきだと頭は言っているのに、誰もすぐには止めなかった。
沈みきっていた空気が、ほんの少しだけ持ち上がったからだ。
ナイメはその背中をにらみながら、厄介ごとがまた一人増えたと確信した。
そしてたぶん、その厄介ごとは、村に必要な種類の厄介ごとでもあるのだろうと、少しだけ思ってしまった。




