第3話 解毒医官と、最悪の共同作業
翌朝の朝もやは、白いというより重たかった。
まだ陽が谷の底まで落ちてこないうちから、村じゅうの空気が湿った布のようにたれ込み、戸口の隙間からするりと宿へ入り込んでくる。外へ出たナイメは、喉の奥を細い針でなぞられるような違和感に眉をひそめた。護布を口元へ押し当てても、苦味がじわりと残る。これがコニュの言っていた濃度上昇なのだろう。比喩の混ぜ方は妙でも、警告そのものは正確らしい。
帳場前では、すでに何人かがばたばた動いていた。シュクルティが大鍋を二つ抱えて食堂へ入り、ヘルヴァルトが長椅子を引きずってくる。ドゥシャンは診療所から箱を運び出しながら、誰に言うともなく短く指示を飛ばしていた。
「軽症は宿。息苦しさの強い者は診療所。谷口から来る旅人を先に通す」
言葉は簡潔だが、聞き返す暇もない速さだった。村人たちは慣れているのか、各々うなずいて動き出す。ナイメだけが、一瞬その場に立ち尽くした。
慣れた現場に、慣れない人間が一人混ざるとき、自分がいちばん邪魔になる。王都でもそうだった。流れを知らない者は、だいたい余計なところに立つ。だから普段は端へ避ける。見て、覚えて、求められたぶんだけ手を出す。それがいちばん傷が浅い。
けれど、その朝の宿は端へ避けて済む顔をしていなかった。
食堂を見渡した瞬間、ナイメは反射で卓の位置を頭の中に並べ替えていた。入口から近い三卓は受付兼軽症者の待機場所にできる。窓際は冷えるから、子どもと老人は奥へ寄せたほうがいい。大鍋の置き場は中央ではなく壁際。湯気が立てば人が寄るし、通路が詰まる。診療所へ運ぶ動線と、宿へ入れる動線は分けなければならない。
「ヘルヴァルトさん、その長椅子は壁沿いへ」
「お、いきなり命令形だな」
「中央に置くと通れません。あと脚のぐらつくほうは子どもを乗せないでください」
「見分けつくのか?」
「昨日鳴りました」
言いながら自分で卓を押す。重い。だが、押せない重さではない。そこへシュクルティが鍋を置き、すぐに察したらしく別の卓も持ち上げた。
「そっち寄せるのかい」
「はい。湯気の立つ物は壁側です。人が集まりすぎます」
「なるほどね」
「椀は入口と反対側に。最初に飲ませる人と、後から休む人を分けたいです」
「了解」
返事が早い。話が通る。たったそれだけのことなのに、ナイメは妙に驚いた。王都では、動線を変えようと提案すると、まず「誰の許可で」と聞かれた。ここでは卓をずらすより早く椀が並び出す。
外で馬のいななきがして、次いで荒い咳が二つ重なった。谷口から旅人が着いたのだ。ドゥシャンが扉へ向かい、ヘルヴァルトが肩で開けた戸口から、灰色の外套を着た男と、その後ろに小柄な娘、さらに荷車を押す年配の夫婦が入ってきた。みな護布で口元を覆っているが、目の赤さが濃い。
「座らせる場所を分けます」
ナイメは声を張った。「咳の強い人はこちら、歩ける人は卓の奥へ。荷は入口に積んだままにしないで、壁際へ寄せてください」
旅人たちが戸惑ったのは一瞬だった。ナイメが椅子を示し、シュクルティが湯を渡し、ドゥシャンが脈を取りはじめると、場は流れに乗った。娘のほうは喉を痛めただけで軽い。年配の夫婦は目の刺激が強いが意識ははっきりしている。問題は先頭の男で、息が浅く、立ったままでは危ない。
「診療台、空ける」
ドゥシャンが短く言う。
「布団を敷きます」
ナイメは即答した。「ヘルヴァルトさん、宿の二階、右奥の部屋に畳んだ寝具がありました。あれを診療所へ」
「もう見たのか」
「見ました。行ってください」
「はいはい、管理人殿」
軽口を叩きながらも、ヘルヴァルトは走った。からかいながら足が止まらないところは助かる。
次の一刻で、宿はすっかり別の建物のようになった。受付用の卓には護符と名簿。壁際には湯と椀。奥の食堂は休憩場所。廊下の先を軽症者の仮眠室にし、診療所への通路だけは常に空ける。ナイメは炭筆で古い木板に「待機」「湯」「診療」の三文字を書き、紐で吊した。字がきれいだと、なぜか人は従いやすくなる。宮廷事務局で覚えた、あまり嬉しくない知識だった。
それを見て、ドゥシャンが患者の肩を支えたまま言った。
「助かる」
たった四文字だった。けれど彼は、その言葉をちゃんと相手のほうを見て言う。そこだけ無駄にまっすぐで、ナイメは一瞬だけ返事のタイミングを失った。
「……まだ終わっていません」
「だから今のうちに言った」
そこで会話を切り上げ、彼は患者を診療所へ運ぶ。感謝を飾らない人間は、受け取る側のほうが困る。心の準備というものがある。
昼前になるころには、谷口に滞留していた旅人二組だけでなく、村の外れからも喉をやられた子どもが運び込まれ、さらに護衛団の若者が一人、目の痛みを訴えて転がり込んできた。宿は満ちていくのに、働き手は増えない。
その混乱のなかで、ヘルヴァルトがなぜか入口の脇で板を打ち始めた。
「何をしているんですか!」
ナイメが振り向きざまに叫ぶ。
金槌を振り上げたまま、ヘルヴァルトがきょとんとした。
「見りゃわかるだろ。外れた板を留めてる」
「今ですか?」
「今だな」
「今、必要なのは見た目じゃありません!」
「見た目じゃなくて安全だって」
「安全にしたいなら、先に濡れた床です! 入口から三歩のところが滑ります!」
たしかにそこは朝から何度も人が出入りし、靴の泥と水でぬるりと光っていた。ヘルヴァルトは板と床を見比べ、次いで気まずそうに金槌を下ろした。
「……床か」
「床です。あと桶の位置も悪いです」
「わかった」
「それと、金槌は今しまってください。子どもが多いです」
「はい」
返事だけは妙に素直で、近くにいたシュクルティが吹き出した。
「怒鳴られてやっと順番がわかった顔してるよ」
「最初から順番はわかってた」
「じゃあ間違えるんじゃないよ」
そんな調子で場が回るうち、ナイメの頭の中には、誰が何をするといちばん滞らないかが少しずつ見えてきた。シュクルティは温かい物と子どもの世話が最速。ヘルヴァルトは考えさせると脱線するが、重い物運びは誰より速い。ドゥシャンは患者の顔を見た瞬間に重症度を分けられる。ゲルマナは騒ぐ相手を一声で落ち着かせる。だったら、その強みだけを真っすぐ使えばいい。
ナイメは食堂の隅で簡単な割り振り表を書いた。
湯と食事――シュクルティ。
搬送と荷運び――ヘルヴァルト。
診療判断――ドゥシャン。
入口記録と護符配布――ナイメ。
待機列の整理と村への声かけ――ゲルマナ。
さらに一刻ごとに役目を少しずつ入れ替える欄を作る。ずっと同じ場所に立てば人は疲れるし、疲れた人間から手順を飛ばす。王都では書庫の整理も宴の給仕も、だいたいローテーションを組めば揉めごとは減った。
「これ、壁に貼ります」
と、ナイメが言うと、ドゥシャンがすぐ受け取った。
「いい」
「いい、ではなく、確認してください」
「確認した。だから貼る」
「早いですね」
「今日は遅いほうが困る」
正論だった。ナイメはぐっと黙るしかない。
午後、濃かった朝もやが少しだけ薄まり、咳き込んでいた旅人たちもようやく落ち着きはじめた。宿の中に満ちていた緊張が緩むと、今度は一斉に疲労が押し寄せてくる。ナイメが帳場に手をついて息を吐いたところで、ヘルヴァルトがひょいと顔をのぞき込んだ。
「お前、最初からそういうの得意なんだな」
「どれのことですか」
「人を並べて、物を動かして、文句を言わせないで済ませるやつ」
「褒めていますか」
「たぶん」
たぶん、で済ませるなと思ったが、反論する体力が少し足りなかった。
そこへシュクルティが木椀を差し出す。今度は朝より匂いがやわらかい。豆の甘みが立ち、薬草の角が丸くなっていた。
「言われた通り、香りの出し方を変えた」
「早いですね」
「今日来た客に、今日まずいもん出したくないだろ」
「……おいしいです」
「なら二杯飲みな」
言われるままにひと口すすって、ナイメは肩の奥の力が抜けるのを感じた。誰かの役に立つことと、誰かに役立てられることは、似ているようでずいぶん違う。王都では後者ばかりだった。ここではまだ、どちらでもない場所に立っている気がした。
だが、その感傷は長く続かなかった。
食堂の隅で、今度は村人どうしが口論を始めたのだ。護符を先に受け取るのは旅人か、村の子どもか。誰をどこに寝かせるか。宿の裏手に荷車を回すべきか、表に残すべきか。全員、間違ったことを言っているわけではない。だから余計にまとまらない。
次々に飛んでくる声を受けて、ナイメは思わず両手で頭を押さえた。
「……団体戦って苦手なんです」
口から出た瞬間、しまったと思った。
王都でそんな本音をこぼせば、「協調性に難あり」と書かれて終わりだ。
ところが、静まり返るかと思った食堂で、最初に吹き出したのはヘルヴァルトだった。次いでシュクルティが声を立てて笑い、ゲルマナまで口元を緩める。
「そりゃ見ればわかる」
ヘルヴァルトが言う。
「でも、苦手な人の動きじゃないよ」
シュクルティが続ける。
「苦手だからこそ、順番を決めるんでしょう」
ゲルマナが静かに締めた。
ナイメはまばたきをした。
笑われたのに、馬鹿にされた感じがしない。おかしな話だった。
「順番を決めるなら、今決めよう」
ドゥシャンがいつの間にか後ろに立っていた。白衣の袖に薄く薬液のしみがついている。「ナイメ、言ってくれ。誰をどこに置く」
「私がですか」
「今日いちばん全体を見てる」
「それは……」
「早く」
容赦がない。感謝も要望も同じ温度で差し出してくる。最悪だとナイメは思った。断る隙がない意味で。
結局、彼女は食堂の中央に立つ羽目になった。
「護符は入口で先に配ります。旅人と子どもを同列に並べないでください。喉の強い痛みがある人は診療所へ、そうでない人はここで湯を飲んで休む。荷車は裏手。表に残すと通路が潰れます。寝具は二階から三組だけ下ろして、残りは夜に回してください」
指示を出してみると、周囲は意外なほど素直に動いた。ヘルヴァルトは今度こそ床を拭きに走り、シュクルティは椀を追加し、ゲルマナは揉めていた二人を外へ連れ出す。ドゥシャンは頷いただけで診療へ戻った。
その背中を見送りながら、ナイメは胸のあたりが妙に落ち着かないのを感じた。
誰かに頼られること自体が苦手なのではない。
頼られた結果、うまくいかなかったときの責任が怖いのだ。
王都で覚えたその感覚が、朝もやの湿気みたいにまとわりついている。
日が傾くころ、避難で埋まっていた宿はようやく静かになった。旅人の二組は一泊して様子を見ることになり、子どもたちは家へ戻り、護衛団の若者は片目を押さえながらも悪態をつける程度に回復した。帳場の椅子へ腰を下ろしたナイメは、膝が自分のものではないみたいに重いのに気づいた。
その前に、ドゥシャンが湯気の薄い茶を置く。
「飲め」
「命令ですか」
「今度は命令だ」
「言い切りましたね」
「手が震えてる」
言われてから、ナイメは自分の指先を見た。たしかに少し揺れていた。疲労なのか、緊張がほどけたせいなのか、自分でもわからない。
「今日の動き、助かった」
ドゥシャンは椅子に座らないまま言った。「明日からも頼む」
「明日からも」
「宿と診療所、両方だ」
「遠慮がありませんね」
「必要な相手には遠慮しない」
まただ、とナイメは思う。
そういう言い方を、平然とする。こちらが困るのを知っていてやっているのか、それとも本当に知らないのか、まだ判断がつかない。
「……一人で背負われるよりは、ましです」
結局、そんな答えしか出てこなかった。
ドゥシャンは短く頷いた。
「ならそうする」
会話がそこで終わるのも、彼らしいといえば彼らしい。
夜、宿泊客が眠り、食堂の明かりがひとつ減ったあとで、ナイメはようやく帳場に戻った。疲れているはずなのに、頭だけが妙に冴えている。忙しい日ほど、数字を見たくなるのは昔からだった。紙の上には、少なくとも気分ではなく順序がある。
昼の混乱のなかで気になったことがあった。
診療所の護符在庫が、記録より多かったこと。
それから、ドゥシャンが使ったはずの薬材の補充記録が、妙に飛び飛びだったこと。
帳場の引き出しから広告料の請求書を出し、診療所から借りた納品表と並べる。炭筆で日付を書き写し、納品印の形をひとつずつ比べる。王都にいたころ、誰も見ないと思って書き換えた数字が、あとでどんな顔をして戻ってくるかを何度も見てきた。違和感は、たいてい些細なところから滲む。
「……あれ」
広告料の内訳欄に、同じ名目の加算が二度入っている。街道掲示更新料。案内冊子掲載料。霧害注意報の特別掲示料。そして、ほとんど同じ説明文の「緊急注意喚起掲示補助費」。名称だけ変えているが、やっていることは似ている。
さらに納品表をめくると、月初に届いたことになっている解毒草の束数と、ドゥシャンが記した使用量が合わない。足りないのではなく、多すぎる月がある。現物も記録より多かった。届いていない物を使ったのではなく、届いたことにされた物が別にあるのかもしれない。
ナイメは請求書を指で押さえた。
客が少ないだけでは、この赤字の形にはならない。
誰かが数字をいじっている。しかも宿だけではなく、診療所まで巻き込む形で。
帳場の外では、白く薄れた夜の朝もやが、また戸口に滞っていた。
その向こうで、誰かの足音が止まる。振り返ると、診療所帰りらしいドゥシャンが立っている。
「まだ起きていたのか」
「起きています」
「顔が嫌なものを見つけた顔だ」
「見つけました」
ナイメは請求書と納品表を、そっと揃えて持ち上げた。
「広告料の内訳と、薬材の納品記録です。これ、客が少ないだけじゃ説明がつきません」
ドゥシャンの目が、静かに細くなる。
その反応だけで、ナイメは確信した。
この村の首を絞めているのは、朝もやだけではない。




