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追放された事務官は、朝もやの村の薬湯宿で恋と再建を拾い直す  作者: 乾為天女


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第2話 出口の宿は、出口がありません

 出口の宿には、出口どころか玄関扉がなかった。


 正確には、扉はあった。あったのだが、蝶番ごと外れて壁に立てかけられていた。板の下半分には、何かに蹴られたような浅いへこみが三つ。雨除けの庇は片側だけ沈み、入口脇の鉢植えには、なぜか薬草ではなく大根が一本だけ植わっていた。


 ナイメはしばらく黙って立ち尽くしたあと、包みを抱え直した。


 「……これが、宿」

 「そうだ」

 ヘルヴァルトが胸を張る。「名前は立派だろ」

 「名前だけですね」

 「看板もある」

 「傾いています」

 「風情だ」

 「言い切りましたね」


 会話の応酬だけなら少し笑える。だが、玄関の先に広がっていた光景は笑えなかった。


 土間には古い長椅子が三脚、うち一脚は脚がぐらついている。帳場の棚には空瓶が二本、護符を入れるはずの引き出しには木屑が溜まり、壁の掲示板には三年前の祭日の案内がそのまま残っていた。奥の食堂をのぞけば、鍋は逆さに干されたまま、台所の棚は半分以上が空。薬湯用の樽にいたっては底が乾ききっていた。


 「台所、空っぽですね」

 「昨日の夜までは玉ねぎが二つあった」

 ヘルヴァルトが言う。

 「どこへ」

 「シュクルティが朝飯にした」

 「では今、本当に空なんですね」

 「そうなるな」


 宿の現状を説明するのに、そんな堂々とした口調はいらない。ナイメは頭痛を覚えながら帳場へ向かった。机はある。椅子もある。羽根ペンも、芯の短い炭筆もあった。そこだけを見るなら、なんとかなる気がしなくもない。人間は机ひとつで希望を錯覚できる生き物だと、久々に知った。


 だが、その机の上には、希望より先に請求書が置かれていた。


 紙質だけが上等な街道組合の封筒。昨日王都で見たものと同じ差出人、同じ金額、同じ期限。端には赤い字で、初冬審査まで残り九十日、と追記されている。


 ナイメは紙を摘まみ上げた。


 「現地でも同じ額なんですね」

 「増えてなかっただけ、運がいい」

 ドゥシャンが言う。

 「これ以上増えることがあるんですか」

 「相手次第では」

 「運の基準が低すぎませんか」


 そのとき、奥の戸口から勢いよく女性が現れた。両腕に籠を抱え、湯気の立つ鍋を脇にはさんでいる。髪をひとつに束ねたその人は、ナイメを見るなり足を止めた。


 「あんたが新しい子?」

 「子、と呼ばれる年齢では」

 「細かいことを言う顔色してるね。よし、食べな。顔色の悪い人間は、空腹で余計に悪いことを考えるから」


 言い切ると、彼女は鍋を食堂の卓上へ置いた。ふわりと立つ香りは、野草と豆を煮たものらしい。素朴だが、腹の底をちゃんと温める匂いだった。


 「私はシュクルティ。ここで料理と掃除と洗濯と世話焼きをやってる」

 「最後の項目だけ、仕事量が多そうですね」

 「多いよ。見ればわかるでしょ」


 そう言って、彼女は壁際のヘルヴァルトを親指で示した。

 ヘルヴァルトは「俺は手のかからない部類だ」と言い、同時に長椅子へ腰かけたせいで脚を一本鳴らした。


 「今の音、聞こえた?」

 シュクルティが言う。

 「聞こえました」

 「だから世話が要るんだよ」


 言い返せないヘルヴァルトを横目で見ながら、ナイメは少しだけ肩の力を抜いた。王都の人間は、責任を押しつけるときほど上品な言葉を使った。ここでは、遠慮なく叱る声のほうがまだ信じられる。


 食堂へ案内され、木椀を受け取る。ひと口すすると、塩気は控えめで、薬草の苦味が後から追ってきた。まずくはない。けれど、旅人が「もう一度食べたい」と思う味かと聞かれたら、少し考える。


 考えたことが顔に出たのか、シュクルティがにやりとした。


 「言いたいことある顔だね」

 「あります」

 「言いな」

 「薬草の香りが立ちすぎています。体にはよさそうですけど、宿の食事として出すなら、もう少し……ほっとする匂いがいるかもしれません」

 「へえ」


 嫌な顔をされるかと思った。だがシュクルティは眉ひとつ動かさず、逆に椀の中身を自分でひと口すすった。


 「たしかに客向けの味じゃないね」

 「怒らないんですか」

 「怒ってどうすんの。うまくしたいなら言うしかないだろ」


 王都なら、こうはいかない。ナイメは椀を持つ手を少し見下ろした。まだ着いたばかりなのに、ここでは正しいことを言っても、その場で首が飛ぶわけではないらしい。


 食後、村のまとめ役だというゲルマナが来た。年配の女性で、背筋がまっすぐで、話す前に相手の顔を一度きちんと見る人だった。


 「よく来てくれました、ナイメさん」

 「来たというより、来させられた、が近いです」

 「そういう人が多い村です」


 さらりと受け止められ、ナイメは少しだけ面食らった。


 ゲルマナは帳場の横に立ち、宿の現状を一つずつ告げた。客足は減少。王都側の新街道が開いて以来、谷越えを選ぶ旅人が減ったこと。残った旅人も、最近は護符の配布が遅れ、薬湯の質も安定せず、ここを避けるようになっていること。加えて、街道組合への広告料が年々上がり、滞納が積み重なったこと。


 「初冬の審査までに、正規額を納める必要があります」

 「正規額」

 「ええ。こちらとしても、請求が本当に正しいかは疑っています」

 「疑っているのに、払えないと村が消える」

 「規則はそうです」


 規則。王都でもさんざん聞いた単語だ。責任を持たない人間ほど、その二文字を盾に使う。


 「もし間に合わなければ?」

 ナイメは尋ねた。


 ゲルマナは少しも言葉を濁さなかった。


 「正式街道の補給地点から外されます。旅人は案内板からこの村の名を失い、荷車は止まらなくなり、診療所も市場も先細るでしょう。土地を買いたがっている貴族もいます。村ごと手放すことになるかもしれません」

 「……村ごと」

 「ええ」


 窓の外では、朝もやがゆっくり薄れていた。晴れればきれいな谷だ。だが、ここで暮らす人間にとっては、景色がきれいなだけでは何も守れない。


 ナイメは売上帳を開いた。ここ数か月の宿泊客は本当に片手で数えられるほどしかいない。しかも単価が安い。広告料の請求書と並べると、笑ってしまうくらい釣り合っていなかった。


 「三か月」

 ナイメは小さくつぶやいた。

 「え?」

 ゲルマナが問い返す。


 「三か月だけ、問題なく終えて帰るつもりでした」

 「それで」

 「……今も、そのつもりです」


 言いながら、胸の内では別の声がした。問題なく終える、とは何を指すのか。帳簿だけ整え、払えないものは払えないと線を引き、村が消えるのを見届けることか。それならたしかに、個人の責任は軽い。王都で身につけたやり方でもある。


 だが、目の前の請求書と空っぽの棚は、きれいに割り切れる顔をしていなかった。


 そのとき、ドゥシャンが診療所の戸口から顔を出した。


 「ナイメ」

 「はい」

 「在庫を見てほしい」

 「宿のほうが先では」

 「宿にも関わる」

 「どう関わるんですか」

 「護符、解毒包、薬湯の薬材、全部つながってる」


 言い方が短い。説明を削る癖があるらしい。


 「頼む」

 と、彼は続けた。

 その二文字だけが妙にまっすぐで、ナイメは断る間を失った。


 診療所は宿の裏手にあった。表から見るより広く、棚の数も多い。だが近づくほど、管理が崩れているのがわかる。薬草束には古い札と新しい札が混じり、瓶の中身は残量がばらばらで、包帯箱の奥には護符の未完成品が押し込まれていた。


 「これ、誰が管理していたんですか」

 「俺」

 「一人で?」

 「患者も診る」

 「でしょうね」


 ナイメは額を押さえた。手が回っていない、というより、回せる人数が足りていない。王都なら担当が三人つく量だ。


 「この山積み全部を?」

 「優先順位だけつけてくれればいい」

 「簡単に言いますね」

 「できるだろ」

 「なぜそう思うんですか」

 「帳場を見る目が、数字だけ見てる人間の目じゃなかった」


 思わず顔を上げた。ドゥシャンは薬箱を棚へ戻しながら、こちらを見ている。試すような色ではなく、本当にそう判断しただけの目だった。


 ナイメは返事をしないまま、棚の前に立った。


 乾燥薬草は種類ごとに分ける。使用期限の近いものを前へ。護符素材は湿気を避ける箱へ移す。解毒包の布袋は紐色で用途を分ける。頭の中で配置を考えはじめると、手が勝手に動き出した。王都で書類棚を整えるときと同じ感覚だ。誰かの失策の尻拭いをさせられるより、目の前の混乱を順にほどいていくほうが、よほど楽だった。


 「包帯は診療台の横より、入口近くがいいです」

 「なぜ」

 「朝もやで喉をやられた旅人と、転んで擦りむいた子どもでは、最初に必要な物が違います。入口で軽症を分ければ、奥の動線が空きます」

 「……なるほど」

 「この護符、数が合いません。完成品の記録と現物がずれています」

 「足りない?」

 「逆です。記録より多い」

 「それは珍しいな」

 「珍しいで済ませたくないです」


 炭筆で簡単な表を作り、棚ごとに数を書き込んでいく。ドゥシャンは必要な物を言われた順に運び、黙って従った。口数は少ないが、頼んだことをそのままやる。変に手を出して崩さないのはありがたい。


 作業の途中でヘルヴァルトが顔を出した。


 「お、なんか診療所が賢そうになってる」

 「今までが雑すぎたんです」

 「傷つくなあ」

 「あなたの場所ではありません」

 「でも俺、たまに包帯借りるし」

 「たまに、では済まない頻度でしょう」


 言い返した直後、外から鐘の音が三つ続けて響いた。さっき聞いた村の朝告げとは違う、短く鋭い打ち方だ。ドゥシャンの顔が変わる。


 「コニュだ」

 「誰ですか」

 「通話水晶の管理をしてる」


 次の瞬間、診療所の奥に置かれた青白い水晶が、ぶわりと光を帯びた。表面に走る光が弾け、若い男の声が部屋いっぱいに響く。


 「応答願います! 応答願います! 明朝、谷東側の毒霧濃度が上がります! 繰り返します、明朝――あっ、今の比喩は入れないほうがよかったですか、でも空気が針みたいで」

 「要点だけ言え!」

 ドゥシャンが怒鳴る。

 「はい! 濃度上昇、避難準備、旅人二組が谷口に滞留中! 以上です、応答願います!」


 水晶の光が収まる。


 しん、とした診療所で、ヘルヴァルトが眉を寄せた。

 「最悪だな。宿に泊めるしかない」

 「宿泊客、いないんじゃ」

 ナイメが言う。

 「今から来る」

 ドゥシャンが即答した。「しかも避難込みだ」


 診療所の整理表を見下ろし、ナイメは息を吐いた。宿の再建どころではない。着任二日目にして、宿泊客ゼロの宿を避難所として回せという話らしい。


 「私、まだ帳簿しか見ていないんですけど」

 「今日から現場も見ろ」

 「命令ですか」

 「依頼だ」

 「言い直しが早いですね」

 「必要だからな」


 ヘルヴァルトがにっと笑う。

 「ようこそ朝もやの村へ。歓迎催しは毒霧だ」

 「最低の歓迎ですね」

 「毎回これなら観光名所になるんだけどな」

 「なりません」


 それでも、もう足は宿へ向いていた。


 食堂を避難用に広く使うなら卓を寄せる。軽症者の休憩場所と、子どもや老人の待機場所を分ける。薬湯樽は空でも、湯だけは沸かせる。護符の残数を確認し、足りない分は谷口へ運ぶ人間を決める。頭の中に、やるべきことが次々と並びはじめる。


 三か月だけ、問題なく終えて帰る。

 そのつもりは、まだ消えていない。


 けれどその「問題なく」の中身が、王都にいた昨日とはもう違いはじめていた。


 出口の宿は、出口がない。

 なら、今いる人間で塞がった場所を開けるしかない。


 ナイメは請求書を帳場の引き出しへしまい込み、袖をまくった。



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