第1話 追放先は、朝もやの村でした
朝いちばんの宮廷事務局は、紙のにおいがする。
窓際の棚には、昨夜のうちに乾かされた羊皮紙の束が並び、磨かれた床には、まだ誰の足音も落ちていなかった。ナイメは戸口で一度だけ息を整えると、いつもの机へ向かった。目立たない席、目立たない役目、目立たない字。そこに座っていれば、大きな声の誰かの背中に隠れて一日を終えられる。そう思って、ずっと働いてきた。
机の上には、昨日の残りの伝票が三束。予算繰越の控え、薬材購入の承認願い、街道整備費の仮計上。どれも見慣れた書類だったが、その朝だけは紙の白さが妙に冷たかった。
最初に異変を運んできたのは、上役付きの書記だった。
「ナイメさん、すぐ来て」
「今ですか」
「今。できるだけ急いで」
急いで、と言いながら、その書記はナイメの顔をまともに見なかった。視線が、机の端に逃げている。嫌な予感は、こういうときだけよく当たる。
応接室の扉を開けた瞬間、ナイメは足を止めた。室内には局長補佐、会計監督官、神殿の立会役が三人、半円を描くように座っていた。机の中央には封蝋つきの文書、その横には金縁の小箱。神殿式の人事おみくじを入れる箱だ。
朝の書類仕事に似合わない顔ぶれだった。
「ナイメ」
局長補佐が、いかにも疲れたふうに額を押さえた。「困ったことになってね」
困ったことになった人間は、たいてい自分ではなく相手に責任を背負わせる。ナイメは返事を急がなかった。
「王都東部予算の整理に不備が見つかった」
「不備、ですか」
「君も関わっていた案件だ」
関わっていた。たしかに書類整理はした。けれど、決裁印を押したのは上役で、支払先を書き換えたのも、その下の監督官だ。ナイメは控えに残っていた筆跡まで思い出せた。
「私は計上済みの帳簿と、届いた伝票を照合しただけです」
「だが、最終的に整理を通したのは君の机だろう」
会計監督官が、あまりにも滑らかに言ったので、ナイメは一瞬だけ笑いそうになった。人は本当に、自分の足元が燃えたとき、ここまできれいな声で他人を火の前に立たせられるのだ。
「確認したい控えがあります。昨日の綴じ紐の――」
「必要ない」
言い切ったのは神殿の立会役だった。法衣の裾ひとつ乱れていない。
「今回の処置は、責任所在の追及と、欠員の補充を兼ねる。長引かせる暇はない」
「欠員、ですか」
「辺境の任地が空いている」
そこで初めて、小箱が机の中央へ押し出された。
神殿式の人事おみくじ。王都では、揉め事の多い転任や、引き受け手のいない仕事にだけ使われる古いやり方だ。公平という名目で責任を薄める道具、と言ったほうが正確かもしれない。誰が引いても、外れを引かされた者だけが損をする。
局長補佐は咳払いをした。
「辺境地帯ミストラント街道、朝もやの村。“出口の宿”管理人。欠員補充だ」
「……宿、ですか」
「宿だ」
「私は事務官です」
「帳簿が読める人材が必要なんだよ」
帳簿が読めるからといって、宿の再建までできると思うのはずいぶん都合がいい。ナイメは胸の内だけでそう言った。
「辞退は」
「可能だ」
一瞬だけ救いが差した、その直後だった。
神殿の立会役が別紙をひらく。白い手袋の先で、条文の一行を正確になぞる。
「ただし、神殿式人事おみくじによる欠員補充を正当な理由なく辞退した場合、違約金は三倍」
「三倍」
「遠任手当の前渡し相当額、加えて神殿管理費、加えて補充遅延損料」
「それ、私の一年分の――」
「そうだね」
局長補佐がうなずいた。「かなり痛い額だ」
他人事のように言うな、と喉まで出かかったが、飲み込んだ。ここで声を荒らげても、机を囲む四人は「感情的だ」と処理するだけだ。
結局、ナイメは小箱に手を入れた。
木札は一本だけだった。最初から決まっていたのだろう。引き当てたも何もない。掌に乗った札には、墨でくっきりと任地名が記されていた。
朝もやの村。出口の宿。
「おめでとう」
会計監督官が言った。
その瞬間、ナイメは本気で机をひっくり返したくなったが、代わりに札を丁寧に机へ置いた。悔しいときほど、手元だけは乱さない。そうやって今まで傷を浅くしてきた。
「引き継ぎ資料はありますか」
「最低限のものは」
「最低限」
「売上帳と、宿の権利証、広告料の請求書」
「広告料?」
「街道組合に払う掲載費だそうだ。旅人向けの案内板や街道冊子に宿を載せるための」
会計監督官が言いながら、封筒を押しやった。中身を見たナイメは、紙の角で指を切りそうになった。
請求額が、宿の規模に対して明らかに高すぎる。
「……桁が間違っていませんか」
「現地で確認したまえ」
「宿の直近売上は」
「そこにある」
薄い売上帳を開く。ぱらり、とめくった紙は軽かった。軽すぎた。宿泊数は月に数組、空欄ばかりが並んでいる。広告料の一回分にも届かない。
誰が見ても貧乏くじだった。
昼までに身辺整理を済まされ、午後には護送でもするような手際で駅馬車へ乗せられた。窓の外で王都の尖塔が遠のいていく。灰色の石壁、整えられた花壇、いつもなら何も感じない通りの色が、その日だけは妙に整いすぎて見えた。ここには戻れないかもしれない、と思ったせいかもしれない。
膝の上には、引き継ぎ用の包み。中には売上帳、請求書、権利証、そして神殿から渡された人事札。札の木目を見つめていると、これが誰かの人生を簡単に折るための道具にしか思えなくなる。
夕方、馬車は王都を離れ、街道の幅が少しずつ狭くなった。整った石畳は土混じりの道へ変わり、両脇の草は背を高くする。宿場町をひとつ越えたころ、御者が振り返った。
「明朝には谷へ入りますよ。朝もやの村は、その名の通り朝が白い」
「白い?」
「毒が混じるんです。濃い日は喉が焼ける。護符を持ってない旅人は苦労する」
軽い世間話の調子で言われ、ナイメはますます黙った。
翌朝、空がまだ薄青いうちに、馬車は谷あいの道へ入った。山肌に沿う細道は、夜露でぬれて鈍く光っている。風が吹くたび、下の谷から白い靄が流れ上がってきた。霧というより、濡れた布を裂いたような朝もや。きれいだと思った次の瞬間、鼻の奥にかすかな苦味がさした。
「護布を鼻に当ててください」
御者が短く言う。
慌てて布を口元へ寄せると、喉のいがらっぽさが少し引いた。こんな場所で、人は宿を営み、旅を続けるのか。請求書の数字より先に、その事実のほうが現実味を持たなかった。
やがて細道が開け、小さな村が見えた。谷を背にして石と木の家が寄り添い、屋根には朝露が白く残っている。道の先に立つ建物だけが、看板を斜めにぶら下げていた。
出口の宿。
文字は読めたが、板はひび割れ、最後の一字が欠けかけていた。
馬車が止まるより先に、背の高い男がこちらへ歩いてきた。肩に荷縄を巻きつけ、こちらの荷台を見るなり、勝手に手を伸ばしてくる。
「お、来たな。新しい管理人だろ?」
「え」
「荷物、こっち」
「まだ名乗ってもいませんけど」
「顔がそう言ってる」
言いながら、男は包みをひょいと担いだ。髪は無造作に束ね、笑う口元だけが妙に軽い。
「俺はヘルヴァルト。この村で運ぶ、直す、殴る、謝るを担当してる」
「最後のひとつが多くありませんか」
「よく言われる」
さらりと返され、ナイメは返事を失った。その横から、もう一人の男が歩み寄る。こちらは白衣めいた上着を着ていて、手には革の薬箱があった。顔立ちは整っているのに、表情が硬いせいで近寄りがたい。
彼はナイメの足元から頭の先までひと目で確認し、静かに言った。
「逃げるなら今のうちだ」
「は?」
「ここは、逃げる前の人間にだけ親切な村じゃない」
「親切に聞こえませんけど」
「事実だ」
声に脅しの色はない。ただ、本当にそう思っている目だった。
「ドゥシャンだ。診療所を預かっている」
「……ナイメです」
「知ってる。神殿経由で通達が来ていた」
朝もやが風にほどけ、三人の足元を流れていく。遠くで鐘が一つ鳴り、村の朝が本当に始まったのだとわかった。
ヘルヴァルトが荷を担いだまま宿の方角を顎で示す。
「立ち話してる場合でもない。お前が着いたってことは、あの請求書も着いたんだろ」
「見ました」
「だよなあ」
「かなり、高いですね」
「かなり、どころじゃない」
ヘルヴァルトが笑った。「村ごと首輪つける値段だ」
冗談めかしているのに、目は笑っていなかった。
ドゥシャンが続ける。
「着任日から九十日。初冬の審査までに正規広告料を納めて、宿の運営実績を立て直せなければ、この村は正式街道の補給地点から外される」
「外されたら」
「旅人が来ない。荷も減る。診療所も維持できない。村は消える」
消える。紙の上の比喩ではなく、人の暮らしが本当に。
ナイメは宿の看板を見上げた。割れた板のすきまから、朝の光が細く差している。王都で押しつけられた厄介仕事のはずだった。三か月だけ耐えて、できるだけ波風を立てずに終わらせて帰る。そう決めていたのに、村の入口で突きつけられた現実は、その考えを薄く削っていく。
「……まず、宿の帳簿を見せてください」
気づけば、そう言っていた。
ドゥシャンがほんのわずかに眉を上げる。ヘルヴァルトは荷を担ぎ直し、口笛を吹きかけてやめた。
「その言い方、ちょっと安心するな」
「何がですか」
「逃げる人間は、帳簿の話をしない」
ナイメは答えなかった。
ただ、宿へ向かって歩き出した。
朝もやの村へ入る一歩目は、思ったよりも冷たかった。




