【第8話】任意
任意という言葉は、自由の顔をしている。
若者のログは、相変わらず整っていた。
《自傷確率:8%》
《社会復帰予測:安定》
《再発率:低》
《幸福度指標:向上》
白い画面。赤はない。
天城は指を止め、数値を上から順に見直した。
意味は同じなのに、順序を変えて読む。
理由はない。
ただ、習慣になってしまった。
背後で紬が覗き込む。
「完璧だね」
「統計上は」
天城がそう返した瞬間、端末が短く震えた。
《介入案件:成功登録》
《担当評価:+0.8》
《支援精度:維持》
《推奨遵守率:良好》
拍手は鳴らない。
誰も褒めない。
数値だけが増える。
天城は通知を閉じる。
「加点されるんだ」
紬は淡々と言った。
天城は答えない。
加点されるのは、天城だけではない。
社会が、加点される。
モニターには月次の指標が流れている。
《自殺率:過去最低》
《幸福度指標:上昇》
《社会生産性:改善》
人々は立ち止まらず、通り過ぎる。
天気予報を見るのと同じ速度だ。
⸻
再面談の日、若者は時間ちょうどに現れた。
背筋は伸びている。
服も整っている。
声は穏やかで、無駄がない。
「職場には戻れましたか」
「はい。配置も変わりました」
「睡眠は」
「取れています」
質問に即答する。
迷いの音がない。
天城は端末を傾けた。
「実感はありますか」
若者は少し考えて、言った。
「特に、何も感じません」
穏やかな声だった。
表情も柔らかい。
「でも、前よりは楽です」
天城は頷く。
《自己評価:安定》
《社会適応:良好》
若者が、確認するように言う。
「これが、正しいんですよね」
天城は即答した。
「統計上は」
若者は小さく頷く。
「じゃあ、大丈夫ですね」
目は、どこも見ていなかった。
⸻
若者が去ったあと、端末に通知が積み上がった。
《成功事例:月次報告対象》
《支援継続率:上位》
《センター内指標:改善》
その下に、いくつかの選択肢が並ぶ。
《成功事例掲載:任意》
《本人匿名化:任意》
《家族共有:任意》
任意。
拒否できる。
選べる。
ただ、注記もある。
※未提出の場合、評価算定に影響する可能性があります。
※共有がない場合、支援最適化に時間を要する場合があります。
天城は画面を閉じた。
任意。
それは自由だ。
なのに、選ばない理由を説明しなければならない。
⸻
ロビーへ降りると、紬が自販機の前に立っていた。
第2話と同じ場所。
今日も、何も買わない。
「ねえ」
紬が端末を差し出す。
《監視対象:紬》
《優先度:低》
《信用スコア:微減》
《推奨未実行回数:6》
《行動予測精度:低》
《未来確定率:算出誤差大》
数字はある。
欄は埋まっている。
ただ、読めない。
天城は画面を見たまま言う。
「未実行が増えている」
「うん」
紬は軽く頷く。
「減らす気はないのか」
「ない」
即答だった。
「……」
天城は何か言いかけて、やめる。
言葉の代わりに、端末を持ち直した。
紬が笑う。
「選ばないって、贅沢だよね」
声は軽い。
皮肉でもない。
責めてもいない。
ただ事実を述べるみたいに。
天城は返さない。
贅沢、という語だけが喉の奥に残った。
紬は出口へ歩き出す。
「仕事、続きでしょ」
天城は後を追う。
⸻
センターの自動ドアを抜ける直前、端末がもう一度震えた。
《担当評価:+0.8》
《次回案件割当:優先》
優先、という言葉が目に入る。
紬の画面には、低優先度。
若者の画面には、安定。
都市のモニターには、過去最低。
全部、正しい。
それでも天城は、空調の温度設定に指を伸ばしそうになって、やめた。
ここはロビーだ。
温度は自動で最適化されている。
《室温:最適》
画面が告げる。
天城は端末を閉じる。
任意。
優先。
低精度。
成功。
雨は降らない。
予報は外れていない。
――それでも、折れ目は消えない。
「任意」は自由です。
ただ、自由はいつも、少しだけ現実的ではありません。




